隣の席の美少女のワイシャツの隙間に宇宙を感じるだけの小説

雉里ほろろ

第1話

 今日も今日とて夏の盛り。刺すような日差しが教室に差し込み、窓際の席に座るぼくからやる気を奪っていく。黒板にはいくつもの数式が散らばり、数学担当の萩野先生がいつものおっとりした口調で例題の解法を説明している。うっかり眠気を誘うような授業だが、こうも暑いと眠れやしない。おかげでみんな暑さに耐えながら授業を聞いている。


 なぜ勉強をしなければならないのか。少なくない学生が抱く疑問だろう。将来のため、受験のためといくつかの答えは思いつくが、その問いにぼくは「世界の神秘を解き明かすため」と答える。

 世の中には未だ真実が解明できていない不思議があり、人類の理解が及ばない未知の世界は宇宙の果てまで広がっている。それらをいつの日か解き明かすため、ぼくらは勉強するのだろう。


 とはいえそんな勉強熱心なぼくも、いつも意欲的ではいられない。特にこんな暑い夏の日は、集中力も切れるというものだ。顎の汗を手で拭い、ぼくはちらりと隣の席に座る女の子へ視線を向けた。真っ直ぐに背筋を伸ばし、彼女はペンを走らせ真面目に黒板の数式をノートに写しているようだ。


 彼女の名前は宇野涼花。去年から同じクラスのクラスメイトで、縁があるのか席替えの度に何かと近くになる。今もこうして隣の席だ。おかげで仲は悪くない。

 そして、とても可愛い。明るく社交的な性格が相まって男女を問わず人気がある子だ。かくいう僕も彼女に興味がある。


 動かす気がなくなったペンから手を離して、ぼくは彼女のことを観察することにした。

 長い睫毛。横からだとより一層分かる、すっと通った鼻筋。綺麗な顎のライン。女性らしさを感じさせる小さな肩。肩口で切り揃えられた艶のある黒髪と、対照的に夏服のワイシャツが白く眩しくてよく似合っている。

 この暑さで胸元のボタンを開けていて、無防備なその隙間に思わず視線が吸い込まれる。なだらかに隆起した胸元の、その奥がちらりと見えそうで見えない。ううむ、ミステリー。一体、あの奥はどうなっているのだろうか。ぜひ知りたい。



 思うに、彼女のワイシャツの隙間には宇宙が広がっている。



 黒板に並んだ数式では決して解き明かせない神秘と不思議をそこに見いだしていると、宇野さんがぼくの視線に気がついてこちらを向いた。視線を彼女の顔に戻す。目が合った。

 宇野さんはぼくがどこを見ていたのかまでは気がつかなかったようだ。ただ授業に集中していなかったぼくを見て少しだけ困ったように笑い、「暑いね」と口の動きだけで伝えてくる。

 なんだか秘密のやりとりみたいで少しどきどきしてしまう。「そうだね」と答えた。

 宇野さんは僅かに汗ばんだワイシャツの胸元を控えめにつまみあげ、ぱたぱたと動かし風を送る。隙間からちらちらと肌色が見えて心臓に悪い。

 だがそれに飽き足らず、彼女はワイシャツの胸元へ無造作に手を入れ、



 そして中からペットボトルを取りだした。



 今、ぼくの目の前で不思議なことが起きた。


 当然ながら、ワイシャツの中にはペットボトルを入れておく空間なんてない。けれど宇野さんはワイシャツの胸元にわずかに開いた隙間からペットボトルを取りだした。時空間の歪みでも生じているのだろうか。ううむ、ミステリー。一体、あの奥はどうなっているのだろうか。ぜひ知りたい。


 ぼくは教室を見回した。みんな黒板のほうを向いているため、一番後ろの席に座るぼくたちの様子に気がついている人は誰も居ない。

 唯一、教壇に立つ萩野先生がぼくらへ一度顔を向けたが、すぐに黒板へ向き直って続きの数式を書き始めた。先生は宇野さんがペットボトルを持っていることに気がついたみたいだが、この暑さだ。授業中であっても自己判断で水分補給をすることは認められている。だから特に言及はなく、授業を続けるようだ。

 どうやら今の不思議な現象を観測したのはぼくだけ。つまりこの謎の真実はぼく一人にゆだねられた。解明のため、宇野さんを再び観察する。


 宇野さんが取りだしたのは市販のスポーツドリンクのようだ。キャップをあけ、口をつけている。ワイシャツの襟で飾られた細くて白い喉が小さく動いた。色っぽい。ううむ、マーベラス。


 あんまりまじまじと口元を見ていたから、宇野さんは不思議そうに首を傾げた。動きに合わせてさらりと髪が揺れる。そして何かに合点したようで、口の動きだけで「飲む?」と尋ねてきた。どうやら、ぼくも喉が渇いていると勘違いされたらしい。


 ……これは、貰ってもいいのだろうか。宇野さんは既にペットボトルに口をつけてしまっている。それを貰うというのはいささか気恥ずかしい。

 だが彼女の好意を無駄にするのもしのびない。それに、ワイシャツの中の宇宙から生まれた不思議の元凶物を得られる数少ない機会だ。

 ぼくは私欲のためではなくあくまでも学術的好奇心を満たすため、極めて冷静に頷いた。決して宇野さんとの間接キスに目が眩んだわけではないことをご理解いただきたい。

 さて、宇野さんはぼくが頷いたのを見ると、羞恥かはたまた暑さかで少しだけ頬を染め、



 ワイシャツの隙間から新たなペットボトルを取りだした。



 重ねて言うが、彼女が着るワイシャツの胸元にはそんな大きな物が入る余地はない。宇野さんは――こう言っては失礼だが――あまり胸の大きな方ではないため、ペットボトルのような大きなものが入っていればワイシャツの形状ですぐに分かる。そも、どれほど胸の大きな女性であったとしても、ワイシャツの胸元にペットボトルを収納する人物はいないだろう。

 ではペットボトルはどこから現れたのか。ぼくの浅い知識では理解出来ない神秘が隠されているのだろう。ミステリアスな仕草は女性を魅力的にする。ぼくも宇野さんのワイシャツの隙間に興味津々だ。


 宇野さんから差し出されたペットボトルを受け取る。人肌に温められた、などということはなく、むしろ今冷蔵庫から取りだしたばかりのように冷えていた。彼女のワイシャツの隙間はペットボトルを冷却したまま保存できるらしい。またぼくは一歩、宇宙の真理に近づくことができた。


「ありがとう」

「ううん、水分補給はしっかりね」


 宇野さんはにっこりと笑い、もう一度自分のペットボトルに口をつけたあと、胸元へしまった。ペットボトルは物理法則を無視し、ワイシャツの隙間へするりと飲み込まれる。


 やはり、あの奥には宇宙が広がっているのだろう。

 いつか宇宙の神秘を解き明かすその日まで、ぼくの好奇心は尽きることがない。


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