第5話 その相談者、傍若無人

 トランプにはジョーカーが二枚ある。では、何故二枚あるのかを考えたことはあるだろうか。

 一枚を無くしてしまった時の予備説、光と影を表す表裏説、元々は一枚だったがイカサマのために増えた混入説。など、いろいろな憶測が飛び交っている。

 では何が真実なのかと言えば、実は確たる説が無い。そもそも起源もあやふやで、十四世紀後半のヨーロッパで生まれたというのも推測の域を出ない。

 しかしその中で、とても有力な説が一つある。

 それは、閏年うるうどし説、だ。

 トランプはジョーカーを除き、十三までの数字と四種類のマークで構成されている。

 そして十三×四の五十二枚は、一年間の五十二週を表していると言われている。

 さらにこの五十二枚の数字を全て足すと、三百六十四になる。

 そこに一枚のジョーカーを足して三百六十五にすれば、一年の日数が完成する。

 最後に、四年に一度訪れる閏年うるうどしに合わせてジョーカーをもう一枚追加し、三百六十六枚で一組になった……という憶測である。

 確かに納得できそうな筋立てではあるが、俺はこの説に少しだけ違和感を抱いていた。

 閏年うるうどしという特別な日にジョーカーを当てるのは納得できる。けれどそれでは、数合わせのために足されたほうのジョーカーは中途半端な存在となるだろう。三百六十六枚目という特異さが無く、三百六十五枚の中で普通として扱うには異彩だ。

 同じジョーカーなのに、二枚のジョーカーには存在理由に違いがある。

 これを物語に置き換えると、主人公は間違いなく二枚目のジョーカーだ。三百六十五枚に紛れ込んでいるような、普遍と隣合わせの存在ではない。

 とは言え二枚目のジョーカーが存在するためには、一枚目のジョーカーが必要となる。

 それは主人公のライバルかもしれないし、いつも隣で支えるメインヒロインかもしれない。

 どのような形にせよ、主人公を引き立てる存在となる。

 つまり、引き立て役がいるから主人公は存在できるとも言えるのではないだろうか。

 重要な役割が当てられているならば、サブキャラにも主人公と同等の価値があるのかもしれない。



 一学期の期末テストが足音を立てて歩み寄ってくる六月下旬、命相部では連日勉強会が開かれていた。活動時間よりも暇な時間が多くを占めるため、テスト前に追い込みをかけるのは恒例の流れである。

 一年生の頃は霞ヶ丘と共に黙々と長机に向かっていたが、今年は少し違う光景を見ることになりそうだ。

「ごめん須美、これまったく分からねぇ……」

「どれー?」

 月城が入部したことにより、俺達の日常には変化が生まれた。

 無言の勉強時間など過去の産物。苦手な部分を霞ヶ丘に教えてもらうといった、会話のある勉強へと様相を変える。

 月城が地学の過去問を参照し、理解していない内容を読み上げる。

「図の三を参照。余震は、本震を発生させた断層面に沿って発生することが分かっている。この地震の余震の震央分布から、断層はほぼ北東ー南西方向に延びていたことが分かった。また、余震の震源の深さは二十キロメートル以内のものがほとんどであった。本震を発生させた断層に関する文として最も適当なものを選択肢から一つ選べ。……ってやつだけどさ、そもそもなんで断層はほぼ垂直なのかってのが分からなくてよ……」

「あぁー。それはねー、頭の中だけで考えても分かり難いかなー。……ほらー、こうやって図にするとー、理解しやすいでしょー?」

「おぉー……、なんとなく分かった気がするかもしれないぜ」

「すごーく曖昧だねぇー……」

 二人の会話を耳に挟みながら俺も苦手分野の勉強を行う。分からない問題に詰まった時、学力優秀な霞ヶ丘に訊けるというこの状況は活かすべきだ。

 立ちはだかる文字列に脳が疲労を訴え始めた頃、コンコンコンと扉をノックする音が聞こえた。

「はい、どうぞ」

 顔を向けて入室を促すと、扉を開けて皿糸先生が姿を見せる。

「失礼しますね」

 身長を少しでも高く見せる厚底のヒールを履き、床をカツカツ踏み鳴らしてこちらに歩み寄る。長机を挟んだ対面、相談者用の椅子に座った。

 命相部の顧問ではあるものの、相談に立ち会ったりするわけではないのであまり部室には顔を見せない。こうやって部室に訪れる時は、何らかの要件を持ちかけてくる場合がほとんどだ。

 込み入った話になると想定し、教材を閉じて声をかける。

「今日はどうしたんですか?」

「部活とは関係ないのですけれど、皆さんに私的な相談があって来たのです」

 皿糸先生は脇に抱えていたクリアファイルを開き、紙束を取り出して長机に置く。ホッチキスで小冊子風にめられた表紙には、『林間学校のしおり』と記載されていた。

 俺達三人が視線を向けたのを確認して言葉を続ける。

「そうですねぇ……。月城君はそもそも知らないことが多いので、一応経緯から説明します。まず私には、小学校で教師をしている妹がいます。そして今週の土日に、妹の受け持つ学年で林間学校があるのです。他にも数人の教師が同行するのですが、急遽別の予定が入ってしまったので人員を割くことになったのです。その結果同伴する人手が足りなくなったので、信用できる人に手伝いをお願いしようとここへ来たのです」

「皿糸先生、急に現れて何を長々と語っているんですか。まるで物語を進めるための便利なサブキャラみたいですよ」

「渡刈君は何を言っているのかしら……?」

「特に意味はありません」

 思わず溢した無駄口を自分で流す。皿糸先生も追及は不要だと判断して説明を続ける。

「今も期末テストへ向けた勉強をしていたのでしょう? 勉学を疎かにさせてまでお願いするつもりはありません。それに妹から持ちかけられた私的な相談なので、内申点などにも全く反映されません。正直なところ、数字的なメリットはほとんど無いのです」

 依頼内容だけでなく事情も隠さずに話し、交渉材料は無いと打ち明けた。

 内容を噛み砕いた月城が説明の補足を求める。

「具体的にはどんなことをすればいいんですか?」

「荷物の運搬やレクリエーションのサポートといったところかしら。それと、子供達を見守っていてほしいというのが一番ね。少し目を離した隙に何が起こるか分からないから、見張りの目は多いほうが安心できるわ」

「分かりました、そのぐらいでしたら問題ありません。手伝いを引き受けましょう」

「そんな簡単に決めてしまっていいの……?」

 月城があまりにもあっさり了承したため、皿糸先生がポカンと口を開いた。

「もちろんです。たまに豊かな自然に囲まれるのもいいですよねえ。勉強ばかりで疲労が溜まってきたところなので、気分転換に丁度良いくらいですよ」

 あっけに取られる皿糸先生に、月城があっけからんと理由を述べた。快く引き受けたその横顔をチラと目に映し、深層心理を推し量る。

 気分転換も嘘ではないのだろうが、おそらくただの建前でしかない。困っている人は助けて当然だと、それ以上の理由を求めない。

 見返りもメリットも必要無い。目の前で困っている全ての人を救おうとするのが、主人公と呼ばれる者達の習性なのだ。

「わたしもお手伝いするよー」

「霞ヶ丘さんまで……。ええ、ありがとうございます。それでは、また後日に詳細を連絡しますね」

 目的を果たした皿糸先生が、感謝を述べて部室を後にする。

「……あれ?」

 すると、扉が閉まったところで月城が疑問の声を上げた。

「渡刈はどうするんだ? 参加するともしないとも言ってなかったよな」

「あぁ、俺はいいんだ。なんならもう参加が決まってるだろうな」

「どういうことだ……?」

「皿糸先生は俺の従姉妹いとこなんだよ。両親とも皿糸姉妹に甘いから、き使っていいとくらい言ってるに違いない」

「マジかよ。衝撃の事実だぜ」

「関係性を話す場面も無かったしな」

「一応確認するけど……、参加を半強制的に決められて嫌だったりするか?」

「嫌とは言ってない。自ら参加する意思を見せられなくて残念なだけだ」

「男のツンデレはいらねぇぜ……」

 月城が呆れ声を出し、命相部全員の林間学校への参加が決まった。



 金曜日の夜に着替え等の必要な物を鞄に入れ、翌土曜日はいつもより少し早めの朝を迎えた。身支度を整えて家を後にし、命相部組の集合場所である差江崎高校へと移動した。

「おはようございます」

「はい、おはようございます」

 シルバーのワゴン車の隣に立っていた皿糸先生に挨拶を交わし、余分な物が一つも無い綺麗なトランクに鞄を積む。

「皿糸先生はずいぶん早くに着いていたんじゃないですか?」

「ひばりと一緒に朝の準備をしましたからね。小学生や教員達は、もうすでに現地へ向かっていると思いますよ」

 皿糸先生はしおりを広げてスケジュールを確認しながら、俺の発言の気にかかる部分を拾い上げる。

「ねぇ渡刈君、休日くらいは下の名前で呼んでもいいのよ?」

「いえ、先生呼びに慣れたのでいいです」

 確かに今回は、 先生と生徒という立場で行動するわけではない。呼び名はプライベートで使用しているもので構わないだろう。けれど、今や自然と口に出てくる呼称は先生のほうだ。

 それこそ入学してすぐの頃は、こより姉さんと何度も呼び間違えて大変だった。周りの連中から「幼女を姉さん呼ばわりするヤバいやつ」として白い目で見られたのは忘れない。連中だって幼女認定してるんだから同罪だろ。

 皿糸先生はその思い出には触れず、なおも名前呼びさせようとからかうような声を出す。

「あちらに着いたら、もう一人の皿糸先生がいますよ」

「ひばり姉さんはひばり姉さんと呼ぶので大丈夫です。ひばり姉さんだって、俺から皿糸先生だなんて呼ばれても違和感バリバリだと思いますよ」

「うむむ……、呼び分けができるのなら仕方がないわねぇ……」

 若干残念そうな声音で諦めたところで、月城と霞ヶ丘が姿を現した。

 二人の荷物もトランクに積み、後部座席に月城と霞ヶ丘、助手席に俺、運転席に皿糸先生が乗り込む。

 皿糸先生は最大まで上がっているシートに座り、ハンドルを下げて位置を調節する。

「それでは出発しますね」

 俺達に合図を送り、アクセルを踏み込んで車を動かした。

 その様子を見て月城が戸惑いがちに声を出す。

「なんか……、違和感が凄い」

 違和感を抱くのも無理は無い。高校生の俺達から見ても皿糸先生は幼く見える。

 贔屓目ひいきめで見ても中学生、もっとストレートに言えば小学生でも通用する。若いどころではなく幼い。

 そんな人間が車を運転しているのだ。ミスマッチもいいところである。

「先生……、とても失礼だとは承知していますが訊かせてください。警官に止められたりしたことはありますか……?」

 月城が恐る恐る質問すると、皿糸先生は重々しく口を開いた。

「……四回あるわ」

「よっ……! 四回!?」

 月城が驚きに目を見開く。想像を超えて多かったのだろう。

 その内の一回は俺も乗っている時だった。新米の警官が免許証の提示を求め、皿糸先生が自分よりも年上だと分かると「えっ、年上!? えっ?!」と面白いくらいに驚いていた。奇異なものを見る目を向けたあの顔は今も忘れない。

