生後107日目

 他人と自分を比べて卑下するなんて、なんともバカらしい話なのだろうか。


 誰かにたとえショボいと言われようが、そいつにはそいつの物語がある。


 テメェのサイズにあった本気があるのだ。


 そしてそれは、大きければ偉いってもんじゃなくて、一つ一つが大切で、素敵な物語なのだ。


 ちっぽけな世界にしかない苦労も、


 ちっぽけな世界にしかない感動も、


 でっかい世界のやつには味わえないもんだ。


 テメェらだってくだらねぇ劣等感を感じちまうことがあるだろう。


 けれどんなもんくれーで下を向いちまっちゃいけねぇ。


 それが他人から見てどんなに小さくても、どんなにショボくても、それはそうにしか見れないそいつの目が悪ぃだけだ。


 本気で感じた気持ちに、本気で挑んでる奴は誰だって、カッコいいってもんだ。


 それを忘れんな!


 最近歩くよりもハイハイの方が速いことに気付いて軽く凹んだ俺との約束だ。


 ☆


 平日の夕方ちょっと前、俺は危機に面していた。


 俺は今、とてもウンコがしたい。


 それまでに俺に残された時間はあと僅か。


 経験上、持って10分といったところだろう。


 オマルまでの距離は15m、大腿筋と上腕二頭筋をハイブリッドに活用した俺の全力のハイハイで向えば30秒かからない。


 しかしトイレまで残り約9m地点、そいつはいるのである。


 ギュスターブ(5歳)が馬のオモチャ(木製でメチャメチャ硬い)を振り回して遊んでいる。


 なお、レナもジョセフも仕事に出かけているため援軍は望めない。


 ぶほっ。


 くそ、あれこれ考えているうちに屁が出やがった。 


 ……もう後がねぇ。


 ……そこのお前、『何を大袈裟な……』とか思っちゃいねぇだろうな?

 

 俺にとっちゃ生死を分かつ戦いだとしても傍から見れば単に、


『自分でオマルが出来る天才0歳児が5歳児に邪魔されてしまいそう』


 なだけに見えてしまうかも知れない。


 けれどお前らがそう感じるのは、あくまでそれを、"大人サイズ"という視点で見ているからでしかない。


 ではここで、俺の視点から事態を把握してみよう。


 ギュスターブの野郎は俺の倍程の身長で筋力に至っては5倍以上。そのうえ知能はまるっきり5歳児で自制心なんて全くない。


 これを"大人サイズ"にリライトするとこうだ。


 俺の進む先には身長3メートルの狂暴なバカが俺をぶん殴ってやろうと凶器を持って待ち構えている。


 ……どうだ、絶望的だろう?


 そしてもう一つ言わせてもらうとテメェらは、


 『赤ちゃんなんだからウンコくらい漏らしたっていいじゃん』


 とか思うかも知れない。


 けれどそいつももう一度ちゃんと考えてみてほしい。


 好きな女にウンコを拭かれる男の気持ちってやつをな。


 だから俺はぶっ倒さなけりゃならねぇんだ。


 凶器を所持した巨人を、丸腰のままで。


 ……くそっ、脚が震えて来やがった。


 けれど俺ぁ諦めたりはしねぇ、見てやがれ!


 ……おっと、んなこと考えてる場合ではない。


 時間は残されちゃいないのだ。


 パツイチで決めるしかねぇ!


 ………っ、…………よし!


 俺は自身の大腿筋と上腕二頭筋に全神経を集中し、加速度的なハイハイスタートをキメ、一直線にオマルを目指す。


 俺の作戦はこうだ。


『ギュスターブのクソ野郎がよそ見をしている間に超絶ハイハイでオマル(個室)まで走り抜けて鍵を締めちゃえ大作戦!』


 よし、オマルまで7m! ギュスターブは俺にまだ気づいちゃいない。


 そこで俺は、音で気づかれないよう、脚の力を抜き、腕に強く力を込める。骨ばった膝よりも肉の厚い掌のみで地面を蹴る、サイレントハイハイでただひたすらに前を目指す。

 

 ギュスターブ横を突破、オマルまであと4m、……いける!


 腕に力が入らなくなってきたがもうひと踏ん張りだ。

 

 ……よし、オマルまで1m、よし、あとは立ち上がってドアを……っ!!


