謀反人・軍平の妖術
布留 洋一朗
第1話 妖術使いの孫
【現在】
腕、肩、胸、足。ところ構わず出血して、身動きのたびにねとねとする。
(これはしまった。血が流れすぎると気力も失せるというのは、ことここに至ってはじめて実感できたぞ)
震えの出た腕で刀を構え直しつつ、宇藤木軍平は考えた。
おれはまだ余裕があるのかな?などと考えたが、もちろんない。これも血が流れすぎて、平静に考えることができなくなったためだろう。
闇に慣れた目を細め、あちこちから出血した軍平の凄惨な姿をとっくりと見てから笹子彦次郎は皮肉たっぷりに言った。
「おやおや、宇藤木。血のおかげで甘さが消えて、男っぷりが上がったぞ」
「ありがとうよ」軍平は言い返した。
二人が向いあっているのは、夜になれば人の通りが絶える林の中である。笹子彦次郎を上意討ちするために隠れていた廃屋は、すでに後方で灰になりつつある。当初いた二人の味方も、ひとりは気絶、もうひとりは射殺されてはやばやと退場した。
とはいえ、軍平が押されっぱなしだったわけではない。火矢をかけてきた雑魚たちは追い払ったし、笹子のやとった凄腕の殺し屋は、二人とも軍平が倒した。怪我の大半はそのためであり、十分自慢できる。ただし、生きて帰ればの話だ。
軍平はちらりと斜め前方に目をやり、地面に倒れたままの笹子の従者、伝助の様子を探った。さっきまで小山のようだった彼の巨体は、ずいぶんと嵩が減ったように思える。小さな「傀儡」たちは手に手に小さな容器を持ち、それを伝助にあてる作業を繰り返している。どういう意味があるのかはわからないが、とにかく忙しいようだ。これを妖術の成果というのかは軍平にはわからないが、とりあえずは任せておこう。どうせ笹子の相手は彼が自分でやらねばならないのだ。
月明かりに白刃が閃いた。とっさに躱したつもりだったが、小さく膝頭のあたりを斬られた。また出血が増えた。膝の皿を割られなかったのは幸いだったが、これでますます足の運びが悪くなる。
「よそ見などするからだ、宇藤木」笹子が嬉しそうに言った。人を苛んで楽しむこいつの性格だけは、こんな時にも変わりはない。
「うるさいな。お前の忠実な従者の行く末を見届けただけだ」
ぎりっと笹子の歯が鳴った。なんらかの愛着はあったらしい。
「これでようやく一対一だな」
軍平がそう言うと、笹子は目を見開いた。余裕ありげな口調とはうらはらに、廃屋の炎を写した彼の目玉は、血走っている。
「前々から気味の悪い奴とは思うてきたが」笹子は軍平をけなした。「ここまでとはな。だが、どこで身につけたかは知らんが、妖しい目くらましはおれには効かぬ。その野暮な田舎剣術もな。まともに斬り合う度胸など、ないだろう」
―― 妖術使いで戦に勝った話を聞かないはずだ。乱戦になれば術など、無理。
頭のどこかで冷静に考えている。
笹子の着物も所々ちぎれているが、その下から鎖帷子がのぞいていた。刀を構えなおした軍平の足下に、傷口から落ちた血がしたたったが、どこの傷かは見当もつかない。
「ふふん。痛いか。だろうな」
軍平が懐に入ろうとするのを笹子は切っ先で押さえる。それを外し、飛び違えて首筋を狙うが、動きは読まれていた。
「うっ」思わず声がでた。さっき男に突かれた胸のすぐ下に刃が突き立った。
笹子は切っ先をねじり、傷を広げた。逃げようにもうまく脚が動かなかった。喉が渇き頭はぼんやりして、傀儡たちを呼ぶ呪が出ない。あたりがほの明るくなってきたせいで、口元をゆがませた笹子の顔がよくわかった。
彼は楽しげに軍平の顔を切り上げた。避けきれず、片目が見えなくなった。
―― これは痛い。一夜漬けではここまでか。申し訳ありませぬ。
心の中で祖父に謝ると、最期に昔、許嫁だった津留を思いだそうとした。
世にも嬉しげな顔で笹子は軍平の左胸を突いた。膝をついてしまった。
「こりゃしまった」「おやかた、死ぬな」傀儡どもの声がする。
それに混じって「ようきた」と声のかかった気がした。
過去、幾度かの危急の際に聞いた声だった。軍平の頭が真っ白になり、彼の記憶は一時的に過去へと向かった。
【八年前】
あれは桜田門で大老が襲われた年だったから、宇藤木軍平は十三にはなっていただろうか。
天下を揺るがした江戸の変には、驚きさんざめくだけだった国元のひとびとも、その年の夏、稲に見知らぬ虫が湧いた時には、まるで天地の終わりがやってきたかのようにあわてふためいた。
はじめは葉に、そして茎を、穂をくろぐろと覆っていく正体不明の虫によって順調に育ちつつあった稲穂は力なく垂れ下がり、ついには根ごと枯れるものすら出た。
百姓たちは懸命に抵抗を試みたが、あまりの急激な進行に、ついになすすべをなくし、立ちすくんだ。
