第2話 今そこにある危機

 祖父、宇藤木兵部から譲られた刀を腰に、軍平はふたたび三穂神社の長い参道を歩いていた。

 かつて、祖父と訪れた当時は、素朴でくすんだ印象しか受けなかった参道は、すっかり明るい雰囲気になっている。すりへっていた石畳などぱりっとして、かなり修復の手を入れたようだ。

 それに、今日は参拝客が多く、砂埃がたつほどあたりは賑やかだった。そろそろ日暮れが気になりだす時刻だというのに人の行き来は絶えず、呼び込みの声はますます大きい。

 だが、道を歩く軍平の様子は不似合いなほどぱっとしなかった。

 歳は二十一になり、背は周囲の誰よりも高い。けれども縁のほつれた笠をかぶり、あせた羽織に隠れた背中は自信なさげに曲げられ、まるで年寄りのようである。


 この神社で祖父と話をしたあの日から、彼を取り巻く環境は激変していた。

 まず、頼りだった祖父はすでに世を去った。そして、どこか子供のようで憎めなかった父も亡くなっていた。よって、いまでは軍平が一家の主である。

 ただし、一新するはずだった脇差の拵は当時と変わらない。時の経った分だけますますみすぼらしくなっている。


 今日は、久々に陣屋に出頭したのを利用して、幼い頃からの友である石田正利の祖父母の墓参りをすませた帰りだった。

 母親のいない軍平を慈しんでくれた石田の祖母は、三穂神社に近い墓地に眠っていて、今日が月命日だった。石田は現在、江戸にいて多忙を極め、墓参りはおろか帰国すらいつになるかわからないと手紙をよこしてきていた。それで、ふと思いついてここまで足を伸ばしたのだった。


 うつむき加減に参道を行く彼の巨躯に、参道を走り回っていた子供たちが目をつけた。四人ばかりがそっと背後から近づき、周囲を二度駆け回ってのち離れると歓声をあげた。肝だめしに使われたようだ。

「とって食ったりは、しないのにな」彼は高みからやさしい顔をして呟いた。

 背丈だけは生前の祖父を上回るほどだが、残念ながらあたりを払う威厳などない。例えるなら、馬や羊ばかりの中に一頭だけ黄色いキリンが混じって所在なさげにしているようだった。

 キリンは諦めたようにまた長い首を倒して、前へと進んだ。


 奉納試合から三年も経たないうちに、祖父は冥闇へと居を移した。

 ただ一人の男子の孫である軍平をそれは厳しく鍛えた祖父だったが、怖い顔の下に溢れるほどの愛情を隠していたのは、よくわかっていた。

 だから、急といっていいほどのその死を、軍平はただひたすら悲しんだ。そして、なにかもっと役に立てたのではと日夜自分を責めた。

 しかし、父である平蔵は、そうではなかった。

 彼にとっては長年覆いかぶさっていた巨大な重石が突然はずれ、生き返った気分だったのだろう。その後の彼のはしゃぎぶりは息子を呆れさせ、周囲を鼻白ませた。

 外につくっていた女と、彼女との間にもうけた娘を家に迎え入れたのは、まだいい。連日の酒席での大活躍は、呑み助仲間の人気をいっそう高くした。

 だが、面白がっていられたのはそこまでだった。

 あとは、酒に酔っての暴言、つかみあい、酒気帯びによる勤務上の失敗。

 それまで無難に過ごしていたのが嘘のように変貌し、ついには、あやうく刃傷沙汰とみなされるほどのけんか騒動まで繰り返した。質実な家中では珍しいあばれっぷりに、人々は目をまるくした。

 割を食ったのは軍平である。

 たがの緩んだ父親のおかげで、お膳立てされていた世嗣の御世話係になる道を外れた。

 家禄も減った。小さな藩のこと、大身といってもたかが知れているとはいえ、祖父の代に家老に次ぐほどまでになった禄は、たびかさなる処罰によってぎりぎり士分にとどまる程度まで落とされた。

 これほど不名誉な目にあっても家名断絶を回避できたのは、執政連中が亡くなったはずの祖父に怯えたせいではないかと思ったりもする。同様に、父の平蔵がときおり我に帰ったように大人しくなるのは、半透明の祖父がにらんでいたせいだとの噂もあった。