 そんな出来事を乗り越えて車を運転する大人な皿糸先生には、この林間学校で一つ伝えておかなければならない注意事項がある。

「皿糸先生、間違っても小学生の集団には混じらないでくださいね。見つけられなくなると困るので」

「ねえ渡刈君。走行中の車で事故が起きた場合、一番死亡率が高いのは助手席だと知っているかしら」

「もちろんです。あれ、なんだかちょっと左に寄ってきてませんか? 白線内は中央を走ったほうがいいですよ」

「まったく……、欠片も懲りるつもりが無いようね……」

 お互いに冗談の通じる範囲でからかい合い、安全運転第一で山へと向かった。



 三十分ほど車を走らせて街を抜け、草木が立ち並ぶ山道へ入る。ガードレールの向こうには崖が広がっており、日常のすぐ隣には死が潜んでいると思い出させた。

 平穏な毎日を送っていると忘れそうになるが、命を脅かされる危険などいくらでも起こり得る。

 皿糸先生は平常心で運転しているし、俺達三人も信頼を寄せて乗車している。しかし、ほんの一瞬だけ非日常が顔を覗かせるだけで、平穏などいとも簡単に崩れ差ってしまう。

 例えば皿糸先生がハンドル操作を誤ってしまったり、俺達三人の誰かが皿糸先生にちょっかいを出すだけで事故に繋がる。あるいは、対向車が突然追突してくるかもしれないし、崖崩れが起きて巻き込まれてしまうかもしれない。

 事故の原因なんて想定しきれないほどに存在していて、一瞬ごとにそれらを運良く回避して日常を過ごしているだけに過ぎない。

 それは、普段気が付かないだけでとても幸運なことだ。

 今この瞬間にも、世界のどこかでは事故が起きている。つい一瞬前まで自分に不幸が訪れるなど考えもしていなかっただろう。

 それは誰もが同じだ。

 俺だって、この走行中に事故が起きるとは思っていない。

 けれど、絶対に大丈夫な保証などどこにも無い。

 連日報道される悲運な事故の当事者に、自分はならないという保証などどこにも存在しない。

 俺達は常に、何も起きないだろうという楽観的な願望の上で生きている。

「はーい、到着しましたよー」

 俺が事故死の可能性について思いを巡らせていると、目的地へとたどり着いて皿糸先生が駐車場に車を駐める。他にも数台の車が駐まっており、一般の利用者もいるのだと確認できた。

 各々がドアを開けて車から降り、ぐぐっと両腕を広げて体を伸ばす。

「んんー……、んにゃぁー」

 猫のように鳴く霞ヶ丘の声を聞きながら、普段は味わえない大自然を全身で感じた。

 天候に恵まれた本日の朝は、野外で活動するのに相応しい日差しが注がれている。

 一呼吸毎に体の中から都会の空気が抜けていき、自然豊かな森の空気が入り込む。清涼感を体の外からも内側からも味わい、身も心も満たされてゆく。 

 見渡す限りの緑など、都会ではまず見られない。それこそ異世界にでも転生したような、日常とはかけ離れた世界が広がっていた。

 空を見上げれば雲をいつもより近くに感じられる。どこまでも伸びる帯状形の雲は、手を伸ばせば触れられそうだとさえ思わせた。

 あまり見ない形の雲の先を追っていると、中央広場の方から一人の女性が現れた。

「おーい!」

 空に負けず劣らない元気な笑顔を浮かべ、手を振りながら駆け寄ってきたその人に声をかける。

「ひばり姉さん、久しぶり」

「やぁやぁ調、久しぶりだね! 今日は来てくれてありがとう」

「来ないなんて選択肢は最初から無かったからな。俺のことはいいだろ、こっちの二人が自己紹介のタイミングをうかがっているぞ」

 再会の喜びに時間をかける必要は無い。軽く挨拶を済ませ、こちらに視線を向けている月城と霞ヶ丘に水を向けた。

 ひばり姉さんは二人にニカッと白い歯を見せ、底抜けに明るい笑顔で挨拶をする。

「初めまして。あたしは皿糸こよりの妹、皿糸ひばりです。今日は急なお願いで来てもらってごめんね」

「いえ、良い所に来れてラッキーなぐらいですよ。オレは月城赤羽と言います。二日間よろしくお願いします」

「初めましてー、霞ヶ丘須美ですー。ひばりおねーさんー、よろしくお願いしまーす」

 初対面組の自己紹介が終わると、ひばり姉さんが俺の肩に腕を回して体を百八十度回転させた。二人で月城と霞ヶ丘に背中を向ける形になり、声を落として俺に耳打ちする。

「三角関係かい?」

「違う。あっちの二人がペアなだけだ」

「あらら、調だけハブられちゃったのかな?」

「ハブられないでスリーペアになってるほうが問題あるだろ」

「それもそうか。まぁそれはさておいても、部活仲間としての仲は良さそうだね」

「自慢のメインキャスト達だ」

 ひばり姉さんとの雑談もそこそこに、各々荷物を持って自然公園に移動した。

 管理棟の前にいた小学校教師陣と合流し、お互いに軽く自己紹介をして顔合わせを済ませる。

 次いで教員が利用するバンガローに荷物を一纏ひとまとめにして置き、教師陣と共に中央広場へと移動した。

 整えられた芝は数百メートル先まで続き、壮観な光景に心を打たれる。これだけの広大な草原を目にすれば、北海道はでっかいどうなどと言いたくなる気持ちも分かる。

 その広場の一角に、小学五年生の団体がわらわらがやがやと群れを成していた。全二クラス、五十人程度の小学生が雑然と集まっているこの光景は、無邪気な無秩序を無残に表している。

 しばらく止まらなかったお喋りを、ひばり姉さんが「はい、静かになるまでに四分かかりました」とお決まりの台詞で説教し、予定などを発表する前に俺達の紹介をした。

 皿糸先生が一歩前へ出て、命相部を代表して挨拶を述べる。

「皆さん初めまして、おはようございます」

「…………」

 ……述べたのだが、小学生達の反応が鈍い。

 自分達と変わらない体躯たいくの皿糸先生を見つめ、「あの子、何ちゃんだっけ……?」「あっちのクラスの子かな……?」「なんで先生たちのところにいるの?」などと小声で話し始めた。後ろの方にいる子など、「見えない」「誰かいるの?」などと言っている。

 そこへひばり姉さんが踏み台を持っていき、皿糸先生が乗って高さを確保した。

「……こほん。皆さん初めまして、おはようございます」

 そして何事も無かったかのように再び口を開く。

「この林間学校には、私やお兄さんお姉さん達も参加します。皆さんにとって楽しい思い出になるよう全力でお手伝いするので、困ったことなどがあればすぐに私達へ言ってください。それでは、二日間よろしくお願いします」

 締めの言葉と共に軽く頭を下げると、教師陣が拍手で歓迎を表した。小学生達もつられて拍手をし、奇異な雰囲気を与えて挨拶を終える。

 次いでひばり姉さんが再び前に出て、本日午前の部の予定を声に出して確認する。

「それではしおりの三ページ目を開いてください。まずはオリエンテーリングで、山の中に入ってチェックポイントを回ってきてもらいます。制限時間までに戻って来れないと、お昼のカレー作りに間に合わなくなってしまうので注意してくださいね。それと、森林公園の外に出てはいけません。オリエンテーリングのコースの外や、立ち入り禁止のテープが張られている場所などには行ったらダメですからね。分かりましたかー?」

「はーい!」

「それでは……、お待ちかねの林間学校、スタートです!」

 小学生達の元気な返事を聞き、ひばり姉さんのかけ声で野外イベントが始まった。

 小学生達は四、五人のグループに班別けされており、林間学校の間は基本的に同じメンバーで行動する。多くの子供達が無邪気な笑顔を浮かべ、森の中へ駆けて行く。

 その様子を見送る暇も無く、皿糸先生が俺達に声をかける。

「では、私達も役割をしっかりと果たしましょう」

 最初のレクリエーションは、コース上に設置されたポイントを順番に通過するというものだ。

 有り体に言ってしまえばオリエンテーリングなのだが、そう言えるほどしっかりとしたものではない。実際はコンパスや地図を持って野山を駆け巡る、れっきとしたとスポーツでなのである。

 この森林公園には各チェックポイントに簡単な問題が書かれていて、その答えをしおりに記入しつつ森の中を一週すればゴールとなる。

 途中で別れ道もあるのだが、基本的にはグルッと一周するだけの簡単なコースだ。

 入り口のすぐ隣に出口もあり、その両方を見て皿糸先生が最初の指示を出す。

「私達は二組に別れて両側から中へ入りましょう。すでに他の先生方も入っているので、四人で固まっている必要もありません」

「ならグーチーしようぜ!」

 月城が真っ先に二組に別れる方法を提案した。そんなことしなくていいから霞ヶ丘と二人で見回りに行けよ。

 内心でお節介なことを考えている間に、俺を除く全員がすでに手を出して準備していた。こうなってしまっては空気に流されるしかない。

 俺も手を出し、月城の合図に合わせて手の形を変える。

「グーチーグーチーあったっち!」

 そして公平な組分けの結果、男と女で別れることとなった。

「では、私達は出口側から入ります」

「また後でねー」

 皿糸先生と霞ヶ丘が軽く手を振って短い別れ告げる。

 どうでもいいが、他県ではグーとパーが主流なのだと最近知った。これはもう、グーチーを北海道の方言として認定してもいいのではないだろうか。

 益体も無いことを考えながら、月城と共に入り口側から森へ入った。

 レクリエーションのコースは多くの草木で覆われており、よりいっそう濃い酸素を感じられた。実際には都会と一、二パーセントほどしか変わらないのだが、その僅かな違いで人が感じ取る快適度数に大きな差が生まれる。

 風が吹くたびに葉がざわざわと音を鳴らし、鳥がチュンチュンと歌を奏でる。自然が作り出す演奏は、都会の喧騒に染まった俺の心を穏やかにさせた。

 耳を澄ませば、他にもさまざまな鳥の鳴き声が聞こえてくる。チチチチッ、ピピッ、キュキュウ、キュアーッ、ピチュッピチュッ、ヒョーロロロロ、キャキャキャッ、ピーピピピピピピッ、ホーホーッホホーッ、……って、いやいや、さすがに鳴き過ぎだろ。

 耳を澄まさなくても余裕で聞こえてくる。普段は山に来ないから分からないが、異常行動を疑うレベルで鳴いてる。これが都会と森の違いだろうか。

 鳥達の大合唱を進行曲に、周囲へ目を向けながらコースを歩く。

 道は土を踏み固めて作られていて、両側は腰の高さほどの草葉が壁を表している。故意に草葉を掻き分けて森の中へ潜って行かなければ、到底迷子にもなりえない。加えて、草木で隠すようにロープが張り巡らされている。