だれもが大凶作を想像し、暗然とした時だった。
空がにわかにかき曇ったかと思うと、灰の混じったような墨色の雨が国中に降り注いだ。
不思議の雨は一昼夜のあいだ三穂野の地に降り注ぎ、それを浴びた虫はことごとく稲から落ちて滅んだ。
虫による深刻な被害は一部の田にとどまった。やられた稲の中にも粒は小さいが米ができたものもあった。
危うく惨事から逃れ得たこの僥倖を、ひとびとは天佑と喜び、繰り返し神に感謝を捧げた。そしてその年の秋、地元の三穂神社において槍、剣、柔と相撲の奉納試合を開くことにした。
小国ながら三穂野は、身分を問わず武芸や相撲が盛んであった。子供らがこぞって参加する催しを賑やかに開くことによって神への感謝をあらわし、来年こそは豊作となるよう祈ろうというのだ。
ほどなく、軍平も出場が決まった。
彼は幼いうちから家伝の剣術を祖父から学んでいて、知人の道場へ出稽古のおりに誘いがあった。
だが、他流と交わった経験はあっても、基本的には家伝の剣を祖父あるいはその弟子とされる二人の無口な大男から教授されるだけであり、晴れがましい試合に出た経験はなかった。
だから内心、軍平はずいぶんと不安を感じていた。
家に伝わる剣術は、名を未在願流という。
源流はたいへん有名な流派であるが、これを学んだ軍平の先祖が独自の工夫を加えて再整理し、自ら開いた一派とされている。
伝承者である祖父自身、「田舎剣法だが心身の修練には役に立つ」などと古くさくやぼったい流儀なのを認めていた。
たしかに当身、組み打ちなども含んだ稽古は激しく、大道場で修行を積んだおとなでさえあごを出すほどだったが、当世はやりの素早い進退を旨とする洗練された刀法とは大きく趣が異なる。判定になれば不利なのがわかり切っていた。
また、その頃の祖父は江戸と国元を行ったり来たりの忙しい生活を続けていた。有利に試合を運ぶためには、さまざまな駆け引きや、細かな返し技などが必要だ。軍平にはそれを教わる機会が与えられないままだった。
むろんほかの出場者は準備怠りない。剣士に道場主が貼りついて指導を行なうところもあった。
日が近づくにつれ、軍平はふさぎ込むことが多くなった。
その年、多くの時間を江戸で過ごしていた祖父は、樹々の色づくころに国元へと戻ってきた。
そして孫の気持ちを見て取ったのか、試合の迫ったある日の朝、供も連れず軍平だけを伴って会場となる神社へとでかけた。
当時の祖父は、まだ現役の藩主用人だったため、人に会うと気を遣われて面倒だというので、夜明け前に家を出たのを軍平は覚えている。
三穂神社では、相撲や武芸の試合には決まって拝殿の手前にある広場が使われる。宇藤木兵部はそこに孫をいざなうと、光や風のあたり具合、足元の様子などをたしかめさせた。そして言った。
「ほかの者ならここで暗示をあたえ、勝つ気にさせたかもしれぬ。だが」
兵部はすばらしく背が高く、鑿で深く彫ったような陰影のある目鼻をしていた。彼はその厳しい顔で高みから孫を見下ろした。「幸か不幸かお前はとても聡い。つまらぬ詐術はいらぬ迷いを招くだけだ」
祖父はそう言って片頬だけを緩ませた。
「まあ、これも経験。試合に意味があるとするなら、ひとり迷いに立ち向かうことこそそうであろう。せいぜいおのれを信じ、心と体をひとところに居つかせぬよう念じて闘え。おまえなら年上が相手でも力負けはないだろうしな」
祖父に似て、数歳は上に思われるほど軍平は体が大きかったし、朝夕厳しい鍛錬を課されてもいた。
しかし、すでに周囲の目を気にする少年であった彼はつい、
「『必勝の法』というのはあるのでしょうか」と、自分でもくだらないと思えることをたずねてしまった。
権勢並ぶもののない宇藤木兵部の孫が出場すると知れるや、子供の稽古ごとなど関心のなかった層からも奉納試合が注目されるようになった。
軍平はそれを知っていて、負ければ祖父がたいそう恥をかくだろうと、気に病んでいたのだ。
それに、試合場に書き出されるはずの軍平の流派は、彼の家だけが伝える剣術であり、家名にも等しい。だからなおのこと、みっともない負け方はしたくなかった。
ついでにいうと、祖父とはまったく違って軽薄なところのある父親は、息子が負けたりすれば考えなくからかうような種類の大人であり、とても相談相手とはならなかった。
「負けてもよいではないか」と兵部は言った。「そのときはそのとき。試合には面小手をつけ竹刀を使うのであろう。殺されたりはせぬ」
「でも……」
「おまえが負けたら、わしが恥をかくと思ったか」
つまらない気遣いを見透かされて、軍平はうつむいた。
しかし、怒るかと思った祖父は、そっと孫の首筋に掌を乗せた。大きくて岩のように剛い手だった。
