第二話 ときの港 2

 ふわりと鼻をくすぐったのは珈琲の匂いだった。

 暗い色の木板の壁に、柱から柱を青を基調とした飾り物が彩っている。港の喫茶店だからなのか、窓際や棚は海をモチーフにしている人形で溢れかえり、時折、波の音が聴こえた。


 天井から下がる白いクジラの切り絵、桃色の小さな魚、夜空を象った天井。


 なんだか別の世界にきたような感覚がして、無意識にゆっくりと足を踏み入れた。

 扉を開けた目の前に会計、右手にはカウンターとテーブル席。奥は大きな硝子張りの窓で、ぼくが大好きな海が遠くまで広がっていた。

 「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」

 片眼鏡を掛けたスレンダーな店員さんが笑顔でぼくを促した。黒の詰襟のシャツに着物の羽織という姿は、道を歩いていると浮きそうなのに、なぜだかとても喫茶店に馴染んでいた。

 お好きな席へと言われたけれど、ひとりでテーブル席に座るのは何となく居心地が悪い。端っこのカウンター席に腰を下ろしたけれど、それでも逆に店の調理場が正面に見えてしまって少しだけ申し訳ない気持ちになる。それを誤魔化すように席ごとに置いてあるメニュー表に手を取って、とりあえず祖母が嗜んでいたという珈琲を注文すると、店員さんと目が合った。

 「京子さん……の、お孫さん?」

 海を閉じ込めた色をしていた。不思議な瞳だ。

 「ああ、はい。世良京子はぼくの祖母です。美代子さんからこの店の珈琲を勧められて」

 「そうかぁ、そうですか。京子さんのお孫さん……わざわざありがとうございます。ゆっくりしていってくださいね」

 このひとは、祖母を知っている。そう思うと何かの感情が溢れてきた。戻る店員さんを呼び止めようと手を伸ばしたけれど、思い止まる。

 祖母はどんなひとだったのだろうか。尋ねてみたい気持ちもあったけれど、お仕事の手を止めてしまうのは些か気が引けたので想像に留めて、代わりに窓の外を眺めることにした。

 一面に広がる青い、蒼い、海。近くには遊具があって、またその隣には草原と、スケートボードが出来そうなくらいの広場がある。

 一時期はペットボトルやらプラスチックやらのごみで汚れていた海だったけれど地域の子供会の活動のお陰で、今は随分澄んだ青だ。海に流れているごみを見ると大概機嫌を悪くした祖母を思い出す。

 『自然にごみを捨てるやつはろくな人間じゃないよ』

土に還らないごみは環境を悪くする、環境を悪くすると生き物が住めなくなる、その生き物の中には人間も含まれているんだと、別にぼくが捨てたわけじゃないのに長い説教が始まってしまうのだ。

 『地球の三割の陸地でしか生きていけないのに、陸地の倍以上もある海を全て知り尽くしているわけがない。我が物顔で海を侵略しようとしても、いつか人間は海に呪われて死ぬんだよ』

子守唄替わりにそう説くものだから、幼い頃はひとりで眠れない夜が続いたこともあった。

 今思えば、祖母は本当に海が好きだったんだろう。

 「お待たせしました、珈琲です」

 そうやってしばらく眺めていると注文した珈琲が届いた。

 店内を包む芳ばしい匂いが一層強くなる。ありがとうございます、と会釈した後、一口だけ口に運んだ。かっこつけてブラックそのままで飲んだけれど、ぼくには少しだけ早かったらしい。それでもほんの少しある甘さと淹れたての温かさが心をいっぱいにした。

 「ときの港でしか飲めないブレンドの珈琲なんです。どうですか?」

 「ちょっと苦かったけど、とても美味しいです」

 そう応えると、店員さんは紫陽花のような優しい笑顔を浮かべた。


 夕日の茜色が海面を照らしている。お客さんを乗せた船が港に到着して、制服姿の女の子やスーツの男性がぽろぽろと港を出ていった。数分後に昼と同じメロディが時計塔から響いて、港の奥にある公園で走り回っていた子供たちが一斉に帰り出す。

 茜色の光が少しずつ弱くなり、今度は空と海が同じ藍色に変わっていく。

 何気無く自分の携帯に目をやると、喫茶店に来てから一時間近くが経つことにようやく気がついた。

 さすがに帰らないと家族が心配するだろうか。

 帰らないといけない。

 それは分かっている。

 けれど。

 (帰りたくないなぁ……)

 明日もバイトはある。また明日来ればいい。そう思ってしぶしぶ重い腰を上げたときだった。


 桃色の小さな魚が、目の前を通り過ぎた。


 天井から吊り下がっている切り絵が落ちてきたのだろうか。そう思って桃色の魚に手を伸ばしてみたけれど、まるで本当に生きているかのように綺麗に避けられてしまった。

 来た時はただの紙切れだったのに、と天井を見る。確かにそこには切り絵が吊り下がっているままで、目の前の魚はまるで生きているのだ。

 気になって捕まえようとしてみたけれど、やっぱり天高く逃げられてしまう。

 まるで狐につままれた気分だ。何となく面白くなくて、硝子越しに外を見やった。

 五時を知らせる時計塔の音はさっき鳴ったばかりなのに、硝子窓から見える外は完全に日が落ちて、辺りは真っ暗闇に包まれていた。点々とある街灯だけが帰り道を照らしている。

 そんな動かない街灯のなかで、ひとつだけ海に向かって動いている光を見つけた。

 冬用のセーラー服を着た女の子。

 片手に持って歩いている懐中電灯が動く光の正体らしい。

 年頃の女の子にしては短い髪が冬風になびいている。コートも着ていないしマフラーも巻いていないので首元が寒そうだ。

 そんな彼女の足取りはそのまま停泊所に向かっていた。

 もう船は出ない予定なのに、一体何しに行くんだろう。

 不思議な心地でしばらく眺めていると、彼女は停泊所に着くなり、船と陸を繋ぐ橋ぎりぎりのところでしゃがみ込んだ。

 危ないな、落ちそうだなと思っていると、危惧した通り彼女は頭から海に落ちていった。


 落ちていった。


 「わあああああ!!」

 落ちた?! 海に?!

 あれは事故? それとも故意? ぼくの幻覚?

 そんなことを考えている暇もなく、ぼくは真っ先に外に飛び出していた。店員さんの声が聞こえた気がするけれど聞こえなかった振りをする。

 事故にしろ故意にしろ幻覚にしろ、本当にひとが落ちたのなら冬の海はきっと冷たいはずだ。

 (助けなきゃ)

 ぼくはその一心だった。

 階段を転げるように駆け下りて、ぼくはそのまま停泊所まで夢中で走っていく。

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