待てという命令

 わたしは自分が不幸だとは思っていない。どころか、すごくしあわせだと心底思っている。


 なんども、なんども、未来さまに謝られて、むしろこっちがびっくりしてしまった。……わたしがしあわせなことなんて、未来さまもとっくにわかってることだと思ってたから。



 はじめて見た、未来さまのあんなの、……激しい懺悔だったなあ、と。




 たしかに――いま思い返せば、つらいときもつらいことも、いろいろとあった。



 幼少期、天王寺家に来たばかりのころがいちばんつらかったのも、その通りだ。あのころのわたしはまだ、人間であるというところにしがみついていた。プライド、とでもいうのかな。というかそもそも、わけもわからなかったし。……でもそのくらいは仕方ないと思う。きょうからあなたは犬だ、と言われても、その場ではよくわからないのは、当然だと思う。あのころの自分をかばうわけでもないけれど。



 でも、わたしは、わりとすんなりと気づけたのだ。



 無理に人間でいようとするから、つらくなる。



 理由とか原因とかそういうことじゃなくって、わたしはここにおいてはあくまでもペットの犬なのであって。ここ、っていうのはきっとそれからの私の人生のほとんどすべてであるわけで。人間であることをすべて捨て去って、犬として生きることを、選べば、わたしはかくんと天秤が傾くかのように、あっさりとあっけなく、幸福になれるんだって――気づけたのだ。




 そうして犬を選択してみれば、世界はわたしに優しくなった。

 怖かっただけの未来さまに頭を撫でてもらうと、なんだかちりちりと気持ちよくなって、そのままとろけそうになることも知った。


 ……未来さまは、わたしをちゃんと育ててくれた。世界で、いちばんでゆいいつの、わたしもご主人さまなのだ。


 未来さまはあの夜、わたしのそれを諦めと呼んだ。



 でも、諦めでなにがいけないのだろう。



 わたしはそのおかげで、生きてくることができた。……人間であることにしがみつき、気が狂いそうだった日々を、犬として生きることを選択することでくぐりぬけ、いまは、とても穏やかな暮らしを送っている。




 ううん。……そんなのは、言いわけに過ぎなくて。




 わたしは――犬であることのしあわせを、すでに知ってしまっている。……人間として生きていれば、きっと知ることもできなかったいろんないろんな気持ちいいこと愉しいこと。

 わたしにとってはそれがすべて。




 ……だからこそ、困ったことになってしまったとはわたしだって思ってる。




 わたしは人間として未来さまとおなじ目線で話をする気はなかったのだ。……いつだって見上げていたいと思ってて。


 それなのにわたしはどうしてあの日、ほとんど鳴らない携帯電話にメールをもらって、わたしも知っているくらいのきれいなレストランで、まあ、だいたいなにがどうなるかは予想できたのに――悩む余地もなく行こうと思って、じっさい行って、あんなことになったのだろう。


 言葉では、いろいろ言ったけど、わたしが最後の最後に――未来さまを拒絶できるわけも、ないのだ。


 わたしのほうだって、きっといけなくって、ペットとして頭を撫でられるだけでは飽き足らなかったと――そういうことなのかもしれないけれど。




 ……ペットは主人にそういう意味での愛情を求めてはいけないはず。

 そして、主人は、ペットにそういう愛情を抱けば、混乱するはず。




 それなのに、未来さまは、わたしを――愛してくれようとしていて。




 あの夜、わたしたちは、はじめてするような話をいっぱいして。そして最後に未来さまは、真剣な顔をして言った。




『俺を信じていてくれ。……待っていてほしい。かならず、どうにかする』




 わたしが笑って、それは待てっていう命令ですかって訊いたら、未来さまは苦笑して、でもうなずいていたから、そういうことにしておいた。





 命令なら、順守できる。

 信じるとか、信じないとかではない。

 主人の命令はペットにとっては絶対なんだって、それだけのこと。

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