第1話 二郎

 藍沢一郎あいさわいちろうは、それはそれなりのサラリーマン。

 1日の仕事を終え、単身赴任のアパートへと帰ってきた。

 もちろん部屋には誰もいない。

 それでも藍沢は、「今日の企画、もっとゴリ押しすべきだったかなあ……、おい、二郎、お前の意見は?」と声を上げ、冷蔵庫からビールを取り出し、グビグビと飲む。


 単身赴任生活、楽しみと言えば、缶ビールを片手にテレビを観たりインターネットで遊んだりする程度のこと。

 当然なこと、充実感はない。

「あ~あ、何かもっと面白い事はないかなあ、だけど金もないしなあ」とすすけた天井に向かって独り吐く。

 そんな無味乾燥な日々が続いていた。


 しかれども、それは3ヶ月ほど前の事だった。

 二郎が藍沢の部屋に住み出したのは。


 二郎と言っても、ヤツは人間ではない。

 そして犬でも猫でもない。

 単なる半透明の球なのだ。

 それを強いて分類すれば風船なのかも知れない。

 しかし、突っついても決して割れない。

 その上に、最近はちょっと賢くなってきたのか、時々変形して、怒ったような表情になったり、笑ったような表情をしたりする。

 そんな不可解な二郎が、今夜も部屋の中で、と浮いて自由に漂っている。


 藍沢がこんな二郎に初めて遭遇したのは、確か寒い満月の夜だった。

 会社の仲間達と飲み歩き、かなり酔っ払って帰って来た。そして一っ風呂浴びて、あとはゆったりとニュースを観ていた。

 そんな時の事だった。

 目の前に、5センチくらいの……、シャボン玉のような物がふわりふわりと浮かんでいたのだ。


「こいつ、何だよ?」

 藍沢はまずフーと息を吹き付けてみた。だが割れずにゆらゆらと揺らぎ、空気中を漂っている。

 次に藍沢は、近くにあった楊枝で突き刺してみた。

 しかし、そのまま球体の中にスポッと指ごと入ってしまい弾けない。

「ほぉー、奇妙奇天烈なヤツだなあ、だけど実に鬱陶うっとうしいよ」

 藍沢はそう文句を付け、窓を開け蒼い月に向けて放り出した。

 しかし翌朝、また部屋の中にふんわりと浮かんでいるのだ。


 こんな事を3回ほどは繰り返しただろうか。

 その内に、単身赴任の殺風景な部屋の中で、ただただ浮かび、自由に漂っているだけのこんな半透明の球体に愛着も湧いてきた。

 そして遂に諦め、「まっいっか」と一緒に暮らし始めたのだ。


 当然生活を共にするようになれば、名前を付けてやらねばならない。

 ここはシンプルに、藍沢一郎の名を継いで、二郎と名付けてやった。

 そして更にわかってきた事なのだが、水を飲ましたりしていると、二郎は確実に成長して行くのだ。


 出逢ってから3ヶ月、二郎は随分と成長し、直径50センチ位の大きさにもなってきた。 さらに驚くべき事に、要求までをもするようになってきたのだ。

 例えば藍沢がビールを飲んでいると、遠慮する事もなく球体をぎゅっと前へ尖らせて、ビールをねだってくる。

 そんな二郎が、今宵も藍沢の目の前で、気楽そうにふわりふわりと浮かんでいる。そして事もあろうか、またまた早くビールを飲ませろと口をツンと尖らせてくるのだ。


 だが今宵の藍沢は少し虫の居所が悪かった。

 遠慮もなくせがんでくる二郎が気に食わない。

「俺のビールばっかり飲みやがって、一体お前は誰なんだよ?」

 藍沢は尖り声で二郎に問いただしてみた。

 すると二郎は球体を突き出し、無礼にも藍沢を下あごで指してくるのだ。

 藍沢はこの仕草がどういう意味なのか最初わからなかった。


 しかし暫くしてはっと気付くのだ。

「おいおいおい、それって、お前は俺という事か? となると、俺は……、お前か?」

 藍沢はこう思い至り、その意外さで全ての動作と、そして思考がカチンと固まってしまった。 

 こんな藍沢に、二郎は自信たっぷりに、「うんうん」と頷いてくる。


「何でなんだよ!」

 藍沢は思わず絶叫。

 こんなふわふわ野郎が俺の分身だとは許せない。

 されどもその反面、「なるほど、それで俺と同じようにビールが好きなのか、まあ世の中、こういう間柄もあるのかなあ」と少し合点もする。


 だが、こんなやりとりに藍沢は疲れてしまった。そして、「おい二郎、もう寝るぞ」と告げ、ベッドに潜り込んだ。

 冷やっとしたシーツの感触が身体全体に伝わってくる。

 多分アパートの外は、街灯で淡い光の世界が広がっていることだろう。

 しかし今、藍沢の瞼の中に見えるものは何もない。

 そんな静寂しじまの中へとゆっくりと埋没して行く。

 そして二郎は、いつの間にか藍沢の冷えた頬の辺りに、如何にもまん丸くなって、そっと寄り添って来ているのだった。


 藍沢一郎とふわふわ野郎の二郎、こんな一人と一匹の小さなアパートでの共同生活、さらに3ヶ月の月日が流れた。

