イマリの冒険③
ギコさんは以前、僕に向かって言ったことがある。
『いいか、これは覚えておくんだぞ、イマリ。事実は小説より奇なりって言ってな、普通に考えりゃありえねえだろ、と思うようなことも現実には起こるんだ』
『はぁ……。例えばどんなことがあるんです?』
『そうだな。ほら、ゲームとか漫画でよくあるだろ。危ないのがうろついてるから気を付けろって言われたら、めっちゃ高確率でエンカウントする法則』
『え、そんなことが実際にあるんですか?』
『残念ながらあるんだよなぁ、この街だと』
ギコさんの言葉は正しかった、と今なら分かる。
だって、今まさに僕は、お巡りさんの言っていた『でっかい野良犬』と対峙しているから。
「失せろガキが! 食うぞ!」とでも言い放ちそうな凶悪な面構え。大きな体で道を遮る野良犬は、一向に立ち去る気配がない。
それどころか、じりじりと僕との間合いを詰めてきている。
「そ、そこを退いてくれるとありがたいんだけどなぁ……」
「ヴォウッ!」
「うん、ダメみたいだね……」
控えめなお願いは却下されてしまいました。
どうしよう。この道が学校への最短ルートなのに。野良犬くんの脇を通れないわけじゃないけど、僕にはかなりハードルが高い行為だ。それ以前に、野良犬くんは僕をこのまま帰してくれるんだろうか?
野良犬くんの視線は僕の持つお弁当に一直線だ。明らかに狙っている。たとえ逃げたとしても、僕を追ってくるのは間違いなかった。
周りに人影はない。助けを呼びたいけど、声を出したらたちまち野良犬くんが飛び掛ってきそうだ。
ど、どうしよう……。
いよいよ進退窮まった。残る道は野良犬くんを追い払うくらいしかない。
「グルルルルルル……」
涎を垂らした野良犬くんは低い唸り声を上げ、僕に近寄ってくる。
「こ、これはあげないよ……」
お弁当を諦めれば、この場はやり過ごせるだろう。でも、それだけは絶対に嫌だった。保身のために、頼まれたものを投げ出すなんてことは僕には出来ない。
野良犬くんは身を沈め、今にも飛び掛かろうとしている。
父さん、母さん。どうやら僕はこれから怪我人になるみたいです。
僕がお弁当だけは死守すると覚悟を決めたそのとき、しゅたっという軽い着地音が僕と野良犬くんの間に割り込んだ。
灰色のふさふさした毛並みと、小柄な体躯。そして気品ある佇まいに僕は見覚えがあった。
「ムタさん」
僕は野良犬くんの真正面に立ちふさがる猫の名前を呼ぶ。呼ばれたムタさんは僕にちらと視線をくれたあと、再び野良犬くんを鋭く睨み据えた。野良犬くんは突然現れたムタさんを警戒している。
ムタさん(♀)。飼い猫にして野良猫の頂点。この街の野良猫たちを束ねるボス。
家なし生活をしていたころ、ムタさんの飼い主が困っている場面に遭遇した僕はちょっとした手助けをしたことがあって、それ以来の付き合いだ。ムタさんにはなにかと気にかけてもらっていて、どこからか食べ物を調達してきたり、風雨をしのげる場所を教えてもらったりと、かなり助けてもらった記憶がある。
ムタさんは、自分の倍以上の体格の野良犬くんを前にしても怯む様子がなかった。さすがに100匹以上の野良猫を従える長というべきか。体は小さいのにものすごい貫禄がある。
「ヴォウァッ!」
野良犬くんが吠えた。犬の鳴き声なのかどうか分からないような吠え声だけど、迫力は満点だ。
しかし、僕よりも近い場所でそれを聞いたにも関わらず、ムタさんは少しも動じなかった。毛を逆立てて威嚇するでもなく、ただ野良犬くんを見ているだけ。
一声吠えれば逃げると思っていたのだろうか。野良犬くんはムタさんの態度に若干困惑しているようだった。じっと野良犬くんを眺めていたムタさんが前足を上げる。緩い動作で持ち上げられた前足がぴたりと静止した。
そして――
どん!
衝撃音。目にも留まらぬ速度で振り下ろされたムタさんの前足が、コンクリートにぶつかった音だった。
「キャヒィン!」
飛び上がるほど驚いた野良犬くんは、か細い悲鳴を上げて一目散に逃げていった。
「あ、ありがとうございます。ムタさん」
遥かかなたに消えていく野良犬くんを見送り、僕が話しかけると、ムタさんは振り返って、
「まったく世話が焼けるねぇ。あれくらい一人でどうにかできないのかい? 鬼の子だろう、あんたは」
と呆れ顔で呟いた。
「うう、返す言葉もないです」
恐縮する僕の目の前で、ムタさんの尻尾が2本、ゆらゆらと揺れている。
ムタさんは化け猫。僕と同じ妖の類なのだった。
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