 景観を崩さないようにしながらも安全面を考慮した造りの中で、早速一人の少年が目に入った。

 木の枝を振り回しているその子の周りには、誰もいない。明らかな単独行動だと確信して月城が声をかける。

「ねぇきみ、グループの子達と一緒じゃないの?」

「は? なんだよ?」

 見るからに教育のなっていない少年は、年上の高校生相手に横柄な返事をした。

 月城は態度自体には取り合わず、身勝手な行動だけを注意する。

「今はオリエンテーリングの時間だろ。グループ行動しないと駄目じゃないか」

「こんなつまんねーことやってられねーよ!」

「真面目にやらないと、先生に叱られるぞ」

「うるせー!」

 少年のほうも月城に取り合わず、捨て台詞を残して道の先へと走り去ってしまった。

 その背中を見送っていると、俺達の後方からひばり姉さんが現れる。

「始まって早々、か……。ごめんね、先に少し説明しておくべきだったかもしれない」

 腕を組んで嘆息をつき、悩ましい表情で道の先へと顔を向けた。

「さっきの子は校内でも有名なやんちゃ坊主なのよ。隣のクラスの子だから普段はあまり接しないんだけど、授業妨害や他の子への嫌がらせが酷いのよね」

「まぁ……しょうがないで済ませられることでもないですけど、横暴なタイプの子はどこにでも居ますよね」

 月城も諦めと共に同意する。

 少年は端的に言ってしまえば、独善主義なのだろう。自分が一番偉いと思っていて、周りの人間は有象無象。自分に利益を与えるかどうかでしか考えない。

 授業や行事、人間関係など、自分の望まないことに対して酷く攻撃的になる。親の躾が全てとは言わないが、それでもどういった教育をしてきたのか問い詰めたいところだ。

 ひばり姉さんが月城へ顔を向け、教師の立場として素直な愚痴を溢す。

「こうなることは想像してたけど、だからって特別視するわけにもいかないのよ。ずっと側にいて行動を監視していても逆にストレスが溜まってしまうし、面倒を見なきゃいけない生徒はあの子だけじゃない。正直、手を焼いているの」

「最近は世間の声も厳しいですからね。ちょっと強めの言動をするだけで、いじめだ裁判だと騒ぎ始めますよね。指導の難しさを感じさせます」

「少しでも気持ちを分かってもらえるのは嬉しいわね。げんこつ制裁が正しいとは言わないけれど、口で言っても分からない子はどうすればいいのか悩まされるわ」

「小学校の教師は大変そうですね……」

 教師と高校生が子供を相手取る難度を共感し、特に大きな問題も無く最初のレクリエーションが終了した。



 小学生の全員が広場に戻ってきたことを確認し、続いて昼食のカレー作りが行われた。

 野菜などの下ごしらえはすでに終わっている。包丁やピーラーなどを持たせて怪我でも負ってしまえば大問題だ。炊事体験とは言え、学校側も子供に刃物を持たせるリスクは避けたいところなのである。

 各グループに食材が配布され、大まかな説明の後に調理が始まる。どうせ一度に全ての行程など覚えられないのだし、教師や俺達が見回りながら指導するので問題無い。

 小学生の多くは調理経験が無いのか、作業の一つ毎に大はしゃぎして楽しそうだった。流し台で米をあちこちに飛ばしながら研ぎ、鍋に張られた水を溢しながら運ぶ。実に粗雑な手際だ。

 続いての飯盒はんごう、カレールー作りなどの火を扱う調理も無事に終える。

 炉の近くには必ず二人以上の教師がついていて、片時も目を離さないように最新の注意を払っていた。炭の周りで厳戒態勢を敷く大人達を見てふと考える。

 小学生というのは、あらゆることに対して無知である。火は正しく使えば便利だが、直接振れれば火傷もする。今回は扱わせなかった包丁も、ふざけて振り回されれば簡単に傷害事件が起きてしまう。

 しかし、いつまでも過保護のままではいられない。

 将来自炊するようになれば火を使うし包丁も使う。その時に扱い方を知らなければ、大事故になりかねない。

 子供にはまだ早い、でも大人では扱えなければならない。では、いつから触れさせればいいのか。

 それは考えるまでもない、子供の時だ。

 危険から遠ざけ過ぎると、経験が不足して危険に対し鈍感になる。危険を回避するのに必要な知識は、危険を知っているからこそ培われるものだ。

 学校の教師は、無知で無力な子供の成長を手助けする。先に生まれた者が後人こうじんを教え導く有り様は、先生という言葉をまさにそのまま表していた。

 調理実習に過度な思想を抱いている間にカレー作りは終了した。器に盛り付けて席につき、ひばり姉さんが代表して食事開始の音頭を取る。

「みんなが自分で作ったカレーは特別美味しいはずです。それでは手を合わせて……、いただきます!」

「いただきます!」

 ほぼ一斉に発せられた五十人程度の元気な声が、無邪気なままでいられなくなった高校生の体に響き渡った。若いっていいなぁ……。

 全員が食べ始めたのを確認して俺達も一息つく。教師が手本として作っていたカレーをよそい、月城と霞ヶ丘と共にベンチに座る。

「林間学校と言えばカレーだよねー」

 霞ヶ丘がスプーンでカレーを一口掬い、小さな口で美味しそうに頬張った。隣に座っている月城が同意する。

「定番中の定番だよな。むしろ、他に何かメニューがあったりするのか?」

「うーん……、わたしは知らないなー」

「まぁ、人気や作りやすさの度合いからカレーが選ばれるのは納得するけどよ、抜擢率ばってきりつがダントツ過ぎて面白みに欠ける気もするよな」

「月城くんはー、カレーが嫌いだったりするのー?」

「いいや大好きだっ!」

 霞ヶ丘の疑念を月城は力強く否定し、小学生達に負けず劣らない勢いでカレーを掻き込み始めた。

 確かに、小学校の林間学校でカレー以外の調理体験をさせているところはあるのだろうか。やはりここは北海道民らしく、ジンギスカンの調理体験を推奨したい。まずは羊の屠殺とさつから経験させよう。

 純真な子供に一生もののトラウマが残りそうな妄想をしていると、和気あいあいとカレーを食べている小学生達の一角で少々揉め事が起きていた。

「せんせー! 大輔だいすけくんがまたニンジン残してるー!」

 声が聞こえた方へ目を向けると、一人の女の子が少年に指を指している。

「うるせーなー! 嫌いだって言ってるだろ!」

 大輔だいすけと呼ばれたその少年は、先ほどのレクリエーションで単独行動をしていたやんちゃ坊主だった。

 ひばり姉さんが懸念した通り、再び騒ぎを起こしたようだ。その場に一人の男性教師が向かって事態を収めようとする。

「なんべんゆーたら分かるんじゃい。好き嫌いしたら立派な大人にゃあなれないんぞ。自分で作ったもんを食べるのも嫌なんか?」

 強い訛りで叱りつける教師に対し、大輔だいすけとかいう少年がわがままを叫ぶ。

「おれが入れたんじゃねーもん! みんなが勝手に入れたんじゃん!」

「ぐずぐずだはんこくな。なんのための林間学校だと思っとるんじゃい。そったらことゆーとったらなぁ、いつかバチが当たるでぇ」

「知らねーよばーか!」

 暴言と共にスプーンを乱暴に皿に叩きつけ、立ち上がって森の方へ走り去っていく。ちなみに『だはんこく』というのは、北海道弁で『わがままを言って騒ぐ』である。

「こら大輔だいすけ! まったくあいつは……」

 名前を呼ぶも立ち止まりなどしない。男性教師は頭をがしがしと掻いてこちらに顔を向ける。

「すんません、むりしゃりにでも連れ帰ってくるんで、先生方はそのまま飯食っとってください」

 自分の昼食時間を犠牲にし、大輔だいすけ少年の後を追って森へと歩いて行った。



 小学生の味覚に合わせた甘口のカレーを食べ終え、食器の洗浄まで終えて午後のレクリエーションが始まった。大輔だいすけ少年もきちんと連れ戻されており、再び逃げ出さないように男性教師が睨みを利かせている。

「それではー! 順番に箱の中からクジを引いてもらいまーす!」

 ひばり姉さんがイベント内容を告げるその隣では、皿糸先生が箱を抱えて持っていた。

「クジには何かの名前が書かれています! 書かれているアイテムを夕御飯の時まで持っていると、素敵なプレゼントと交換します!」

 箱の中にはたくさんの紙が入っていて、葉っぱや木の実など森の中で入手できるものが記入されている。それを探して夕飯時に提出すれば、デザートのプリンと交換できる仕組みだ。

 名付けて、ラッキーアイテム探しである。

「グループごとに前に来て引いてもらいまーす!」

 ひばり姉さんが指示を出し、小学生達が順番に皿糸先生の前へ歩み寄る。次々と箱の中からクジを引き、書いてある内容を楽しげに読み上げていた。次々とクジが引かれていくその様子を見て思う。

 皿糸先生は箱持ち係に適任だな。身長が小学生と変わらないため、普通に箱を抱えているだけなのに子供達がとても引きやすそうだ。

 高校生の俺達や他の教師が持つならば、身長差があるため屈み続けなければならない。しかし唯一皿糸先生だけは、直立でなんら問題が無かった。適材適所ってあるよなぁ。

「みんなー、ちゃんと一枚ずつ引きましたねー?」

「はーい!」

 ひばり姉さんが全員にクジが渡ったことを確認すると、多くの子が手を上げて返事をした。

 するとその時に、最前列にいた一人の女の子が不思議そうな顔をして口を開いた。

「おにーさんたちは引かないのー?」

「えっ、オレ達も……?」

 予想外の発言に月城が間の抜けた声を出す。

「プレゼントを貰えるんでしょー。おにーさんたちはいらないのー?」

 ……ここは下手に逆らう発言をする必要が無い。俺達にプリンが当たるかどうかは別として、サラッとクジを引いてしまったほうが良い雰囲気を維持できる。

 月城と霞ヶ丘に目配せで意思を伝え、皿糸先生に一番近い位置にいる俺は一歩前に出た。

「では、俺から引きまーす」

 言葉尻を伸ばして小学生達に知能指数を合わせ、箱の中へ手を入れてクジをガサゴソと漁る。

 その中から一枚を掴んで引き、書いてある文字を読み上げた。

「俺のラッキーアイテムは、メジャーでーす。…………メジャー?」

 読み上げてその異質さに疑問を抱いた。メジャーなんて森の中で入手できるものじゃないだろう。

 引き当てたその紙をよく見てみると、反対側にはスーパーでの購入品とその金額がズラリと印字されていた。つまるところ、レシートである。

 視界の片隅では、事態に気が付いたひばり姉さんが両手を合わせて頭を下げていた。察するに、レシートの裏にメモを残したものが紛れ込んでしまったのだろう。

 予定外のジョーカーを引き当ててしまったが、宣言した以上は手本になるしかない。

「すみません、メジャーはありますか……?」

 男性教師に声をかけ、期待の目を向ける小学生達に応える意思を見せる。

「あ、あぁ、買ってあるはずだ……」

 多少困惑した様子ながらも、場の空気を盛り下げないために二人でボックスカーへと駆け寄った。

 荷台のドアを開き、中からシャベルや軍手等を掻き分けてメジャーを探し当てる。二つあったうちの一つを掴み取り、駆け戻って自然感がまるで無いラッキーアイテムを掲げ上げた。

 すると小学生達は、ワーッと声を上げて拍手を鳴らした。林間学校のイベントがこれでいいのかよ。

「よし、次はオレが引くぜ」

 一応お題をクリアした俺に続き、月城が皿糸先生に歩み寄って箱に手を入れる。するとひばり姉さんが焦りの表情を浮かべて「となると、もしかしてもう一枚も……」などと不吉なフラグを立てていた。