 藍沢は相変わらず仕事に追われている。

 一方二郎と言えば、より知恵が付いてきたのか、テレビを観たりインターネットをしたりのお気楽生活。

 そのせいか部屋は散らかり放題。

 藍沢は、毎朝出勤前に「片付けておけ」と二郎に指示をして出て行く。


 確かに最初の頃は、二郎は殊勝に「はいはい」と整理整頓に励んでいた。 

 しかれども最近は随分と生意気になって、藍沢が指示を飛ばしておいてもサボッている。


 そんなある日、藍沢は風邪気味で早目に仕事を切り上げて戻ってきた。ドアーを開け部屋へと入ってみると、相変わらず散らかったまま。

 そして二郎と言えば、パソコンの前でふわりふわりと浮かんで、ビールをあおりながらネットをやって遊んでいる。

「こら、二郎、掃除もしないでビール飲んで、何やってんだ!」

 藍沢はまずはきつく叱り飛ばした。そして二郎が見入っている画面を覗いてみる。

 どうも二郎は、藍沢のネット証券口座に侵入し、勝手に株の売買をしているようだ。

 藍沢の虎の子の優良銘柄、まず50万円の損切りをし、そして事もあろうか、ボロ株に買い注文を出しているのだ。


「アホか! 昼間っからビール飲んで、俺の株で勝手にたわむれるな! これぞ世に言う業務不履行で、不埒ふらち窮まる行いだ、――、出て行け!」

 藍沢は怒り心頭。

 一方ふわふわ二郎は、分身の一郎から思い切り怒鳴られて、しおらしく落ち込んでしまったようだ。

 涙ぐんでいるのか、球体の表面をうっすらと濡らしている。その上に、突然球体の真ん中にスパッと割れ目を入れてくるのだ。


「おいおいおい、二郎、切腹してどうするんだよ、まあ落ち着け、その腹を元に戻せ!」

 藍沢はそう叫ばざるを得なかった。

 そして、「もういいよ、持ってても損、売っても損、そんな株だ、気にするな」と優しくなだめにかからざるを得なかった。


 しかし、二郎は土下座までして謝ってくる。

 まるで「この不始末、男としてきっちりと責任取らさせてもらいます」と陳謝してきているようでもある。

 そしてその後に、二郎は藍沢の「出て行け」の命に従い、音もなくどこかへ消えて行ってしまったのだ。


 こんな出来事があってから1週間後に、藍沢は妻の夏子に電話を入れてみた。

「あなた、私、最近メッチャ元気なのよ」

 夏子の声がヤケに弾んでいる。

「ほう、それは良かった、で、どうしたんだよ?」と聞いてみる。

 すると夏子は、「あのね、1週間前から、ポチが一緒に住んでくれるようになったのよ、可愛いのよ、……、毎晩私のベットにも入って来てくれてね、抱き枕にもなってくれるのよ、ホント、癒やしてくれるわ」と妻がハッピーそう。


 藍沢はとりあえず一安心だ。

「へえ、それでその犬はチワワ、それともパピヨン?」と尋ねてみる。

 すると夏子から間髪入れずに、「あなた、ポチは犬じゃないわよ」と。

 藍沢が「えっ」と言葉を詰まらせていると、夏子からさらに、「ポチは風船と言うか、丸っこくって、いっつも私の周りをふわりふわりと浮かんで漂っているのよ」と驚きの答えが返ってきた。


「なぬっ!」

 藍沢は絶句。

 そして呼吸を整えて、「おいおい、それ、ポチじゃないよ、そやつは二郎と言うんだ、――、俺の分身なんだよ!」と訴えた。

 さあれども夏子は動じない。

「それでなのね、あなたみたいに大きなイビキをかくのね、だけど二郎はあなたよりずっと優しいわ、と言うか、……、上手なの」


 藍沢は、「あのヤロー、俺の分身だからと言って、なにも俺の女房を寝取る事はないだろうが」とムカムカッとくる。

 しかし、夏子のテンションは上がり放し。

「あなた、私、今二郎がいて最高に幸せなの、だからお金さえ入金してくれれば、ずっと単身赴任を続けてくれても平気よ、だから好きな会社で、もっともっと頑張って頂戴」

 これを受けての藍沢の返事は、「うん、まあなあ」とまことに歯切れが悪い。

 一方夏子は、「二郎との生活、言い尽くせないわよ、……、甘くって」とますます舞い上がっているようだ。


 こんな夏子との会話を終えて、藍沢はいつもの冷えたベッドへと潜り込んだ。そして詮方ない思いでボソボソと呟く。

「夏子は二郎と住み出して幸せそうにしている、これは分身の二郎が俺に代わって、夫の役目を果たしてくれているのかも知れないなあ、――、うーん、切腹を放免してやったら……、これがその代わりの、ヤツの男の責任の取り方だったという事なのか」

 藍沢はこんな屁理屈に一人納得し、ゆっくりと目を閉じる。

 暗闇が身体全体の上にしっかりと覆い被さってくる。


 そしてその後、単身赴任の堅いベッドの中で、なぜか一種の安堵感を覚えながら深い眠りへと落ちて行くのだった。



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