 俺が立ち上がった瞬間、目の前に頭の悪そうない大男が立ちはだかる。


「キュナイ〜、おまえ、うんこしたいんだろ?」


 ……くっ、ギリギリのところで気づかれてしまったか。


「……お前には関係ねぇよ、どけ!」


「キュナイ〜、おまえ赤ちゃんのくせに」


 言いながらギュスターブは右手に持った木製のサラブレッドを素早く薙ぎ払う。


「……っ!」


 蹄を鼻先ギリギリで交わす。これくらいは想定内。


「……イキナリ鈍器とは、相変わらずイカレてやがるな」


「どんきーってなんだぁ! キュナイのくせにむずかしいことゆーなぁ!」


 ブチギレたギュスターブは俺に向かって全力で馬を投げる。


「……おっと!」


 危ねえ、もう少しで当たるところだった。いくらオモチャといえど木は硬ぇ。俺の未発達な頭蓋骨にそれは、フルスイングの木刀と同等の危険度だといえよう。


 ……それにしてもなんて理不尽な野郎なんだ。このままじゃコイツは将来、ならず者になるんじゃないのか。

  

 ガシャン!


 こ気味の良い音と共に、壁に当たった馬の脚が折れる。


「……あ」


 ……ふむ。


 それを見たギュスターブの目が一瞬曇るのを俺は見逃さなかった。


「あーあー、やっちまいやがったな。……レナに怒られるぞ」


 情けないがここは間接的にレナを頼らせてもらう。


「きゅ、……きゅっつければだ、大丈夫だぁ! そこどけ!」


 誰に対してもイケイケなこいつが、唯一恐れる生命体であるレナに怒られることを想像したのだろう。青くなった顔で馬に駆け寄る。


「……ふんっ!」


 俺の横を通り過ぎる短い脚を、後ろから力いっぱい持ち上げてやる。


「ぐぎゃっ!」


 よし、成功だ!


 バタンと小気味良い音と共に倒れたギュスターブは、潰れたような声を出す。


「ぎゅ、ぎゅないぃ……」


 ……よし、チャンスだ! 


 今のうちに個室に突入すべく、俺は素早く移動する。


 オマルまであと50cm、やっと、やっと、戦いは終わる。


「……ふっ」


 ギュスターブ、……いい戦士だった。


 俺はお前を忘れなイタタタタタ!


「え? なんだ? 浮いて?」


 猛烈な痛みとともに視界が一気に揺れ動く。下を見ると木製の馬を持ったギュスターブが、ゴミのようなサイズで泣いている。


「クナイちゃん、なにしてんの?」


 そして聞こえてくるのは最も愛おしく、かつ今は最も聞きたくない声だ。


 やがて頭部の激烈な痛みは消え、全身を柔らかな感触に包まれる。


「れ、……レナ? し、仕事に行っていたはずじゃ……」


「今昼休憩なの」


「そ、そうか」


「で、何してんの?」


 いかん、声が平坦だ。……ヤバい、これはあれだ、ジョセフがやらかした時と同じテンション、つまり、かなり怒っている。

  

 そして俺の直腸は更にヤバい。


「す、すまない、後で何をされても構わないからとりあえず下ろしてくれないか?」


「……何したか答えたら下ろしたげる」


 ヤバい、レナのやつ俺のお尻に掌をそえて持ち上げてやがる。


 ……このままじゃ俺は、……俺は。


「ギュスターブをこかして泣かせた反省はしていないとうっ!」


 言い終わると同時に俺は体内の全てのエネルギーを頼りない大腿筋に送り込み、渾身のジャンプをキメる。

  

 骨が折れるかもしれないが、最愛の女の掌にコーウンをかますくらいなら死んだ方が……うっ!


「もう! 危ないでしょ!」


 飛び降りようと一度は中に放り投げた俺の身体は、ぐいと強くレナの腕に抱きしめられる。


「違うんだ! 降ろせ、降ろしてくれぇ!」


 ブビッ!


「……あぁ、なんか、ゴメンね?」


 俺の屁の音を聞いたレナは、何も言わずに俺を降ろした後、目を合わせずに小さく謝る。


 心なしか鼻をヒクヒクと動かしているように見えるのは気のせいだと信じたい。


「……い、いや」


 そして俺は何も言えず、ただゆっくりとトイレに入り扉を締める。


 もしも神がいるのならば、たった1つ願うこと。

  

 あと少し、少しだけでいい。


 ……大腸、大腸のキャパを増やして欲しい。


 そうすればきっと、俺は不必要に人を傷つけ図に済むのだから。


 

 


 


 

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