「発表しまーす! オレのラッキーアイテムは!」

 月城が紙をビッと広げ、書いてある文字に目を通す。

「……ブルーシートです!」

 僅かに戸惑いを感じさせながらも、声高らかにアイテム名を叫んだ。

 確かに、ジョーカーは二枚セットで入ってるもんだよな。



 波乱のクジ引きを終え、小学生達が各々森へと向かって行った。アイテムは簡単に見つかるものばかりのため、実質自由時間となる。

 教師陣も森へ入って見回りをしている中、俺達高校生組は少しだけ時間を貰ってベンチに座っていた。

「これ、どうするよ……」

 俺は頭を抱えて苦悩を呟く。刈り揃えられた芝の上には、運動会などの会場設営で使われる百メートル巻きの大きなメジャーが鎮座している。

「まぁ、小学生に当たらなかっただけ良しとしようぜ」

 俺の隣に座る月城は、同じく芝に置かれたブルーシートを見つめて前向きな発言をした。

「小学生が引いてたらー、間違いなく引き直しになってたと思うけどねー」

 さすがに三枚目のジョーカーは入っていなかったらしく、霞ヶ丘は『花』と書かれた普通の紙を引いた。早速近場に咲いていたスズランを摘み取り、髪に挿してヘアピンでめている。

 三者三様の結果に一喜一憂したところで、頭を振ってアイテムと向き合う。

「何が問題かって、無駄に大きいのが厄介なんだよな……」

 メジャーには持ち手部分はあるが、ずっと持っていると片手が塞がってしまい不便極まりない。俺は立ち上がってボックスカーの荷台を漁り、手頃なヒモを勝手に拝借する。

「……まっ、こんなもんか」

 持ち手部分にヒモを通し、ベルトに括り付けて腰の右側に固定した。何をどうしようとも邪魔ではあるのだが、手が塞がらないだけでもかなり楽だ。

「おっ、それいいな」

 俺の妙案を月城も採用し、細いヒモを探し当ててブルーシートの角のリングに括り付ける。右腕から通して肩に下げ、自由な両手を腰に当てて満足げな表情をした。

 なんだろう。こういうイレギュラーなアイテムを身に付けている時は、決まって主人公の持ち物が何かの役に立つんだよな。ミステリーものでも突発的な事件でも、解決に必要だからこそあらかじめ理由を付けて持たせておくものだ。

「ひとまず何とかなったし、オレらも見回りに行こうぜ」

 ブルーシートに異常な期待を寄せられていることなど知らない月城に続き、霞ヶ丘と三人で森へと入った。

 相変わらず鳴いている鳥達の声を聞きながら、月城が大きく息を吸って深呼吸する。

「自然って良いよなぁ。草木に囲まれると心が穏やかになるぜ」

「空気が良いのはもちろんだけどー、やっぱり色が良いのかなー。緑色のリラックス効果はー、医学的にも証明されてるからねぇー」

 霞ヶ丘も息を吸い、スズランを揺らして補足を述べた。

「カウンセリングにも効果があるから、相談室に鉢植えを置く医院も増えてきてるらしいな。命相部にも観葉植物とかを置いたら、相談所としての質が上がるんじゃないか?」

「いやー、そもそもの相談者が少ないからねぇー……」

 二人が根本の問題に頭を悩ます。

 すると、澄んだ空気を引き裂くような叫び声が聞こえてきた。

「いやぁぁぁー!」

「なんだ!?」

 明らかにトラブルが起きたと分かる声音に月城が反応する。声が聞こえた方へ三人で走って向かうと、一人の女の子が地面に座り込んで泣き崩れていた。

「うわぁぁぁぁん!」

「どうしたんだ!?」

 月城が駆け寄って声をかけると、女の子は涙ながらに思いを訴える。

「み、ミミズ……! ミミズがっ……! ぐすっ、いやだって、言ったのに……! だいっ、大輔だいすけがぁ……!」

 腰を抜かしている女の子の周りには、ウネウネと体をくねらせる数匹のミミズがいた。

 発言から察するに、あの悪ガキが嫌がらせにミミズを投げつけたのだろう。しかし周りに大輔だいすけの姿は無い。すでに逃げられてしまったようだ。

 月城が女の子の肩に乗っていたミミズを払い除け、背中を擦って落ち着かせようとする。

「大丈夫だよ、おにーさんがいるから安心して」

「ひぃうぇ……! えっぐ……、うぁぁぁあ!」

「よしよし、怖かっただろう。おにーさん達が大輔だいすけを懲らしめてやるからな。どこに行ったか分かるかい?」

「あっ……あっち……! あっちにっ……ぐひぇっ……、ぃやぁぁぁぁぁぁ!」

 女の子は泣きながらも、別れ道のちょうど中間に当たる茂みの方へ指を指した。

 月城はあやしながら、俺にチラと視線を向けて短い言葉を口にする。

「頼んだ」

「分かった」

 女の子を介抱するのに高校生が三人も固まっている必要は無い。大輔だいすけが次なる犠牲者を出さないために、注意なり捕縛なりする必要がある。

 俺は茂みに入って周囲を見回す。けれど、あくまで逃走後でしかないその場所には誰もいない。しかし直径一メートルほどの開けた空間があり、そこで異様な光景を目にした。

 草花の少ないその場所には、異常な数のミミズが群れを成している。地面がうごめいているとさえ表現できる、この世の地獄みたいな光景だ。

 こんなものをさっきの女の子が見たらショック死するな。俺だって泣き叫びたいくらいだ。

 顔を若干引きつらせながら後退あとずさりし、別の方向へと足を向ける。

 おそらく大輔だいすけはあそこからミミズを調達したのだろう。あいつのメンタルはどうなっているんだ? 心臓に毛どころかミミズが生えているんじゃないだろうか。

 少しばかり地面を気にしながら草花を掻き分けて進むが、一向に大輔だいすけは見当たらない。

 応援を呼んだほうが早いだろうかと思い始めた辺りで、正規の道からひばり姉さんが声をかけてきた。

「おおっ、どしたんだい? 調は草木の中を駆け抜けるようなアグレッシブキャラじゃないだろう」

「それには同意するな。俺だって理由が無ければこんなことはしない」

「つまり、理由があるから似合わないことをしている訳だね」

「あぁ。女の子が大輔だいすけに嫌がらせをされたらしくて泣いてたんだ。それでこっちの方へ逃げたって証言したから、目下捜索中ってところ」

「はぁ……。分かった、他の先生方にも伝えておくよ」

 ひばり姉さんがため息をついて事態を把握し、ほどなくして大輔だいすけが確保された。



 ミミズに大泣きしていた女の子は、月城が抱え歩いて森の外まで移動させた。しばらく小学校教師と共にあやしていると、しだいに落ち着きを取り戻して泣き止んだようだ。

 その頃俺達は山狩りを行い、木の上に登っていた大輔だいすけを男性教師が発見した。引きずり下ろされてバンガローへと強制連行される様は、罪人に相応しい姿だった。

 そのまま夕食までの謹慎きんしん処分が下され、今はバンガローの中に閉じ込められている。入り口には女性教師が見張り番として立っているため、抜け出すのは容易ではない。

 現在時刻は午後の三時。ラッキーアイテム探しの時間が終了し、小学生達は休憩のために広場へ集められている。

 点呼と一緒に怪我などをしていないかを訊き、大輔だいすけを除く全員の無事が確認された。

 小学生達が一ヶ所に居るため、見張り役の命相部組も少しばかりの休息となる。ひばり姉さんがクーラーボックスを開け、ベンチに座っている月城と霞ヶ丘に中身を見せた。

「ひとまずお疲れ様。二人とも、何か欲しい飲み物はあるかい? この中から好きなものを選んでいいよ」

 多種多様なペットボトルが氷で冷やされており、ラベルを滴る水滴が清涼感を演出する。

「ありがとうございます。ではサイダーを貰ってもいいですか?」

「わたしはー、ふるふるふるーつが欲しいでーす」

 ひばり姉さんは注文の品を二人に渡し、自分用のスポーツドリンクも掴み取る。

 ……あの、俺には訊かないんですかね。

 などと少しばかり疎外感を抱いていると、底の方まで手を入れて何かを掴み出した。

「調!」

 そして俺の名前を呼ぶと同時に投げて渡す。飛んで来たペットボトルを反射的に受け取り、ラベルを確認して思わずフッと微笑んだ。

 渡されたのは、赤と黒の色合いが凛々しく格好いいガラナだった。訊くまでないってことですね。

「ありがとう」

 礼を言ってキャップを捻り、プシュッと音を鳴らして密閉を解く。炭酸飲料の命である炭酸が抜けていく背徳的な音を耳で楽しみ、泡立つ闇を喉に流し込んだ。

「っあぁーー………………、うまい」

 午後の日差しが降り注ぐ初夏の山、動き回って火照ほてる体にガラナが染み渡る。もはや染み込み過ぎて、体の六割はガラナでできているかもしれない。採血とかしたらガラナエキスが検出されそう。

 渇きを癒しているうちに小学生達の休憩も終わっていた。今から約一時間ほどは完全な自由時間となる。

 広場で寝転がる子、森へと駆けて行く子、皿糸先生を遊びに誘う子など、滅多に訪れることの無い自然の中で各々が有意義な時間を過ごしていた。

「須美は小学生に元気を分けてもらったらいいんじゃないか?」

「わたしの気力メーターはー、これで上限なんだよー」

 月城と霞ヶ丘も談笑に花を咲かせている。ひばり姉さんも見回りへ戻ったため、今なら自然と二人きりにできるだろう。

 俺達の休憩終了時間はもう少し先だが、俺はこっそり立ち去ろうと静かに振り返る。

 森の中へ見回りにでも行くかな。などと考えながら歩いていると、背後から肩にガバッっと腕を回された。

「足の運び方が不自然だぞ。まるで、歩き去ることを悟られたくないみたいだ」

 声の聞こえた左側へ目を向けると、すぐ近くにニカッと笑った月城の顔がある。

 周囲へ気を配り過ぎだ。俺に気付かずゆっくりしていればいいじゃないか。これだから主人公は……。

 俺は無駄な足掻きだとは思いつつも、ただ純粋に事実を口にする。

「休憩終了までもう少し時間があるぞ」

「早めに切り上げようとした人間が何を言ってるんだ。大方おおかた、オレと須美を二人っきりにでもしようとしたんじゃないのか?」

「そこまで察してるなら気付かないフリをしていればいいじゃないか」

 浅はかな思惑を見透かされてバツが悪い。ジトッとした視線を向けていると、後ろから付いて来た霞ヶ丘までもが肩に腕を回してきた。

「渡刈くんがそんな気を遣う必要は無いよー。二人でいる時間も三人でいる時間もー、わたしはどっちも好きなんだからねー」

 右側へ視線を向けると、無気力ながらも笑みを浮かべた顔がそこにあった。風になびく髪が頬に触れてこそばゆい。てか、お前は人の肩に腕を回すようなキャラじゃないだろう。

 両側をガッシリと固められた俺は、観念して降参の意を示す。

「はいはい俺が悪かったよ」

 二人の腕を強引に払い除け、結局三人で休憩場を後にした。

 広場で花冠の作り方を教えている皿糸先生を横目に映し、のんびりと歩きながら森へと入る。

 遊び通しでもなお衰えぬ元気を見せる子供達を眺めていると、一人の男の子がこちらに歩み寄ってきた。

「ねーねー、さっき大輔だいすけくんが奥に行っちゃったよー」

大輔だいすけが……?」

 突然の言葉に月城が疑問の声を上げた。

 奥、と言うのが何を指しているのかは分からないが、大輔だいすけは今頃バンガローで囚われの身となっているはずだ。

 もしかして脱走したのか? それとも、この男の子が誰かと見間違えたのだろうか? ……いや、考えるより確認したほうが早い。

 俺はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、皿糸先生へ電話をかける。五コールほど呼び出し音が鳴った後に繋がった。

