第3話 失恋日和

 彼女は慌てて買ったビニール傘をさして空を見上げた。

 まだ、少しだけど、雨はポツポツと傘の上に小さな粒を落としている。


 こんな時に限って、と彼女は思う。

 よりによって、今日じゃなくてもいいじゃないの。


 精一杯のオシャレ。

 お気に入りの水色のワンピースに背伸びした細いヒールの高いパンプス。

 でも、その片方はヒールが取れてしまっていた。

 片方だけだから余計に目立つし、惨めな気持ちになる。

『きっと、あの時だわ』と思い出したくないシーンが蘇る。


 ***


 大事な話があるんだ、と呼び出されたのは、いつものCafe。


 その人は、ずっと小さい時から一緒の幼なじみで、彼女を妹のように慈しみ可愛がってくれた。

 そう……妹のように。


 きっとそこに恋愛感情はないのだと気づいていたのだ。でも認めてしまうのが怖かった。

 ずっと知らないふりをして、それでも側にいられたら良かったのに。


 *


 そのひとはもう、Cafeに来ていた。

 小さく手を挙げて、いつもの合図。

 でも、その横には大人びた髪の長い女性ひとが座っていた。優しそうに笑うひと。


「今度、結婚するんだ。この女性ひとと」

 その人が微笑んで恋人を紹介する。


 彼女は挨拶をして『おめでとう』と言っているのだけど、自分の声が自分のものじゃないみたいに遠い。


「君には最初に報告したかったんだ。だって僕にとって君は大切な妹みたいな存在だから」

 気づいていなかったから言えるのだろう残酷な言葉。


 笑顔を作りながら彼女は少しでも早く、此処から消えてしまいたいと思った。


「ごめんなさい、実は今日、急な用事が入ってしまって、急いで行かなきゃいけないの」

「また、改めて、お祝いを贈らせてね」


 彼女はそう言うと、Cafeを飛び出した。

 おかしいと思われただろうか。

 気づかれてしまったかもしれない。

 でも……。


 ***


 人混みで肩がぶつかった拍子によろけて、変なふうに力が、かかったのだろうか。

 細いヒールはポッキリと折れてしまった。

 折れたヒールは弾けて飛んで何処かにいってしまった。

 彼女には探す気力もない。


 雨が降り出しそうになったので、100円ショップで透明のビニール傘を買う。

 さした途端にポツリと落ちてきた雨は、まるで涙みたいだった。


(空の画家は雲を描いていた。灰色の雲はどんどん暗く濃い色になっていた。その色しか今は見当たらなかった。だけど、冷たい灰色にはしたくなかったから、画家は柔らかな蜂蜜色を少しだけ混ぜた。それは彼と一緒にいる時の彼女の瞳が宿していた色)


 雨はしばらく降り続いた。

 彼女は傘をさしたまま街を歩き続けた。

 雨に紛れながら彼女は泣いた。

 雨は一緒に泣いてくれた。


 *


(空の画家は灰色雲に、ほんの少しの空色と白い絵の具と、それからもう一度、蜂蜜色の絵の具を混ぜた)


 少しずつ、雲の色が柔らかくなっていった。

 立ち止まった彼女が空を見上げると、そこには雲の合間から一筋の光が射し込んでいた。


(そうだよ。雨もいつか止むよ。灰色雲にも色々な色があってね。こんな風に……と画家は新しい絵の具を筆にとって空をそっと撫でた)


 真っ白な雲ではないけれど、その薄灰色の蜂蜜色を含んだような雲は、とても優しく見えた。


 ***


 彼女は傘を丁寧に畳んで、それから歩き出した。

 靴屋さんに行ってスニーカーを買おう。

 青いスニーカーとワンピースじゃミスマッチかな?

 ううん、それでも今はそれを履きたい。

 そして思い切り走ってみたい。


 細いヒールの靴はヒールだけを低いものに替えることができないか聞いてみよう。

 これは失恋の記念に。


 今度、彼に会ったら、心からおめでとうって言いたいな。

 胸が痛くないと言えば嘘になるけど。


(空の画家は最後に、薄く澄んだオレンジ色でひと刷毛、空を滲ませた。彼女へのに、そっと)

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