「おまえは優しい子だ。母親に似たのであろう。これほど優しく育ったお前を、見せてやれなかったのはまことに残念だ」
軍平の母は、彼がまだ幼いうちに亡くなっていた。
しばらく黙っていたあと、祖父はぽつりと言った。
「必勝の法か。あくまで喩えでしかなく、ただの言葉遊びに過ぎぬ。だがな、百戦百勝の剣士であれ手も足も出ぬ術は、無いわけではない」
驚いた軍平は顔を上げた。
「それはいったい、どのようなもので」
「人が人を相手につくった技で争おうとするから、どんぐりの背比べが起こる。勝ったり負けたり、喜んだり悲しんだり、恨んだり。その姿を天から見れば、可愛くも、いじましくもあるだろう」
そう言って祖父は遠い空を見やった。薄暗かった空は青くなりつつあった。
「はあ……」
「わしもいまのお前の歳には、懸命に剣や柔を修行した。しかし、いくら力んだところで刀は鉄砲には勝てぬし、まして虎や獅子にはなれぬ。いや、剣の修行が無駄と言いたいのではない。あれはあれで優れた法だ。芸は身を助くともいう」
「……」
「つまりな、吉之助。広い世界には、狭いこの国で住み暮らす者には思いもつかぬ不思議の力や技がある。鬼神のごときというが、それはまさしく鬼神による術。このような場所で口にするのはまずいかも知れぬが」
祖父は神殿に顔を向けた。
「あそこにおわす神々とはまた違う別の力であり、ほとんどの者は気配を感じることすらできぬ。しかし間違いなく、ある。それは刀槍の技のごとく単純なものではない。五体にしばられぬため深く広く、複雑である」
兵部は孫から数歩離れて天を仰ぎ、そののち振り返ってまた彼を見た。
「あえていうなら、その術、すなわち力は巨大な意識の集まり。それと自らを合一させ、力を我が力とすると考えよ」
朝の冷たい逆光の中に祖父はいた。
軍平にはその姿が、まるで孤独な彫像のように大きく、厳しく思えた。
意味するところは理解できなかったが、少年は祖父の言葉により、彼がその「力」を持っているのを理解した。一緒に暮らしていても、いや、身近な軍平だからこそわかる謎めいたところが祖父にはあったし、いくどとなく怪しい出来事も経験した。これですべてが納得できる気がした。
「さらにいえば、その力は正しく使われるのをいまも待っている。どうやら力は、お前ならできると見ているようだ」
彼は言葉を切った。
祖父と孫は、しばし黙りこんだ。
「身体は大きくとも、おまえはまだ子供だ。誤りなくかの術を教えるには、『正しい』という言葉の意味からはじめねばならん。人がやってくるようだから、また別の機会にしよう。他言も無用。だが、吉之助」
祖父は腰をかがめ、軍平の顔を親しげにのぞき込んだ。
「今度の試合では、ただ持てる力を尽くすつもりで戦え。勝っても負けても、どちらでも構わぬ。わしにとっては、おまえが元気に寝て起きて飯を食い、元気に試合うこと、それ自体が誇りだ。たとえみじめに負けようと、毛ほども恥に思わぬ」
「はい……」
「おまえに武芸を学ばせたのは、五体を鍛え理にかなう動きを身につけるのにこれ以上のものはないからであり、あくまでおまえ自身を守るためだ。見栄や人づきあいのためではない。ただし」
かるく首をかしげていた祖父は、小さくうなずいて言った。
「せっかくだから、ひとつだけ頼みがある。試合の最中、おまえが危機に陥れば誰かの声がするかもしれん。その場合は、慌てず焦らず、声をきけ」
「え、声でございますか」
「そうだ。もしや、なにやら勧めるかも知れぬし勧めぬかも知れぬ。どう答えるかは、お前に任せる。が、もし声がしたら、あとでわしにその中身を教えてくれ。それだけだ」
意味もよくわからないまま、軍平はうなずいた。
その後神社で行われた試合では、軍平は四戦して最後の試合に三つ年上の相手とあたり、結局は剣術全体で二番手に終わった。
「なにも声はしませんでした」軍平が報告すると祖父は、「そうか」とだけ言った。それ以外、彼からは褒められもけなされもしなかったが、脇差を一振り、譲られた。
刀を渡す際の祖父からは、「父には黙っておけ」と言われた。
意味はすぐ理解できた。
祖父と父は親子で見事に気質が違った。謹厳な祖父の兵部に比べ、父の平蔵はよくいえば気楽な人柄、悪くいえば享楽的であり金を費うのも好きだった。息子が高価な刀を貰ったと知れば、いつか邪心を起こしかねなかった。
だから、無銘ながらよほどの名刀であるのはわかっていたが、拵はわざと古く地味なものにしておいた。刀身から良し悪しを見抜くほどの目は父にない。
無事家督を継いだら、ちょっとはましなものにしよう。
そう思ったまま、年月が過ぎ去っていった。
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