『……もしもし渡刈君? どうかしましたか?』

「ちょっと気になることができました。大輔だいすけがバンガローにいるかどうかを確認してもらえませんか?」

 森の中にいる俺達より、広場にいる皿糸先生のほうがバンガローに近い。無駄な時間を省くために協力を申し出る。

『分かりました。このまま少し待っていてください』

 通話は切らず、電話口の向こうで皿糸先生が歩く音が聞こえる。

 待つこと一分。

『バンガローの中を確認しましたが、大輔だいすけ君の姿がありません。玄関の反対側にある窓が開いているので、そこから脱走したのだと思います』

 電話口の向こうから、見張り番をしていた女性教師が謝罪の声を上げているのが聞こえた。けれど今は、反省を聞いている場合ではない。

「了解です。俺達のほうで対処できそうなので、皿糸先生は他の先生方に情報伝達だけお願いします」

『分かったわ』

 通話を終了してスマートフォンをポケットに戻し、会話を見守っていた月城と霞ヶ丘に状況を伝える。

「バンガローに居ないそうだ。窓から脱走したらしい」

「あいつはマジで手間のかかるヤツだな……」

 月城は右手で顔を覆い、はぁ……と大きく溜め息を溢す。けれどすぐに頭を振り、気を持ち直して男の子に向き直る。

大輔だいすけ君をどこで見たのか、案内してもらいたいんだけどいいかい?」

「うん、いいよー。こっちだよ」

 男の子は快く承諾し、迷わず茂みの中へ入って行った。

 レクリエーションのコースですらない場所を行く男の子に、月城が木の枝をかわしながら呟きを漏らす。

「初っぱなから道無き道を行くことになるとは思わなかったぜ……」

 男の子は小さい体を生かし、草葉の隙間をスルスルと抜けていく。体格的に真似できない高校生組は、自然を荒らさない程度に掻き分けて進んだ。

 とは言え、ここまでは道ではないが子供が侵入しても問題の無い場所だ。レクリエーションのコースから少し外れているだけで、至極安全である。

 問題なのはこの先だ。

「ちょっ、そこは駄目だろ……!」

 森の奥へと進み続ける男の子の背中に、月城が慌てて声をかけた。

 俺達の向かう先の木々には、侵入を妨げるためのロープが張り巡らされている。要するに、そこから先は立ち入り禁止区域だ。

 しかし一ヶ所だけ、ロープが途切れて侵入を許してしまう場所があった。

「もう大丈夫だから! 後はオレ達だけで探すから!」

 男の子は足を止めることなく進んでいく。本来であれば許されない行為なのだが、月城が制止するよう声をかけても止まらない。

 おそらく、大人の役に立つという使命感が先行し過ぎているのだろう。立ち入り禁止区域と言えど、目立った危険は無い。正しい行いのために、違反しても問題無さそうな約束を破る。

 それは、一概に良し悪しを判断できない事柄だ。

 駆け寄って多少強引に止めたほうがいいものかと考え始めたあたりで、男の子が声を出した。

「いた!」

 視線の先を追ってみると、草木の少ない開けた空間に大輔だいすけがいた。

 男の子が歩み寄り、腕を掴んで声をかける。

「ここは入っちゃだめだって言われてたでしょ。戻るよ」

「ああ!? なんだよ! お前たちだって入って来てるじゃねーか!」

 大輔だいすけは腕を払い退け、男の子や俺達に顔を向けて声を上げた。

 すかさず、数メートル離れた場所から月城がフォローに入る。

「きみを連れ戻すためにここまで来たんだ。だいたい、バンガローの中で反省してたんじゃないのか? 脱走なんてしたらまた叱られるぞ」

「うるせーって言ってるだろ! 死ね! バーカ!」

 大輔だいすけは自らの悪事を悔い改める様子を見せず、正統性の無い言葉で罵倒した。こんな悪ガキでも相手にしなければならないのが、見守り役のつらいところだな。

 月城はあくまでも任意同行で連れ帰るつもりなのか、懸命に言葉を投げ続ける。

「林間学校に何か不満でもあるのか? あるなら話を聞くから、とりあえず広場まで一緒に戻ろう」

「いいから早く死ね! バーカバーカ!」

 対して大輔だいすけは言うことを聞くつもりが無く、少ない語彙ごいで口汚く言葉を返す。

 進展の無いまま時間だけが過ぎ去る。罵倒を聞いているだけでも腹が立ってきた。

 のんびり大人しい霞ヶ丘ですら瞳から光を消している。小学生のれ言と言えど、恋人がののしられ続けるのは気分の良いものではない。

 そろそろ霞ヶ丘のために殴り飛ばして連れ帰ろう。そう提案しようと月城へ声をかけようとした時、事件が足下から忍び寄って来た。

「……ん?」

 始めは僅かな違和感だった。平衡感覚を失ったような、意識と視界に齟齬そごが生まれて気持ち悪くなるあの感覚。

「な、なにー?」

 霞ヶ丘も感じたらしく疑問の声を上げた。どうやら、苛立ちで俺の精神に異常をきたしたわけではないらしい。

 何か嫌な予感がした。

 けれど、そう思った時にはもう遅い。

「……! 皆、近くの木に掴まれ!」

 いち早く事態を予測した月城が、一も二も無くその場にいる全員に指示を出す。

 その瞬間、地面が大きく揺れた。

 事前に予測するすべの無い自然災害、瞬く間に激しい揺れを起こすその現象の名は、地震。

 地の奥底から重苦しいうなりを響かせ、唐突に襲いかかってきた。

「きゃあっ!」

 霞ヶ丘が悲鳴を上げて地面に座り込んだ。立ち上がっていても転んで怪我を負う可能性が高いので、その判断は正しい。

「うおっ!」

 俺は驚きを声にして木にもたれかかった。逃げ出そうにも、周りが草木しかない森の中で安全な場所など無い。

「くっ……!」

 月城は苦悩の声を漏らし、二人の小学生へ目を向けながらも何もできないでいる。

 その小学生二人の真後ろで、木々の身長が僅かに縮んだ。

 地震によって地面がずれ、向こう側とこちら側で断層が生まれたものと想像できる。

 こちら側がせり上がったのか向こう側が下がったのかは分からないが、それ自体は問題じゃない。

「うわぁぁぁっ!」

 大輔だいすけが隣に立っていた男の子を突き飛ばして走り出す。そのせいで、無意味な問題に意味が生まれる。

 突き飛ばされた男の子は勢いのまま転がり、段差の向こう側へと落ちてしまった。木の沈み具合から高低差は五十センチもなさそうだと判断できるが、今この時は絶望的な段差だ。

 助けなければ。そう思いはしたものの、その思いを嘲笑あざわらうように次なる悪夢がやってくる。

 地の奥底から響くうなりとは別に、遠くからズザザザッと音が聞こえてきた。音の発生源へと目を向ける。

 断層の向こう、左奥には急斜面の山があり、地震によって土砂崩れが発生していた。

「!」

 迫り来る危機に焦燥感を抱くが、もう遅い。

 一瞬毎に土砂が流れていて、向こう側にある全てのものを巻き込もうとしている。そこには木々や草花だけでなく、突き落とされた男の子もいる。

 男の子の状態は分からないが、段差があるため自力でこちら側へ避難することは叶わない。

 仮に俺が助けに向かっても、男の子を引き上げている余裕など無い。土砂の勢いから計算しても、近くにたどり着いた瞬間に土砂が通過していくだろう。 

 この時点で、男の子が巻き込まれるのは確定した。

 土石流に巻き込まれてしまえば、無事では済まない。

 俺が男の子のもとに駆け込んでも、不必要に犠牲者が一人増えるだけだ。死体を一つ増やす理由も無い。

 俺にできることなんて、無い。

 あらゆる行動を刹那の思考で却下する。

 どうにもできない。どうにもならない。仕方がない。

 救出を諦める言い訳を思い浮かべたその時、一人の男が足を踏み出した。

「待ってる!」

 月城は俺の腰に括り付けられているメジャーの先端を左手で掴み、短い言葉を残して断層へと駆けて行った。

 右手にはブルーシートが握られており、段差を飛び降りる際にバサッと勢いよく開かれた。その直後。

 ズザザザザザザッ! と大きな音を鳴らしながら土石流が横切って行った。

「!!」

 月城が飲み込まれた瞬間を、この目で見た。奇跡が起こって男の子と一緒に脱出した様子は無い。正真正銘、命を奪う暴力の塊に襲われた。

 目の前で起こったことの理解に思考が追い付いていなかったが、土石流と共に稼働している存在に気が付いた。

 俺は咄嗟に腰に固定していたメジャーの持ち手部分を握る。月城は男の子のもとへ駆け込む際、わざわざ一秒の時間をかけてテープの先端を掴んで行った。

 土石流に巻き込まれたメジャーのテープが、メモリの数字も見えない速度で吐き出されていく。勢いのあまり本体ごと持っていかれそうになる。

 男の子と月城を巻き込んだ土石流は、数秒の後に動きを止めた。メジャーのメモリは九十六メートルまで伸びている。もう少しで百メートルを超えてしまい、テープが途切れてしまうところだった。

 気が付けば揺れも収まっており、災害の後に残る喪失感が場を支配する。

「……」

 誰もが言葉を失い、身動きを取れずにいる。その静寂を破るように、土石流から小石が一つ転がり落ちた。

 小石は他の石にぶつかり、カツンと音を鳴らして俺の金縛りを解く。

「……! 霞ヶ丘! 先生方に連絡だ! 緊急通報は俺がする!」

 座り込んで木に掴まっている霞ヶ丘の方へ振り向き、事後対応の指示を飛ばす。

「う、うん!」

 緊迫した状況下では、しもの霞ヶ丘ものんびりとしている余裕が無い。急いでスマートフォンを取り出して耳に当て、電話をかけながら来た道を戻っていく。

大輔だいすけ! お前はそこを動くな!」

 次いで、揺れの影響でおぼつかない足取りをしている大輔だいすけに怒声を飛ばす。これ以上好き勝手行動するなら殺してやると声で表し、有無を言わさず従わせた。

 俺はスマートフォンを取り出し、緊急通報をかけながら大輔だいすけの所へ向かう。その際に、腰に括り付けていたメジャーに歩みを止められた。

 百メートル目一杯まで吐き出されたテープは、土石流と俺の腰を繋いでいて進行を妨げた。すかさずヒモをほどき、メジャーを外してその場に置き去る。

 スマートフォンを操作してダイヤル画面を表示させ、普段は入力する機会の無い一一九へと電話をかける。コール一つを聞き終える間も無く通話が開始された。

『はい、こちら緊急連絡番号です。火事ですか? 救急ですか?』

「救急です。先ほど北海道で発生した地震により、学生二人が土石流に巻き込まれて生き埋めになりました」

 繰り出される質問に答えながら、大輔だいすけのもとまで向かって右腕を掴む。視線だけで「行くぞ」と指示を送り、半ば強引に引き連れる。

 ゆっくりとだが確実に歩を進め、立ち入り禁止区域を表すロープの断ち切れた場所まで戻ってきた。

『分かりました。すぐに対策本部を設置します。救急車やドクターヘリなどで救助へ向かうので、あなたも安全な場所へ避難してください』

「お願いします」

 通話を切り、草葉の空間を抜けて正規の道まで戻る。周囲に目立った乱れが無いのでひとまず安心感を得ていると、道の先から霞ヶ丘が駆け寄って来た。

「渡刈くん!」

 その後ろには皿糸先生、ひばり姉さん、一人の女性教師も付いて来ている。

 皿糸先生が一歩前に出て、緊迫した表情で口を開く。

「霞ヶ丘さんから状況は聞きました。他の先生方は、生徒を全員集めて点呼を取っています。あなた達も広場へ向かいましょう」

 冷静に話すその提案は正しい。だが、別の正しさを見落としている。と、そんな気がしていた。

 その正体が何かは分からないが、少なくともこのまま広場に戻ったところで月城と男の子の無事は確保されない。救急隊員が到着するまで、目の前で土石流に巻き込まれた人間を放っておくなどできるはずもない。