 それを聞くと、幽霊でもいいから祖父に出てきてもらえないかな、と軍平はいつも思った。そして平蔵の奇行がいつかおさまるのではないかと待っていた。


 しかし、父は責任をとらずに逃げるのに成功した。それからほどなく、彼は文字通り急死した。すべての重荷は軍平の両肩に乗った。

 死後に調べると、硯や書画など軍平にも覚えのあった祖父のわずかな遺品は、とうに父によって売り払われていて、当座に必要な金のあてさえなかった。

 宇藤木家には口うるさい親戚のいない一方、頼りになる血縁も皆無だったので、十代の軍平は大人たちの間を金策と家の存続のため懸命に走り回った。

 結果、家督相続はどうにか認められはしたが、父と同じ近習役にはつけず、陣屋から遠く離れた場所にある「南の御産品所」へと回され、神社ともすっかり縁遠くなった。御産品所は、たばこをはじめ商品作物を管理する部門で、祖父の仕えた二代前の藩主が設置した当初は、選りすぐりの優秀な人材が集められたと聞くが、二十年以上経った現在は役立たずや訳あり藩士の吹き溜りの感がある。

 軍平は隣接する薬草園の差配を割り振られたが、士分は高齢の先輩ひとりだけなのは気楽でよかった。とはいえ、離れ島のようなここにも好奇の目は光っていて、目立たぬよう猫背になってやり過ごした。そのうち、こっちの方が精神面で楽なのに気づき、いまではすっかり板についた。

 ただ、覇気まで失せてしまったようにも感じる。


 大きな船のように、人の波にゆらゆら流れに従い軍平は歩いていた。

(しかしあれは、おかしな感じだったな)

 今日の午前、軍平はめずらしく陣屋へ呼び出された。唐突な話であり、そのうえ通された部屋の雰囲気は尋常ではなかった。

 直接の上司はみあたらず、代わりに日ごろはあまり縁のない兵具奉行や町奉行など七、八人のいい歳をした男たちにじろじろと顔を見られただけだった。

 そういえばご下問はあった。それも郡奉行から直々にである。

「宇藤木であるな。その方、剣の方は続けているか」

「はっ。いえ、素振り程度にございます」

「ふむ。そうか。ますますはげめ」

 いったい、薬草園と剣術と、どうつながるのか。俺の存在価値は剣しかないのだろうかと、いまごろになって憤りの気持ちが湧いてくる。


 やっと境内にはいるところまできたが、混雑はますますひどい。ぼんやりと歩いていると、行き交う人によって、手に下げた菓子の包みが持っていかれそうだ。

(しかし、いったいどうしてこんなに混んでいるんだ?火事でもあったのか)

 完全に足止めされた形になった軍平は、まるで祭りじゃないかと考えてから、自分自身に驚いた。

(そうだ、今日は三の日だ)

 神社の祭礼の日である。

 露店が出てのぼりも立っているし、女子供の参詣客も多い。他国からの旅人と見える姿格好の人間もたくさんいて、普段静かな神社はすっかり華やいでいる。

 幼いうちはあれほど楽しみにしていたのに、すっかり忘れていた。

「ああっ」軍平は棒立ちとなって、顔をしかめた。神社のことを考えるうち、思い出したくないことまで鮮明に蘇ってしまった。いやな記憶に身悶えする軍平は、さながら大きなカカシが突然動き出したようなもので、まわりにいた参拝客たち驚いて見上げた。するとさっそく、「だれだ。往来の真ん中に梯子を立てやがったのは」と、威勢のいい声がかかった。「邪魔で仕方ねえ。早く持ってってくれ。俺は縁結びに忙しい」

 あたりから笑い声が起こった。

 首をすくめた軍平は再び腰をかがめ、そそくさと神社を出る道を探した。


 彼が思い出してしまったのは、祖父と来た日とは別の、この神社に関わるふたつの記憶である。

 ひとつは、まだ祖父が元気だった時のことだ。

 二十歳を過ぎていまも独り身の軍平だが、そのときは許嫁がいた。

 彼女と一緒に三穂神社まできて、三の日の祭りを見て回った。買い食いは禁じられていたので持参した菓子をつつましく食べ、話をした。互いにまだほんの子供であったし、相手には供がついていた。それに神社はいまほど賑やかでもなかった。

