彼女の肉とナルシシズム
仔月
彼女の肉とナルシシズム
腹が灼けるように熱い。当然だ。ここ数日、何も口にしていないのだから。思わず、街灯に身体をもたれかけてしまう。ポケットを探る。街灯の明かりに照らされる、一切れのチョコレート。先日の出来事が脳裏をよぎる。一瞬の躊躇。だが、灼けつくような熱さが許してくれない。私は目を瞑り、チョコレートを口の中に放り込む。どうか、何も起こりませんように。そう祈りながら。
瞬間、口のなかに、ドロドロとしたものが広がっていく。それは、吐き気を催すほどに甘ったるく、歯に、舌に纏わりついてくる。とても耐えられなかった。思いっきり吐き出す。何度も。何度も。
どれぐらいの時間が経っただろうか。足元には、ぐちょぐちょとした茶色いものがまき散らされている。今や、普通の食事を口にすることはできない。代わりにあるのは人肉への渇望。
フラフラとした足取りで歩みを進める。自分でも、どこに向かっているかは分からない。ただ、人のいないところに行きたかった。もはや、私は人間ではない。それでも、彼らを食べることはしたくなかった。分かっている。自己欺瞞だということは。
今までも、生きていくため、動物の肉を口にしてきた。仕方のないことだと。そう、思っていた。けれど、今回は違う。一度、人肉を口にしてしまえば、その瞬間、私のなかの怪物を認めることになってしまう。
それだけは嫌だった。わずかな人間性。それに縋っていたかった。
気付けば、目の前には廃ビルが。辺りを見渡す。周囲に人気はない。どうやら、町外れのようだ。ほっと息をつき、足を踏み入れる。
自分の目を疑った。目の前にあるものが信じられなかった。エントランスには、奇妙な形状の肉塊が横たわっていた。いくつもの目がこちらを見つめてくる。表面はぶよぶよとしており、そこから、何本もの腕、足が突き出している。
一本の腕がぶるぶると震え始める。瞬間、血しぶきが上がる。肉が裂け、別の腕が飛び出していた。手首がぐるりと回り、指が蠢いている。まるで、それ自体が意志を持つかのように。
悪夢めいた光景。夢ならば、早く覚めてほしかった。だが、奇妙な感覚があった。異形の肉塊。あれは人肉なのだと。直感がそう告げていた。
逡巡。腹の灼けつくような熱さが訴えかける。あれを食えと。わずかな理性がせき止める。踏みとどまれと。
結局、欲に抗うことが出来なかった。気付けば、エントランスは血の海となっていて、あたりには、食べ散らかされた肉片が。
悪夢は終わっていなかった。そのはずだ。けれど、目の前には少女の姿があった。彼女がゆったりと身を起こす。さらさらとした銀髪、整った顔立ち、ぱっちりとした目。たとえ、肉片と鮮血にまみれていても、曇ることなき美しさ。
「あなたが……私を助けてくれたの?」
これが私たちの関係の始まりだった。
「今日も雨。憂鬱だわ……」
そう、彼女は口にする。
「でも、遥(はるか)も外に出られないから、同じじゃないの?」
それを聞くやいなや、彼女は頬を膨らませる。
「もう、こういうのは気分の問題なの!」
表情がコロコロと変わる。その姿を見ていると、彼女が、あのときの肉塊であったことが信じられない。
「それより、彼方(かなた)。今日もお願いしていい?」
遠慮がちにこちらを見つめてくる。私のことを気遣ってくれているのかもしれない。
「良いわよ……」
私はこう答えるしかない。未だ、慣れることはできない。それでも、私が生きていくにはこれしかないから。
彼女は肩紐を外し、ワンピースをスッと下す。白い肌が露わになる。陶器のような美しさ。彼女が背を向ける。背骨からは、小さな腕や足が突き出していた。それらは蠢き。今も、増殖を繰り返している。
「じゃあ、食べるね」
「うん。お願い……」
小さな腕。口を大きく開き、歯を突き立てる。鮮血が噴き出す。
「……くっ……!」
彼女が苦しそうな声を漏らす。思わず、歯を離してしまう。
「……いいの……続けて」
わずかな躊躇。それを吹っ切る。少しでも、苦痛を長引かせないように。その一心で、私は次々と食い千切っていく。増殖する腕と足を。
辺りには鮮血。彼女の背中を見る。そこには、腕も足もない。ただ、綺麗な肌だけがある。まるで、何も無かったかのように。
「……はぁ……はぁ……ありがとう。彼方」
荒い息。彼女からの感謝の言葉。あの日、彼女は告げた。自身の身体の細胞が無際限に増殖してしまうこと、誰の目にも触れないように町外れに来て、肉塊と成り果てたところを私が助けたことを。
遥は増殖する身体を持て余していた。私は人の肉を食べることなくして、生きながらえることが出来なかった。
そう、二人の利害は一致していた。それでも、苦しそうな姿を見ると心が痛む。
「そんな……私は自分のために……」
「良いの。それでも、彼方が私を助けてくれていることは事実だから」
あのとき、私は彼女の暖かさに救われていた。
いつからだろう。遥の様子がおかしくなったのは。最初は些細なことだった。
「あれ。今日って何曜日かしら?」
「火曜日ね。もう、しっかりしてよ」
「うーん。おかしいなぁ。木曜日だと思っていたんだけど……」
少しずつ、遥の記憶は蝕まれていった。
「あなた……誰?」
最初は冗談かと思った。だから、何度も言った。私は彼方だ と。しばらくして、彼女は我に返った。何度も謝ってくれたことを覚えている。あのときの申し訳なさそうな表情。きっと、彼女は嘘をついていなかった。
私にも異変が起こりつつあった。それは覚えのない記憶。そう、遥の記憶だ。
彼女の肉を食べるたび、私のなかに、彼女の記憶が流れ込んでくる。そうして、彼女はどんどんと空っぽになっていく。
私たちの関係性も変わっていった。
今や、彼女は自分の名前しか覚えていない。だから、彼女が何者かを教えてあげる。それを聞くと、彼女の眼はさっと曇る。自身が得体の知れない存在であることへの恐怖で。
私は必死に諭そうとする。私が何者か、私たちがどういう関係かを伝えることで。それでも、彼女の不安は晴れなかった。けれど、彼女の肉を取り除くうちに、それは信頼へと変わっていった。
無条件の信頼を寄せられることが心地よかった。だから、私は繰り返してしまった。何度も。何度も。
繰り返すたび、彼女の扱いが上手くなっていく。
いつしか、私のなかは彼女の記憶で一杯になっていった。それだけ、彼女との関係を繰り返した。そして、理解した。彼女は自身が存在することに苦痛を抱いていたこと。それでも、私のため、生きようと思ってくれていたことに。
純粋な思い。それらが罪の意識を喚起する。もはや、私と彼女の境界は曖昧になりつつあった。
私は一つの決心をした。
「はじめまして。あなたは誰?」
何度繰り返しただろう、このやりとりを。思わず、いつものように声をかけそうになる。が、それを堪え、こう伝える。
「私はね。あなたを食べにきたの」
そうして、私は彼女の肉を喰らった。肉片一つも残さないように。
愛していた。そんなことはとても言えない。けれど、私にとって、これが精一杯の愛のかたちだから。
彼女の肉とナルシシズム 仔月 @submoon01
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