 俺が行動の最善を計算していると、突然霞ヶ丘が茂みの中へと駆け出した。

「霞ヶ丘さん!」

 皿糸先生が制止を求めて叫ぶが、走る足を止めはしない。

「月城くん……! 月城くん!」

 うわ言のように月城の名前を呼び、あっという間に立ち入り禁止区域へと入って行った。

 俺は女性教師へと顔を向ける。

「すみません、大輔だいすけをよろしくお願いします」

 返事を聞かずに大輔だいすけを押し付け、霞ヶ丘の後を追って茂みに入る。

「渡刈君まで……!」

「こより姉さん! 追うよ!」

 さらに皿糸姉妹が俺の後に続き、四人が災害現場へと向かった。

 俺のすぐ目の前を行く霞ヶ丘は、今まで見たことが無いくらい懸命に走っている。何かに必死になる姿など初めて見た。

 ヘアピンでめていたスズランは木の枝に弾き飛ばされ、葉っぱが頬を切って血を滴らせる。

 失われつつある命を前にし、我を忘れて行動していた。

 霞ヶ丘に追い付くこともなく皿糸姉妹に追い付かれることもなく、地震が発生した瞬間にいた地点にまで戻ってくる。

 霞ヶ丘が断層の近くで足を止め、すぐ目の前に広がる光景を見てその場にくずおれる。

「酷い……!」

 先ほどよりも近い位置で土石流を視認し、その脅威を改めて認識した。

 俺も隣に立って同じ光景を見下ろす。たった一歩のその先には、土や木などが乱雑に混ざり流されて大きな川を形作っている。人の命など簡単に奪い去ってしまう、死の川だ。

 自然災害の恐ろしさに息を呑んでいると、皿糸先生が追い付いて霞ヶ丘の肩を掴んだ。

「落ち着いて! また崩れたら巻き込まれてしまうわ! ここから離れましょう!」

「でも……! でも、月城くんが……!」

「霞ヶ丘さんに何ができると言うの!? 心配する気持ちは分かりますけれど、非力なあなたでは助け出すこともできないわ!」

「うぅっ……! うわぁぁぁぁん!!」

 霞ヶ丘は状況を理解するも受け止め切れず、不安と恐怖にまみれて泣き始めた。

 二人の様子に目を向けながら、ひばり姉さんが険しい表情で声をかけてくる。

「調……、どうするよ……」

「どうするっても…………」

 様々な意味を込められたその言葉に、何と返答すればいいか分からない。霞ヶ丘をなだめればいいのか、俺一人だけでも土砂の撤去を試みればいいのか、溢れ返る思考を制御するだけで手一杯だ。

 土砂を見つめながら何ができるのかを考えていると、ひばり姉さんのスマートフォンが着信音を鳴らした。上着の内ポケットから取り出し、電話を繋げて耳に当てる。

「はい、はい、えっ……!」

 会話を始めてすぐに、ひばり姉さんの顔が絶望に歪んだ。表情を変えず俺達に顔を向け、今伝えられた情報を慄然りつぜんと述べる。

「山を降りようとした一般の利用者が、崖崩れの土砂で帰り道が塞がっていて下山できなかったんだって……。そのことを今、他の利用者へ伝え回ってるって言ってた……」

「……!」

 災難が続き、時間と共に悪化していく現状に苛立ちが込み上げる。

 くそっ、これじゃ山から離れられないだけじゃなく、救助隊も登って来られない。

 土石流の中から人を救出するのは、並大抵のことではない。広範囲に流れている土砂の中から月城と男の子を探し当てて掘り起こすためには、人も道具も数を必要とする。

 緊急車両がここまで登って来れないとなると、二人の生存率がぐっと下がってしまう。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 霞ヶ丘が泣き、皿糸先生が焦り、ひばり姉さんが眉根を寄せる。

 俺は……、俺だけは思考を止めない。

 俺まで絶望に染まってしまっては、見えるものも見えはしない。

 道が開けて救助隊が到着するのを待つだけでいいのか? いつ救助されるんだ? 到着はいつになるんだ?

 おそらく、広場に着陸できるドクターヘリが真っ先に到着することになる。けれど旭川の赤十字病院からは、早くても一時間はかかるだろう。そもそも、土砂を掘り起こすのには何の力にもならない。

 状況の悪さに焦燥感が募っていく。状況の打破を考えつかない自分自身に、怒りが募っていく。

 ……いや、感情に流されるな。今やるべきことを見極めろ。できることを考えろ。

 現状の最優先事項は、救助隊の到着じゃない。月城と男の子の救出だ。

 二枚目のジョーカーは切られている。

 なら、一枚目の俺には何ができる?

 どうして、月城は自ら土石流に巻き込まれに行ったんだ?

「…………」

 月城は男の子のもとへ駆け出す直前、俺が身に付けていたメジャーの先端を掴んで行った。

「……」

 周りを見渡してメジャーのテープを見つける。当然テープは土石流に巻き込まれていて、九十メートルより前の部分は土砂の中だった。

「……!」

 ……そうだ。道が塞がっていて緊急車両が到着できなくても構わない。

 つまりは、助け出して緊急搬送できればいい……!

「メジャーだ……!」

 俺は一筋の希望を見つけ、一筋のテープに全てを賭ける。

「ひばり姉さん! 今すぐ男手を集めてくれ!」

「! まさか、掘り起こすって言うのかい!?」

「あぁそうだ。道が開けて救助隊が到着するのなんて、待っていられない」

「こんな広範囲に土砂が流れてるんだよ! 見つけられるわけないじゃん!」

「見つけられる!!」

 俺は自分でも驚いてしまうほどに、強く、熱く断言した。

 普段とは違う俺の雰囲気に、ひばり姉さんだけでなく霞ヶ丘や皿糸先生までも驚きに言葉を失っていた。

「説明は後だ。まずは、ボックスカーごと森の近くに呼び寄せてほしい」

「……分かった」

 ひばり姉さんは大人しく指示を受け入れ、スマートフォンを取り出して電話をかける。

 その様子を傍観している暇は無い。俺はボックスカーを迎えに行くため、土石流に背を向けて走り出す。

「渡刈くん!」

 その背中に、霞ヶ丘がすがるような声をかけた。

 俺は足を止め、顔だけ振り向いて言葉をかける。

「大丈夫だ。月城も男の子も、絶対に助け出してみせる」

 それ以上の問答はせず、再び足を動かして草木の中を駆け抜けた。

 森を抜けるとすでにボックスカーが停まっていて、三人の男性教師が荷台からシャベルなどを持ち出していた。

 その内の一人が俺に気付き、声をかけてくる。

「二人を掘り起こすんじゃってぇな、はよう向かおう!」

 軍手をはめ、シャベルを担ぎ、土を運び出す一輪車まで用意している。

 まさに準備万端。に思えるが、一つだけ足りない。

 俺はボックスカーに駆け寄り、荷台の中から目当ての物を探す。

「……あった!」

 通常であれば救助に関係の無さそうな、メジャーを掴んで教師達のもとへ戻る。

「案内します! 付いて来てください!」

 男四人で森を駆け抜け、三度みたび土石流が発生した場所へとたどり着いた。

「こんなにも悲惨だったとは……!」

 男性教師達が災害を目の当たりにし、その脅威に身を震わせる。

 俺はそれに構うことなく先ほど放置したほうのメジャーへ向かった。

 木の根本付近に放り出されていたメジャーを拾い上げ、持ち手部分を枝にかける。同じくその枝に新たに持って来たほうのメジャーの先端をかけ、テープをたどって土砂へと向かう。

 先ほども確認した通り九十メートルから先は土砂に埋まってしまっているが問題無い。

 俺は目の前に広がる土石流に躊躇ちゅうちょすることなく、一気に駆け降りた。

 手に握られているメジャーからテープが排出され、どんどんと巻きが小さくなっていく。その限界、百メートル目一杯まで伸びきったところで足を止めた。

「この辺りです! 月城は巻き込まれる直前に、メジャーのテープを掴んで行きました!」

 月城も、男の子が土石流に巻き込まれてしまうのは分かっていた。だからこそ救助ではない別の方法を選択した。

 男の子が単独で流されてしまった場合は居場所が分からず、たとえ救助隊が到着したとしても救出は難航する。時間が過ぎれば過ぎるだけ生存率は下がっていく。

 けれどメジャーのテープを掴んで一緒に巻き込まれれば、そのメモリから大まかな位置を予測できる。どのくらい流されたのか、その距離が分かるだけで捜索範囲をかなり絞ることができた。

 もちろん、月城が最後まで掴んでいるとは限らない。

 土中の状態が分からないため、まっすぐ伸びているとも限らない。

 はたまた、途中で千切れてしまっているとも限らない。

 何か一つの要素が欠け落ちるだけで、命を懸けた救出劇は失敗に終わる。

 けれど俺は、月城がここまで想定して・・・・・・・・俺に「待ってる」と託したあの言葉を信じたい。

 絶対に、無駄死になんてさせるつもりは無い。

 月城の思惑を理解した男性教師達がシャベルを持って土石流を駆け降りる。各々がメジャーで距離を確認し、ここだと思う箇所を堀り始める。

 俺は土砂の流れを見つめ、土中のテープがどのように埋まっているかを想定し、大まかな範囲のさらに細かい位置を計算する。

「……あそこだ」

 目印になるようなものは何も無いが、男性教師達より少し上の場所にシャベルを突き立てる。

 足をかけて踏み入れようとするが石や木が邪魔をしてなかなか堀り進められない。ただでさえ重労働な作業なのに、さらに過酷な条件での掘削を強いられる。

 けれど、月城達の苦痛はこんなものじゃないはずだ。

 埋まっている場所が深くなればなるほど、体にのし掛かる土砂は重みを増す。

 圧迫が強くなれば、肺が膨らまずに呼吸ができず、血管が潰されて血の巡りが止まる。すぐにでも酸欠状態へと陥ってしまうだろう。

 もし木々で体を傷つけられていれば、出血多量でショック死を引き起こしてしまう。出血が僅かだとしても、土中には様々な菌が存在しているため感染症になる恐れも高い。

 土砂崩れに巻き込まれるというのは、あらゆる方面から死が襲ってくるということである。

 それらのリスクに比べれば、掘削作業がなんだと言うのだ。月城は男の子を救出するまでの時間を短縮するために、自らの命を使った。

 意図が伝わると信じて、俺に命を預けたんだ。

「!」

 余計な不安を振り払って懸命に掘り進めていると、石の下からテープの一部が出てきた。土埃を払ってメモリを確認すると、八メートルと表記されている。

「埋もれていたテープを見付けました! ここに集まってください!」

 他の場所を掘っていた男性教師達に声をかけ、テープが見つかった場所から八メートルほど下がる。そこを四人で一気に掘り起こすと、何やら青いものがチラと見えた。

 それは、月城がラッキーアイテム探しで身に付けていたブルーシートだった。

 そのまま周囲を迅速丁寧に掘り、端を見つけてガバッとめくる。

「……どうだ。託された命はしっかり繋いだぞ」

 ブルーシートにくるまる月城と男の子の姿を見て安堵の息を漏らす。

 土砂崩れが発生してから約四十分、被害者二人の救出が確認された。

 


