懐古屋浪漫
喜岡せん
第一章
始める前に
第一話 ときの港 1
冷たい風が、ぼくの頬を撫でた。
今期一番の冷え込みとなるでしょう。そう謳うテレビが示した気温は一桁を切っている。
朝起きると眠気覚ましに真っ先に自室の窓を開けるのが日課だ。冬の冷気は何だか清浄された雰囲気を纏っているので自ずと目が冴える。
暫く冬の風を感じたあと、今日の予定を思い出して少し慌てて扉を閉めた。今日は休日だけれど、訳あって朝早くから家を出なければならないのだ。急いでリビングへ向かい、母が作ってくれたフレンチトーストを口に頬張る。ゆっくり味わいたい気持ちを押し切って牛乳で流し込んだあと、再び自室へ戻って外出用の衣服に着替えた。
何気無く習慣で眺めているカレンダーには、冬休みの期間と、今日から一週間のアルバイトを示す矢印が書かれていた。
財布と、携帯と、ハンカチと、その他諸々。忘れ物がないように確認をしてリュックサックに詰める。
「お母さん、行ってきます!」
そうしてぼく、
これは、そんなぼくが体験した、少し不思議で奇妙な物語。
ときの港は、遡れば江戸時代から小さな町の中心にある、歴史的に古い港だ。時代の流れに合わせて何度も改修工事がなされているので、今でも港を使うひとは少なくない。
「おはようございます!」
「お、元気がいいねぇ、おはよう」
到着するなり道行く人に挨拶をしていると、港を使っている漁師さんたちからお褒めの言葉をいただいた。
挨拶は人間としての基本だ。普段は何事にも寛容な両親にも、それだけは幼い頃からずっと厳しく言われている。
『広場』とみんなが呼んでいる道を抜けて、売店に向かう。今日からのバイト内容は、簡単に言うと売店の売り子なのだ。
「ありがとうねぇ、新くん。来てくれて助かったわ」
そう言って出迎えてくれたのは、ぼくよりも二回りも三回りも歳が離れている『美代子さん』だった。美代子さんと一緒に生前の祖母も売店で働いていたことがあり、その繋がりでぼくも何度か話をしたことがある。「美代子ちゃん」「京子さん」と親しく会話していた風景を思い出して、ぼくは少しだけ安堵した。歳が離れているとはいえ、知り合いがいるのは心強い。よろしくお願いします、と深々と頭を下げると、美代子さんはにこやかに笑った。
レジの打ち方、商品の値段、お客さんの対応の仕方などなどを一通り教えてもらったあと、早速ぼくの仕事が始まる。
来店するお客さんに挨拶をして、少しだけお話をしたり、意味も無く時計の針を眺めたり、慣れないレジ打ちにあたふたしたりとしているうちにお昼の鐘の音が鳴った。
港の傍に立つ、大きな時計塔が音楽を奏でている。造られた当初は真新しいものにみんな揃って目を丸くしていたけれど、今はもう風景の一部になっている。
「昔はあんな時計塔無かったんだけどねぇ」
美代子さんは懐かしそうに海を眺めていた。
昔、というほど時計塔が造られたのは昔ではない。ぼくが小学生だった頃にはまだ存在していなかった代物だ。
けれど毎日のように港に通う美代子さんにとっては、時計塔のなかった港が古い記憶なのかもしれない。
そうやって懐かしんでいる美代子さんは、何かを思い出したように微笑んだ。
「そうそう、京子さんってば、時計塔が立てられたときにはそれはもうひどく不機嫌で、『似つかわしくない』だなんて言って何日かお仕事を休んだことがあるのよ。あの人、昔からの風景とか文化とかを大事にするひとだったじゃない? わたしもだけど、何より周りの漁師さんたちがひどく慌てちゃって」
大変だったわ、と美代子さんはけらけらと笑った。
生前の祖母は、言ってしまえば気難しいひとだった。礼儀作法に厳しくて、箸の持ち方から鉛筆の持ち方、お茶の飲み方までこと細かく教えられた記憶がある。厳しい祖母だった。けれど、そんな祖母がとても大好きだった。
「亡くなられたと聞いた時はとても驚いたし、哀しかったわ。けれど、何故かしらね。京子さんはまだここにいる気がするのよ。見えていないだけできっと居るわ」
「……そうしたらぼくたちの会話は筒抜けですね」
「あらやだほんと! きっと私たちが死んで京子さんと同じところに行ったら、開口一番に怒られちゃうわね」
それはそれで良いかもしれない。そう応えると「それでこそ京子さんだものね」と、これこそ祖母にいちばん怒られそうなことを笑って言った。
お客さんが来て、商品を並べて、レジ打ちをして、またお客さんが来る。
ぼくは人生で初めてコンビニの店員を尊敬した。ぼくもあんな風にスマートにお釣りを渡せたらいいのに、何故かいつもぎくしゃくしてしまう。
いろんなものに悪戦苦闘しているとあっという間に終了の時間になってしまった。今日のバイトは反省ばかりが残るものだった。
「すみません、ぼく、仕事が遅くて」
「そんなことないわ、新くんがいてくれて本当に助かったもの。また明日もお願いするわね」
心優しく励ましてくれた美代子さんの言葉に感謝をしつつ、不甲斐ない自分を責めつつ帰宅しようと荷物をまとめていると、「そう言えば」と美代子さんはぼくを呼び止めた。
「せっかくだから上の階に顔を出してみない? 喫茶店になっているのよ。仕事終わりはいつも京子さんと珈琲を飲みに行っていたわ」
美代子さんにそう言われて、ぼくは初めて建物が二戸建であることを認識した。
「何があるんですか?」
「色々よ。私たちは珈琲ばかりを頼んであとはずっとお話をしていただけなのだけど、店員さんがとっても優しくてキュートな方なの。無理にとは言わないけれど」
「いえ、ありがとうございます、行ってみます」
時間を確認すると、丁度夕方の四時頃を指していた。港から家まではそう遠くないし、何よりあの気難しい祖母が珈琲を飲みながら談笑をしていたという喫茶店なのだ。俄然湧いてきた興味を抑え込む用事も特別無い。
美代子さんに教えてもらった喫茶店への入口は、人ひとりが入れるくらいのとても狭い階段だった。木製で出来ている階段は踏み込む度にギシギシと木の音を鳴らす。
祖母もこの階段を上ったのだろうか。
心を捉えて離さない好奇心のまま階段を上り切ると、木製の開き扉にネームプレートがぶら下がっていた。
『懐古屋』
必要なのか分からなかったけれど、こんこんこん、と三回、扉をノックして、ぼくはそのまま喫茶店への扉を開いた。
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