 それでも軍平にとって祭りは楽しかった。帰宅してから彼が恥ずかしそうに報告するのを亡父は明るくひやかし、祖父の兵部ですら嬉しげに聞いていた。振り返るとあんなに楽しい一日があったとは、信じられないほどだ。あの日ほど、しあわせな気分で日を送った覚えは、いまに至るまでない。


 もうひとつは、ずっと悲惨な記憶である。

 例の奉納試合をきっかけに、軍平は祖父の死後もときどき、道場対抗試合などに客分として参加した。悲しみを堪えようと荒稽古を自ら科したこともあって好成績を収め続け、少しは名が知られた。

 しかし四年まえ、当時の藩主を迎えて神社で開かれた上覧試合において、軍平は悲惨な敗北を喫した。これにより、剣客として立つ道を自ら諦めた。

 ただ負けたのではなかった。殿様の目の前で気絶し、よだれまで垂らしていたのは、いかにもまずかった。

 ふだんは、思い出さないようにしている。そうでないと大声を出したくなるからだ。だが、いくら気にしていないつもりであっても潜在意識は違うようで、いまなお何種類もの悪夢が入れ替わり立ち替わり彼を苛む。

 ひどい敗戦は、軍平の人格にも影響を与えた。あれから人目を避けるくせがついたし、万事に自信がなくなった。運気も悪い方にばかり進んでいるように思える。なにより、そのあと婚約がたち消えになった。

 むろん、その前に父のやらかしたことが積もり積もったためだが、とどめの引き金は上覧試合が引いた。


 過去の記憶を頼りに、神社の裏道を探していた軍平の耳に、かすかな人の怒鳴りあいの声がとびこんできた。間をおかず、なにかを打ち付け合う鈍い音がして、女の参拝客のものらしい悲鳴があがった。

 (お、喧嘩か)

 距離はかなりある。音と声は、さっきまでいた人混みからだろうか。

 ちかごろの三穂神社は縁結びの霊験が評判となり、わざわざ他国から訪れる参拝者が絶えない。さっき軍平をからかった男も、言葉からよそ者だと思われた。

 柄の悪いのも急速に増え、喧嘩や泥棒騒ぎもときどき起こっているが、有効な対策はとられていない。理由は、町方と寺社方による責任の押しつけあいだと聞いていた。せいぜいが日暮れ前に若い女たちを帰らせるよう、番屋から人が出て拍子木を打つ程度だった。