 ほどなくして中央広場にドクターヘリが到着し、救助隊員がタンカーを持って事故現場へとやって来た。

 月城と男の子はとりあえず土石流の中から引き上げて安全な場所まで移動させている。その際に二人の首に手を添えてみたところ、脈はあったので命に別状は無さそうだった。外傷もほとんど見当たらないため、酸欠で意識を失っているものと想像できる。

 医師が応急措置を施し、すぐにタンカーへ乗せてドクターヘリまで運ばれ、一人の男性教師も付き添って病院へと搬送された。

 皿糸姉妹や残った男性教師達は広場へと戻った後、スマートフォンを取り出してどこかへと連絡を取っていた。

 災害後の、さらに被害者が出たとなると、事後対応は苛烈を極めるだろう。

 小学生達も先生方も基本的には中央広場に集まっている。できることなら一刻も早く下山したいところだが、道が塞がれているのでは仕方がない。

 そんな中で俺と霞ヶ丘は、広場から少し離れたベンチに座っていた。

「ひっぐ……、ひっぐ」

 霞ヶ丘は腰を落ち着けた直後、顔を両手で覆って嗚咽を漏らし始めた。大泣きはしていないものの、ひとまず月城の無事を確認して緊張の糸が切れたようだ。

 それでも病院に搬送されるほどの事態であることには変わり無いため、不安と安堵が入り混じって少しばかり混乱を起こしている。

 俺は背中を擦りながら、理不尽な思いを胸中に浮かべる。

 何やってんだよ月城……。これは俺の役目じゃないだろ。霞ヶ丘がつらい思いをしている時、一番に隣にいなきゃならないのは恋人のお前じゃないか。

 ……けれど、その月城のために涙を流しているのだからそもそもの前提が間違っている。

 加えて土砂崩れが起きたその瞬間に動かなかった俺には、行動の是非を問う権利すら無い。

 男の子の救出を諦めた俺と、救出率を高めるために命を懸けた月城では、人間性に天と地ほどの差がある。

 霞ヶ丘をなだめながら、自分の卑小ひしょうさを溢すように吐露する。

「……ごめん」

「……?」

 霞ヶ丘は涙を拭い、俺が何と言ったのか視線で問いかけてきた。

「ごめん……。あの場で俺が動いていれば、違う未来があったかも知れない……」

 すでに終わってしまったことを謝罪しても意味は無い。考えつきもしない救出方法を悔恨かいこんしても意味が無い。

 俺の言葉には、まるで意味が無い。

「未然に防ぐ手段だってあったはずだ。土砂崩れが起きるあの現場まで誰も足を運ばなければ、こんなことにはならなかった」

「どうして……」

 霞ヶ丘は鼻をすすり、悲哀に満ちた瞳で俺を見つめる。

「どうして……、渡刈くんが謝るの……?」

 悲しみに濡れながらも、その表情には確かな意思を感じる。俺の言葉は意味が無いのではなく、間違っている。と、そう否定した。

 予想外の反応をされて少しだけ戸惑ったが、それでも俺の思いは変わらない。

「普段からあれだけ命について語っておきながら、いざ目の前でことが起こると何もしなかったんだ。土砂崩れが起きた瞬間だけでなく、子供達の立ち入り禁止区域への侵入までも見逃した。無力で役立たずで、弁解のしようも無い」

「監督不行き届きはー……、わたし達皆の責任だよー…………。わたしだってー……、土砂崩れが起きた時は何もできなかったんだからー……、同罪だよー…………」

「その尻拭いを月城一人に背負わせたんだ。どれだけ悔やんでも、謝罪の言葉しか出てこない」

「でも月城くんはー……、渡刈くんがいたから動けたんだよー。渡刈くんが居なかったらー……、月城くんだって動けなかったよー……」

「俺が男の子を庇いに行けば良かったんだ。たとえメジャーなんて無くても、月城なら思いもよらない方法で男の子を救出してくれたはずだ。そうすれば、ここで霞ヶ丘の隣にちゃんといて……、不安にさせることもなかったはずだ……!」

「今はー……、渡刈くんが側にいてくれてるでしょー。それだけで充分だよー」

「それでも!」

「渡刈くん……!」

 霞ヶ丘は俺の言葉を遮り、悲哀の瞳に怒りを混ぜて睨み付けてくる。

「渡刈くんこそ、何でも一人で背負い込もうとしないで……! わたしには、渡刈くんだって大事な大事な友達なんだよ……? これ以上……、渡刈くんのことを悪く言うなら、わたしはきみのことを許さない……!」

「……!」

 瞳の端から一粒の涙を溢し、胸中に抱えていた思いを爆発させた。

 初めて向けられた怒気に言葉を失う。

 今まで、霞ヶ丘に本気の感情をぶつけられたことなど無かった。

 それは、霞ヶ丘自身が人生無意味理論を掲げながら生きていたからだ。

 自分のことなんてどうでもいい。他人のことなんてどうでもいい。だから、何事に対しても無関心で興味が無い。

 けれど、月城が現れてから霞ヶ丘は変わった。いつ何をするにも楽しそうだった。その情は霞ヶ丘自身と月城に向けられ、ついでに俺がおこぼれにあずかっているものだと思っていた。

 でも違った。

 どうでもいい相手に、大事な友達だ、などとは言わない。

 俺は、霞ヶ丘にそう言わせるほど大切に思われていたのか。

 自分の考え違いを恥じ、目元を隠すように右手で覆う。込み上げる思いを押し留め、笑顔を浮かべて手を離す。

「……あぁ、ありがとう」

 俺も初めて、霞ヶ丘に本気の感謝を告げた。

 俺と霞ヶ丘がお互いの気持ちを確認し終えた頃、困惑気味の表情を浮かべて皿糸先生がやってきた。

「渡刈君、霞ヶ丘さん、ちょっと付いて来てもらえるかしら……?」

 事情は分からないが、詳しく語らずに同行を求めるということは複雑な事態なのだろうと想像できる。

 了承して大人しく二人で付いて行くと、小学校教師が利用しているバンガローへとたどり着いた。

 皿糸先生が扉に手をかけ、開けた瞬間に中から怒号が響き渡る。

「したから! 泣いとらんで何か言えって言っとるべさ!」

 部屋にはひばり姉さんを含む数人の小学校教師がいて、一人の子供を取り囲むように立っていた。その中で北海道弁の訛りが強い男性教師が、荒々しい剣幕で怒鳴り声を上げている。

 高圧的なその態度の先、輪の中心にいる子供とは、大輔だいすけだ。

「ごめんなさっ……! ごめんなさいぃぃいっ! いぅうあぁぁぁぁぁ!」

 タガの外れた泣き声が耳に突き刺さる。

 大輔だいすけは謝る以外の言葉を口にせず、ただやみくもに泣き叫んでいた。

 この状況はよろしくない。

 大輔だいすけは何に対して謝っているのかを全く理解していない。罪も分からずに謝り続けるその言葉には、意味が無い。

 先生方にも自覚は無いのだろうが、数人で一人の子供を囲うように立っていては冷静になりようもない。幾度となく勝手な行動を取られて怒りを溜め込んでいるのは分かるが、このままでは何も解決しない。

 俺は何のために連れてこられたのかと考えていると、男性教師が俺達の存在に気が付いて顔を向けた。怒声を収めてこちらへと近寄ってくる。

「渡刈君……じゃったか? 今回は君達のおかげで本当に助かった! 感謝してもしきれん、ありがとう……!」

 大輔だいすけの担任らしい男性教師は、自分の受け持つ生徒が招いた騒動が最小限の被害で落ち着いたことに安堵していた。

「この恩は必ず何かの形で返させてもらう! ほんっとうにありがとう……!」

 責任問題や、監督不行き届きの重圧、それら全てが最悪の形は逃れられた。男の子を助け出したその瞬間まで、のしかかる責務に押し潰されそうになっていたことだろう。

 とはいえ、事件の原因はあらゆる理由が挙げられる。

 地震などという予知できない震災。罰するために閉じ込めていた大輔だいすけの脱走。そのことを教えてくれた男の子の立ち入り禁止区域への侵入。

 もちろん大輔だいすけの勝手な行動が事件を悪い方向へと導いたのは確かだが、監督不行き届きは俺達も同じだ。

 地震以外は全て人災。俺は、感謝などされる立場ではない。

 だがそれを口にすると、再び霞ヶ丘に怒られそうな気がした。

 だからせめて、事態を収めるためにもう一仕事をしよう。

「……では恩を、お願いを言ってもいいでしょうか?」

 言いながら横目で霞ヶ丘に視線を送る。目配せに気が付いた霞ヶ丘は、分かってると言わんばかりにこくりと頷いた。

「おう、できる範囲でなら何でも!」

 男性教師は反射的に快諾する。

 それに対して、言うべき言葉は決まっていた。

「なら、俺と大輔だいすけの二人で話をさせてくれませんか」

「ぬ、ぬう……?」

 いまいち理解ができないといった返事をされたが、余計なことを考える間を与えないためにもう一押しする。

「お願いします」

 足を揃え、腰を折り、頭を下げて懇願こんがんした。

「わ、分かった分かった! 頭なんて下げんでくれ!」

 男性教師は狼狽ろうばいし、お願い自体に問題は無いと判断して話し合いを許可した。俺は頭を上げて顔を合わせる。

「あまり長い時間は取らせませんので、皆さん外に出ていてもらえますか?」

「ぬう……分かった。言う通りにしよう」

 男性教師が扉を開けて部屋を後にする。そのあとを他の小学校教師も付いて行き、ひばり姉さんも出て行こうとしたところで立ち止まった。

「ねぇ、君も……」

 俺と大輔だいすけの他に、霞ヶ丘も残ろうとしていることに気が付いて声をかけていた。しかしすぐに皿糸先生が言葉を遮る。

「彼女はいいの」

 言葉少なに真剣な瞳で訴えかけ、背中を押して退室させた。

 最後尾の皿糸先生がこちらに顔を向ける。

「渡刈君、霞ヶ丘さん、後はよろしくお願いします」

 軽く頭を下げて、部屋を後にして扉を閉めた。

 バンガローの中に残っているのは、俺と霞ヶ丘と大輔だいすけだけだ。

 ……これでいい。これでようやく、話し合いの場が整った。

 大輔だいすけは未だに泣いていたが、脅威の対象となっていた先生達がいなくなって多少は落ち着きを取り戻している。

 だがそちらには構わず、俺は霞ヶ丘に言葉をかけた。

「付き合わせて悪い。霞ヶ丘だって、まだ気持ちの整理が終わってないだろうに」

「ううん……、わたしはとりあえずー、大丈夫だよー」

 霞ヶ丘は返事をしながら、まとめ置かれている荷物の中から自分の鞄へと近付く。その中からボールペンとルーズリーフと伊達だてメガネを取り出し、椅子に座って一人用の小さな机にルーズリーフを広げた。

