夜明けを駆けるうんち
延期
夜明けを駆けるうんち(上)
私の家は躾が厳しかった。音を立てて椅子を引いてはいけないとか、食事に箸を付けるの父親からとか。今から思えば、我が家だけ一世代教育方法が遅れていたとしか思えない。ともかく、そのために当然言葉遣いも丁寧なものとなった。丁寧になるよう矯正された。彼らの教育の賜物によって、大人になった今でも美しい日本語遣いができている。
例えばーー。
「はあ、うんちだあ…」
「クソ」だなんて、はしたない。そう言われた私は「クソ」と呟くときは、「うんち」と丁寧に言うようになった。そもそも、「うんち」という言葉自体がそこそこはしたない言葉だと思うのだが。いや、そもそもの話なら、「うんち」は「原義としての排泄物」の意味性が強すぎる。いっそ「クソ」のほうがある意味綺麗な言葉に感じる。しかし、私は「うんち」を使うことをやめられない。教育とは恐ろしいものだ。
「なんでこんな…うんち過ぎる」
私の頭蓋の中にはうんちが詰まっているのだろうか。メモしたはずの期日が二日も違っていた。復唱確認したはずなのに、手帳に書き込んだ日にちが違うというのはさすがに我が目を疑う。
「前村さん、手伝うことある?」
先程の独り言を聞かれてしまっただろうか。仮に聞かれても「そんな、前村さんのようなおしとやかな女性がそんなこと言うわけないでしょ」と思ってくれているはずなので問題ない。
「私のミスですので…。いえ、やっぱりお願いしても良いですか」
今は体裁やらプライドなんて構っている状況ではないのだ。
「気にしないで。それで、なにやれば良い?」
「ええっと、じゃあExcel関数使ってちょっと抜き出したいデータがあるんですけど、それ頼めます?」
「オッケー! 条件教えて」
同期の佐伯さんが定時退社を引き換えにして、私の手伝いをしてくれることになった。
優秀な佐伯さんを引き入れることによって、ポンポンと驚くほど順調に仕事が進んでいった。有り難いことに、期日の明日までかなり余裕を持って問い合わせ内容の調査が終わった。
「ふぅー。終わった?」
「後は委託の方にファイルを送るだけです。ほぼ終わりですね」
「いやーお疲れー。もう晩御飯の時間もすぎちゃったねー」
「もうすぐ九時ですもんね。本当にすみません…」
「あー。いやいや、そんなつもりじゃなくてさ、ご飯行きたくない? 今日は華金、つまり華の金曜日。私たち頑張ったんだしさ、お酒呑もうぜ」
お酒と聞いて何故か下腹部に圧迫感を覚えているのに気づいた。
「是非奢らさせて頂きます」
「あー。そういうつもりじゃないよー! 安心して、私そこまでがめつくないから」
そう手を振って佐伯さんは破顔する。
「いえいえ、そう言われたら全部奢りたくなります」
「なんでなんで」と笑いながら「じゃあ、一杯だけ奢ってもらえる?」と愛嬌のあるウィンクをする。媚びた風でもない自然な所作でするから、同姓の私でも少しドキドキしてしまった。
「ええ、よろこんで。あ、送り終わりました」
「よっし。前村さん好きな食べ物ある?」
「ええと、和食?」
「それ、食べ物って括り? まあ、私はお酒呑めれば何でも良いかな。ちょっと待ってね、お店探すよ」
「…あ、すみません。ちょっとお手洗いに」
「はいはい」
私は事務室の扉を閉めるとトイレに駆け込んだ。驚いた。急に尿意を催したのだ。作業に集中していたせいで、トイレに行くことを失念していたのだ。
「また、うんち…」
もう、駄目だ。
正確にはおしっこ。丁寧に言えば「お小水」だろうか。なんと、少し漏れていたようだ。恐ろしいことに放尿中にそれを認めてしまったのだ。見つけたくはなかった。「なんと」ではないぞ、私の下腹部の筋肉はどうなっているのだ。もっと締まっていけよ、筋肉。
それにしても、大人のレディがお漏らしだなんて、もう一生ものの心の傷だ。
「うんちが、増えた」
どうしようもない出来事に遭うたび、「うんち」と言ってしまう。「うんち」という言葉が一つ一つ溜まっていく。うず高く積もった「うんち」は山になって便器に溜まり、水に流れることはない。蓋で閉めるしかない。しかし、蓋をしても時々臭って、その「うんち」な出来事を思い起こさせるのだ。きっと、いつか漏らしたことを急に思い出して悶絶する時が来る。
染みの着いた下着をトイレットペーパーで可能な限り拭き取る。しかし、尿の跡は取れなかった。仕方ない、きっと臭わない。大丈夫。私は行ける。
「許して佐伯さん」
あなたの隣で呑むことになるのはお漏らし女です。
「すみません、遅くなっちゃって」
「いいのいいの。私もお店迷ってたから」
「お店も任せちゃって」
「ふふっ、好きな店選ぶからおあいこで」と言って申し訳なさそうな顔をする。「ごめんなんだけど、やっぱここ近くにあんまお店ないし、金曜日で予約とれなくて…」
「なんか呑むとこ少ないですもんね、田舎寄りですし」
「ほんとだよね。そんなわけで行けそうなお店がちょっと料理が口に合わないかも」
「ところで、どんなお店なんですか?」
「ジビエ? 料理」
彼女は言いにくそうに答えた。
「…本当にジビエですかね?」
「ごめんなさい珍獣料理店です」
「そ、それは」
そんなお店が近所にあるとは。ところで、珍獣とは何の肉を出すのだろうか。
「食べれる、かな? 私は何回か行ったことあるし、全然イケるんだけど」
佐伯さんの意外な嗜好を知ってしまった。
「行きましょう」
思わず答えていた。できれば熟考して欲しかったよ、私。ただ、佐伯さんとじっくり話す折角の機会を無駄にはしたくなかったのだ。
「え?」
「行きましょう。人生は経験です」
「ほ、ほんとに?」
嘘です。申し訳ない。
「善は急げです。行きましょう」
私たちは道すがらに電話予約をして、件のお店へ向かった。
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