 耳を済ませていると、争いの音は次第に小さくなっていき、すっかり消えた。軍平は安堵した。関わり合うのが嫌だったからだ。

 歩き続けるうちに抜け道のような細い路地を見つけ、そちらに足をむけた。

 大男かつ武芸者の端くれの彼に喧嘩を恐れる気持ちは薄かったが、暴力沙汰やもめごとにはできるだけ近づきたくはない。父の轍を踏みたくなかった。

 しかし、古びた石塔の並ぶ静かな道をしばらく歩くうち、軍平は足音が迫ってくるのに気づいた。

 相手はおそらくひとり。

 距離はまだあるが、どうやら足音は彼を目指している。敵と間違えられたのか、それとも喧嘩を止めろとでも言うつもりか。

 (……困ったな)うつむいたまま再度の方向転換を考えていると、

「おい、こら」と声がかかった。

「まてよ、吉之助。いや軍平。無視するな」

 聞き覚えがある。立ち止まって振り返ると、

「ああ、やっぱり」相手は安堵のため息をもらした。「そうだと思った。でかいと間違いようがなくて便利だな」

「なんだ」軍平もがっかりした声を出した。「三郎ではないか」

「いまは、正利である」

 目の下に、息を弾ませた幼馴染の石田正利がそっくりかえっていた。吉之助も三郎もふたりの幼少期の呼び名である。

 むろん、昔の名で呼んでから訂正するのは、二人が顔を合わせるたびに行うおきまりの掛け合いだった。


 ただし、久しぶりなのは本当だ。

 石田は現在、在府(江戸勤務)のはずであり、忙しくてあと一年以上帰国はかなわないとは、この前本人が手紙に書いてよこしたばかりだった。

 軍平がそう指摘する前に、石田は友を見上げ、

「おぬし、また大きくなったのではないか」と、これまたいつものネタでからかってから、「いや、旧交を温めている暇はない」とうなずき、「ちょうどよかった、というより正直に申せば、おぬしが陣屋に寄ったとの噂を聞いてこっちにきた。そしたら案の定、墓の前に佐渡屋のまんじゅうが供えてある。ばあさんの好物だったのを知っているのはおぬしだけだ。おれの家族は信心が薄いからな。線香も残っていたし、それで探していた。墓参りの礼を言うから、健気なおれに免じて、なにも言わずに手を貸してくれ」

 しゃべり出したら止まらないのは、ちっとも変わっていない。

「手を貸すのはいいが、おぬし江戸ではなかったのか」

 軍平がようやく疑問を口にすると、

「はははは」石田は高笑いした。「そこに、この事態の原因の一端がある」

 剣術はからっきしだった石田は、しかし語学に特別の才をあらわした。

 軍平の祖父のはからいによって早くから蘭学を学ぶことを得、その後江戸勤務になってからは、流行りものに弱い現藩主によって取り立てられた。

 いまは江戸に藩主が新設させた蕃書調所にいて、責任者に準ずる地位に就いているはずだった。若手の出世頭であり、吹き溜りにいる軍平とはかなり立場が違う。

 しかし、久しぶりに見た旧友は、ふっくらしていたほおがそげた気もする。思いもかけぬ気苦労があるのかもしれない。


「とにかく、おぬしの嫌うもめごとではある。ゆるせ」と石田は言った。

「そのもめごとを、かいつまんで言うとどうなる?」

「無理だ。説明するとうんと長い。それよりとりあえず俺を助けてくれ。率直に言うと追われている。連れがいたがやられた、というかさらわれた」

「え、誰に?」思わず聞いた。彼らより上の世代で江戸に送られた者のなかには、攘夷だとか尊皇だとか政治思想にかぶれたのが何人も出た。石田はむしろその風潮に批判的な男だったが、やっぱり遅ればせながら流行に乗っかって、危ない橋を渡ったりしちゃっているのだろうか。

「だれかは知らん。だが、だれの差し金かは、だいたいはわかっている。とにかく乱暴なやつらだ」

 そういって石田はまた軍平を見上げた。彼は友の腕前をよく知っていた。

 少年だった軍平が幾度か出た他流試合は、多くが立派な道場の生徒を相手としていて、凄まじい応援とヤジにさらされた。その中で、唯一軍平の側にたち、よく回る口で相手の応援団が青ざめるほどの悪口を返したのが彼だった。

「まあ、おまえを助けるのはやぶさかではないが……」

 そう答えながら、後ろに気配を感じて軍平は振り返った。

 道の先に、男が二人のっそりと姿をあらわした。

「ほらあ」石田が言った。「のろくさしてるから見つかってしまったじゃないか。まあ、お前ならなんとかなる。いや、なんとかしろ」口調は冗談めいているが、顔色はみるみる青ざめた。


「ようお武家様。いや、にいちゃん。でっけえの」右側の男が声をかけてきた。

「悪いが、どっかに行っちゃってくれねえかなぁ。おれたちゃ、その兄さんに用があってさ」

 ふたりは、武士ではなく職人風のいでたちをしている。だが、荒んだ気配が離れた軍平にも寄せてきて、とても堅気とは思えない。話しかけてきた右側の男は、細身だが頰と顎に派手な傷跡がたくさんあった。ついでに匕首をふところにのんでいるのも軍平にはわかった。左側の男は黙ったまま腕を組んでいる。禿頭で軍平に負けないほど背が高く、おまけに体の縦横に厚みがある。目はどこを見ているかわからない。顔に傷のある男より、こっちが数段不気味だった。