 伊達だてメガネまで持ってきていることに完璧な意思の疎通を実感し、決まり事となっている約束を口にする。

「下山したら、とびっきり美味いデザートを奢るからな」

「駄目だよー。これはー、渡刈くんの個人的な記録じゃないでしょー。だからー、奢られてあげませーん」

 霞ヶ丘はプイッと顔を背け、頬を膨らまして不満を表現した。けれどすぐにこちらへ向き直り、笑顔と共に言葉を続ける。

「でもー、絶対三人で一緒に食べに行こうねー」

「……あぁ、約束する」

 したたかな想いに降参の意を示し、言葉を残して背を向ける。

「泣き終わったら始めてくれ」

 返事は待たず、俺は大輔だいすけのもとへと歩み寄った。膝立ちになって目線を合わせる。

 俺が目の前まで来たことにより大輔だいすけは再び強く泣き出したが、何もされないと分かるとすぐに落ち着き始めた。

 涙は流しているが、泣き声は収まった。もう始めてもいいだろう。

 霞ヶ丘が伊達だてメガネを装着して全記モードになったのを横目で確認し、意識を切り替えるために浅く息を吸う。

 そして大輔だいすけの目を見据え、短い言葉で命相部の野外活動開始を告げる。

「なぁ、何で泣いてたんだ」

「っ!」

 大輔だいすけはビクッと体を跳ねさせたが、合わせている視線で逃げることを許さない。

 言葉を続けずに俺が何と言ったのか考える時間を与えると、おずおずとした様子で口を開いた。

「悪いことをしたから……?」

「したから、なんだ? 悪いことをしたから、反省しているのか?」

「してる……」

「何を反省してるんだ?」

「それは…………」

 大輔だいすけは言葉を詰まらせた。

 当たり前だ。

 怒られているから反省していると言えばいい。そう浅はかな思考をしているだけで、こいつは自分の行動の何が悪かったのかなんて理解していない。

 けれど、泣いて謝り続けていればいつか解放されるだなんて、そんな甘い考えは通用しない。

大輔だいすけ、悪いことって何か分かるか?」

「したらいけないこと……?」

「そうだ。じゃあ、なんでしたらいけないんだ?」

「ダメだから……」

「なんで、駄目なことはしたらいけないんだ?」

「ダメ……だか…………」

 またしても言葉を詰まらせる。けれどここまでは想定内だ。

 駄目だから駄目。そこまでしか分かっていないから、駄目なことをすればどうなるのかを知らない。知らないからこそ、好き勝手周りに迷惑を振り撒くことができる。

 悪さが何を引き起こすかを、理解していない。

「道徳の授業で習わなかったか? 良いことと悪いこと、それぞれがどんな意味を持つのか教えてもらったはずだ」

「…………」

 大輔だいすけは何も答えない。もとより、真面目に授業を受けているとは思っていない。あくまで次の言葉へ繋げるための前振りでしかない。

「良いことをすれば、皆が良い気分になるんだ。だけど悪いことをすれば、皆が悪い気分になる。大輔だいすけは皆に迷惑をかけてばっかりだったよな? そういう人には、お仕置きしなきゃならないルールがあるんだ」

 罪には、罰が必要だ。

「あの男の子が土砂崩れに巻き込まれたのは、大輔だいすけが突き飛ばしたからだ。大輔だいすけは危うく、人殺しをしてしまうところだった。人が死ぬというのがどういうことか分かるか?」

「……」

 大輔だいすけは首を横に振った。

 小学五年生であれば、本来は死についても少しは理解しているはずだ。けれど、死に対する理解度なんて年齢はあまり関係無い。

 飼育当番を真面目にしていれば小学生だって死に触れるし、普段から死ぬ死ねと口癖のように吐いているやつは大人だって理解していない。

 大事なのは、死と向き合うことだ。

「もしあの男の子が、大輔だいすけが入ったらいけない場所に行ったと教えてくれなかった場合はどうなってたと思う? 当然俺達は迎えになんて行かないし、迎えに行かなくても地震は起きていた。そうしたら、土砂崩れに巻き込まれていたのは大輔だいすけのほうだ」

 いっそこいつが巻き込まれてしまえばよかったのに。などと一瞬脳を過らせてしまった思いを振り切り、あくまで冷淡に言葉を続ける。

「誰も知らない場所で石や木に埋もれ、誰も探しに来ないから助からない。大輔だいすけはもしかすると、今頃死んでいたかも知れないんだ」

 とは言え、言葉で表現しても伝わらない。

 理解力の低い子供に死を伝えるには、もっと別の方法が必要だ。

「死ぬというのがどういうことか分からないだろ? 殺すというのがどういうことか分からないだろ? でも、分からないからって許されるものじゃない。ちゃんと罪を背負わなくちゃならないんだ」

 罰を与え、死と向き合わせる。

 言葉を重ね、納得させる。

 大輔だいすけのためではなく、俺のために。

「その罪を、自分の身で味わえ」

 俺は視線を外さずに両手をゆっくりと上げる。

 今からやることは、覚悟を決めていても簡単に実行できることではない。

 浅く、静かに息を吐き、罪悪感を殺して大輔だいすけの首に両手を添える。

「……!」

 大輔だいすけは直前まで何をされるのか分かっていない様子だったが、ようやく理解したのか恐怖に目を見開いた。

 けれど俺は止まらない。両手の人差し指から小指までを後ろに回し、親指だけを前に回す。

 そしてそのまま、力を入れて首を絞めた。

「!!」

 血管や神経をできる限り避け、気管だけを最小限の力で塞ぐ。

「……! …………!」

 とは言えそんな力加減など大輔だいすけの知ったことではない。突如襲われた死の恐怖から逃れようと必死に足掻く。

 言葉と呼吸を封じられながら、がむしゃらに俺の両腕を掴む。けれど小学生に力負けするほど軟弱ではない。苦しさの中で無我夢中にもがくも、俺の手は離れない。

「……! !!」

 こんなことは、本来やってはいけない。

 俺自身すら騙せないほどに、虐待だ。

 どれだけ言葉を尽くそうとも、決して正当化されることはない。

 十秒ほどの時間が経過した辺りで、大輔だいすけの瞳に畏怖が浮かび上がる。

 だが、まだ手は離さない。

 今はその感情をじっくりと体感させる必要がある。

 そのまま追加で二秒を数え、手を離した。

「がはっ! はぁー、はぁーっ!」

 十二秒ぶりの呼吸は荒く、酸素を取り込もうと懸命に息を継ぐ。

 追加した二秒は俺にとってはただの二秒でも、死の縁に立たされていた大輔だいすけにとっては永遠に感じられる二秒だ。

 死にそうになってもまだ助からない。俺が手を離す保証なんて無い。このまま死んでしまうかもしれない。そう感じさせるための二秒間。

「げっほ! ごっふぁ、はぁーっ、はぁー……」

 呼吸を整え終えて落ち着いたところで、俺は手を下ろして大輔だいすけに語りかける。

「怖かっただろう。苦しかっただろう。これが、死だ」

 本来、命なんてものは言葉で語り尽くせるような形のあるものではない。

 ではどうすれば伝えられるか。それは実は簡単だ。

 言葉で伝わらないのなら、本能に訴えかければいい。

 生命体ならそのほとんどが持っている、生存本能。

 本能であるがゆえに教えられずとも理解している。しかし、本能であるがゆえに教え正すことは難しい。

 だから教える場合は、このように直接的な手段になりやすい。

 だとしてもこんな死の教え方は反則だ。誰に同意を求めても、俺の味方をするやつなんていない。

 間違いを犯した少年を、間違った方法で指導する。そんな間違った現状を作り出してしまったのは、誰のせいでもない。

 俺だってできることなら正しい方法で死を教えたかった。本来ならばここは、言葉を尽くして改心を促す場面なのだろう。それこそこの場にいるのが月城だったなら、言葉も行動ももっと優しく教えていたはずだ。

 だが、俺は月城のように心理カウンセラーを目指しているわけじゃない。

 こんな方法しか、知らないんだ。

「土砂崩れに巻き込まれたあの子は、もっと怖くて、もっと苦しい思いをした」

 死の危機を比べるのは不本意だが、十二秒ほど首を絞められた大輔だいすけと、土砂の中で全身を圧迫されながら四十分以上の酸欠に陥った男の子では、死へのリスクが段違いだ。

「俺が大輔だいすけを殺そうとしたように、大輔だいすけはあの子を殺してしまうところだった」

 実際に殺すつもりがあったかどうかなんて関係無い。俺も大輔だいすけも、相手の命を危険に晒した事実は同じだ。

「人を殺すのは、良いことだと思うか?」

「……だ、だめ…………」

 大輔だいすけは怯えた表情を浮かべ、首を横に振って否定する。

 俺が大輔だいすけと同じ位置まで落ちぶれたからこそ、思いが通じるようになった。意思の疎通は、同じ次元に住んでいる者同士でしか行えない。

「悪いことをしないっていうルールはな、人を殺さないためのルールなんだ。たくさん悪いことをされると、その人は死んでしまう」

 取って付けたように関連付けたが、あながちデタラメでもない。いじめや迷惑行為など、不遇が積み重なれば自殺を決意する者は多い。

大輔だいすけは、人殺しになりたいか?」

「いや……!」

 もう一度首を横に振る。

 どうやら、悪いことが何故悪いのかを理解したようだ。

 けれど、もう一つ足りない。

 この説教を完成させるには、最後のピースが必要となる。

「付いてこい」

 俺は立ち上がり、数歩移動して霞ヶ丘のもとへ向かう。突然の行動に大輔だいすけは少しだけ困惑した様子を見せたが、ぎこちない足取りで大人しく付いてくる。

 肩に手を添えて霞ヶ丘の隣へ誘導し、その手元へと注目させた。

「ここに書かれているのは、俺と大輔だいすけの会話だ」

「……!」

 今俺が発言したことも、霞ヶ丘がほぼ同じタイミングで書き記す。

 大輔だいすけはその異様な光景に少しだけ驚いていたが、それ以上にページ全体に目が釘付けとなっていた。

 言葉を残す方法は様々な手段がある。聞いたことを思い出したり、何度も聞き返すために録音したりもできる。

 けれど、それらは言葉が文字にならない。

 対して、記入ならば文字となって残り続ける。言葉の一つ一つを、瞬間的に脳へ映し出すことができる。

 ページを全て埋め尽くすほどの圧倒的な文字の羅列は、見る者の心を震わせる。

大輔だいすけ、これはお前の罪の記録だ。そして同時に、反省の記録でもある」

 記憶は薄れていく。

 俺とこうやって話した言葉も、この林間学校で起きた出来事も、時間と共に必ず磨耗していく。

 けれどこの記録は別だ。

「このページはお前に渡す。一生、死ぬまで大切に持っていられるか?」

 ページを失くさない限り、今日の体験はずっと残り続ける。この記録を見れば、命は粗雑に扱っていいものではないと思い出せる。

「わがっ……! わがっだよぉお……!」

 大輔だいすけは涙を浮かべ、力強く頷いた。

 その目には、俺への畏怖が宿っていた。

 俺は霞ヶ丘の手元からルーズリーフを奪い、見開きのページ二枚をバインダーから外して大輔だいすけに渡す。全記モードが一番活躍した案件だったかもしれない。

 その立役者である霞ヶ丘の背中に、右手をポンと添えて全記モードを解く。

「終わりだ。ありがとう」

 霞ヶ丘はボールペンを机に置き、伊達だてメガネを外してこちらに顔を向ける。

「にひひー。おつかれさまー」

 柔らかな微笑みで俺の非道な行いを肯定し、命の子供相談部の野外活動は幕を閉じた。

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