2-5
いつもより日差しが眩しく感じられる朝。
エディの耳に名前を呼ぶ声が届いた。
「おはようございます、……エディ様」
低く落ちついた声はハロルドのものだ。彼はいつも体調の悪いエディを気にかけ、起こしにきてくれる。
ベッドは柔らかく、妙に温かくて心地がいい。
今日の予定はなんだろうかと考えて、ようやく第一王子としての執務はもうないのだと思い出す。
どんな夢を見ていたのかは忘れてしまった彼女だが、きっと夢の中ではまだ理想的な王子を必死に演じていた頃のままだったのだ。
「……ん、……もう朝か……」
ここはメイスフィールド侯爵邸だ。眩しいのは、このベッドには天蓋がついていないからだ。
そしていつもより温かいのは――。
「よく眠れましたか?」
エディの思考はまだ半分夢の中だった。だから、ハロルドの声がごく近い場所から発せられていることに気がつかない。
「……?」
目を擦りながら声のするほうに体を向けて、エディははじめて違和感を覚えた。
真横にハロルドがいて、キラキラした笑顔で彼女を見つめていたからだ。
「ど……ど、どういうことだ。そなた、なんで私の部屋にいるんだ?」
一気に眠気が吹き飛び、ベッドの上で半身を起こす。そのままジリジリと彼から距離をとる。
「夫だからです。お部屋の移動ができないほどお疲れだとうかがったので、私が参りました」
「早く出て行け。今後、許可のない入室を禁止する」
エディは図々しくもまだ寝転がったままのハロルドを両手で押し、ベッドから落とそうと試みる。
弱っていたうえに、ここ最近剣の鍛錬もしていない彼女の力では彼を押しやることは不可能だった。
「旦那様、エディ様……お目覚めでございますか?」
扉の向こうから声がかけられる。よく通る高めの声色から、ニコラだとわかる。
「あぁ、エディ様のお着替えを手伝ってやってほしい」
すぐに扉が開かれる。ニコラは二人の主人の姿を見て、ボッと火がついたかのように真っ赤になった。
「……ニコラ、なぜ顔を赤らめるんだ」
「い……し、失礼しました。未熟者でございますゆえ、お許しください」
ハロルドのシャツは乱れていて、毛布やシーツもグチャグチャだ。
そしてエディはハロルドをベッドから追い出そうとして、彼を強く掴んでいるという状況だった。
(誤解された……。作戦が台無しだ)
ハロルドのほうが一枚上手だった。
エディは不法侵入者を追い出そうとしていただけだというのに、ニコラには新婚夫婦がイチャイチャしているように見えていたらしい。
エディがにらみつけると、ハロルドはようやく起き上がり、私室に戻って行った。
ハロルドが出ていったところで、朝の支度の時間だ。
衣装部屋の中には、たくさんのドレスが吊されている。すべて、ハロルドが用意してくれたものだった。
どれもリボンやレースがあしらわれた、甘い雰囲気の乙女心を揺さぶるドレスだ。
袖を通してみたいと思うエディだが、昨日の馬車の中で「ドレスなんて煩わしいから、王宮から出たら着ない」と断言してしまった。
男装をやめない、女性らしさの欠片もない元王子というのは、ハロルドに迷惑をかけず、自分だけの評判を落とす便利な要素だから譲れない。
「これでいい」
だからエディは、王子時代に着ていた服を指差した。
「男性のお衣装ですか? せっかくこんなにたくさん素敵なドレスがありますのに、もったいのうございます」
「ドレスは窮屈で嫌いなんだ」
「……そうですね。コルセットも体への負担になってしまいますものね。……では髪だけでもお手伝いさせてください」
ニコラは納得した様子で、頷いた。
主人を含め、ここの住人はどれだけ寛容なのだろうかとエディはため息をつく。
使用人にも、わがままでがさつな悪妻だと思われる必要があるのに。
(こちらも長期戦か……)
着替えが終わったら、次は髪を整える。
一ヶ月ほどハサミを入れていない髪だが、見た目の変化はあまり感じられない。けれど、最近寝癖がつきやすくなってしまった。
ニコラはそんなエディの髪を丁寧に梳かしてくれる。
「やわらかい銀の髪……とても神秘的です。肩くらいの長さになったら、いろいろアレンジしましょうね!」
「ニコラは得意なのか? その髪はもしかして自分でやっているのだろうか?」
「ええ」
彼女の焦げ茶色の髪は丁寧に編み込まれ、仕事の邪魔にならないようにまとめられている。お仕着せと合わせても不自然にならない控えめな黒のリボンがおしゃれだった。
「そうか器用だな」
「ところでエディ様、今朝はどこか痛むところなどはございませんか?」
「勘違いしているようだが、痛くなるようなことは一切しなかった」
ニコラが言いたいのは、昨晩夫婦の営みをして、体が痛むかどうかということだろう。
この誤解は、絶対に正さなければならない。だからエディはきっぱりと言い切った。
「それはようございました」
ニコラは嬉しそうだ。仕える主人が、白い結婚のままであるというのは、そんなに嬉しいのだろうか。
「うん……? 本当に、痛みを伴うようなことは一切なかったぞ」
エディはなんとなく話がかみ合っていない気がして、もう一度そういう行為がなかった事実を彼女に伝える。
「わかっております。旦那様は優しそうですものね」
「ハロルド殿が優しいのは否定しない。……わかってくれたならよかった」
誤解が解けたことに、エディはほっと胸をなで下ろした。
今日からが本格的な戦いだ。いつもの男装はエディにとっての戦闘服だった。
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