「おぬし、まさか借金でもあるのか」軍平が聞くと、

「ちがう、ちがう、そんなんじゃない」石田は言下に否定した。「いうならば政局に対する見方の違いだ。こいつらは、われわれに批判的な連中に雇われた荒事担当だ。連中に代わっておれたちを説得するつもりだそうだ、ただし腕力で。いうことを聞かなければどこかへ連れ去り袋叩きにする。むたいな話だろう」

「ほう。おだやかではないな」

「ふふん」

 軍平のどこかズレた返答を、顔に傷のある男は鼻で嗤いながら、ゆらゆらとすぐそばに近づいてきた。そして、無言のままの相方に目をやったかと思うと、いきなり合口を抜き軍平に突っかかってきた。

 軍平は、魚が水中で身を翻すように難なくそれを避けた。

「お、てめえ」

 びゅっと音がした。男がよけた軍平を追いかけて、合口を横殴りにふったのだ。それも避けると、男はたたらを踏んだ。

 軍平が平然とした顔のままなのを、禿頭の男が興味深げに見ていた。

「おい、抜かんのか」はらはらしたように石田が聞いた。

「私闘は禁じられている。それに相手は町人だ」

「馬鹿いうな、非常時だ。遠慮などいらん」

「しかしなあ」


 そう答えた軍平の顔の横を風が吹き抜けた。

 無言だった禿頭の大男が、背中に隠していた幅広の合口を振るい襲ってきたのだ。なんとか避けた軍平に、さっきの顔傷男がまた斬りかかってきた。仕方ない。

「ごふ」濁った悲鳴をもらし、顔傷男が倒れた。軍平が肘で鳩尾を打ったのだ。そのまま動かなくなった。

「やるじゃないか、さすが」そう言ったとたん、石田は地面にひっくり返った。残った大男が首筋を殴りつけたのだ。

「口の減らない男だが、殺すなといわれている」大男は宣告するように言った。「しかし、おめえは違う」

 そして巨体を翻すと、軍平に合口を向けて一歩踏み込んだ。

(こりゃ喧嘩なれしている)

 抜刀の前に男が殺到し、仕方なく軍平は体を交差させつつ当て身を放った。

「うむっ」

 まともに当たったはずだが、声だけで禿頭に効いた様子はない。動きを読まれ、腹を呼気で固めていたようだった。

(けどやっぱり、刀は抜きたくない)

 かなりの土壇場にあるというのに、軍平はその思いに囚われていた。

 祖父の死後、わずか数年で家を傾かせた父の失敗一覧のうち、行きつけの飲み屋の女に狼藉を働いた町人相手に刀を抜いたというのがあった。相手に非はあったのに、総合判定で父の行為が不適切となり、禄高を減らされた。理由はどうあれ、これ以上家禄が減っては、継母と妹の気が狂うかもしれない。


 二人はにらみ合った。

 だが、底冷えするような冷たい目をして大男は笑った。

「ああ、みっともねえな」

 くだらない自己抑制にとらわれた、いかにも下っ端武士らしく律儀な軍平をバカにしたのだろう。敵の巨体に、いちどきに殺気が膨れ上がるのがわかった。本気で軍平を始末するのを決めたようだ。

「じゃあな、兄さん」抜刀はないと見たのか、大男は思いっきり振りかぶり、山が倒れてくるように軍平の首筋に白刃を叩きつけてきた。

 しまった。と思ったがもう遅い。前に出ながら避けると、振り返った大男は合口を腰だめに、体当たりするように突っ込んできた。動きはすばらしく早く、なんの躊躇いもない。やばい。

 –––– 今こそ振るえ。

 頭の奥の方で誰かの声がはじけた。軍平はとっさに半ば忘れかけていた言葉を発した。

「……呪羅」同時に相手をもう一度拳で打った。

 手首から先に爆発したような感触を覚え、あたりの空気が短く強く振動したのがわかった。

 気がつくと、大男は白目をむいて倒れていた。

「ふーっ」思わず息がこぼれた。

「……おい、うとうぎ、おえ?」石田の間抜けな声がした。さっきの「術」の振動で目が覚めたらしい。

 こいつが寝ていてよかった。いくら幼馴染でも、教えていないこともある。

 軍平は、まだぼんやりしてよだれを垂らしたままの石田の手をつかむと、体を引っ張り上げた。

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