雪国
蔦野 蘿
前日からの雪は降り止み、珍しく青空が広がっていた。相変わらず冷たい風が吹き荒ぶが、暖かな日光が銀世界を射貫いていた。
午前八時、当直だった曽我巡査は、寒さのせいでまともな仮眠を取れなかったこともあり、寝ぼけ眼を擦りながら、あと一時間程度で始まる非番を待っていた。非番といっても休みではないから、有事の際には動かなくてはならない。だが、それさえも億劫になるほど寒さは厳しかった。
いつもと同じ、代わり映えしない一日が始まる。何か馬鹿でかい刺激があれば、やる気が出るのだろうが、曽我巡査の担当する小さな町ではそういったことも起きない。そもそも、市民の安全を確保するという仕事柄、そういったことは無い方がいい。しかし、退屈だ。退屈で仕方がない。大きな、それでいて空虚なため息を吐いた。“転職”なんていう、途方も無い言葉が、淡く浮かんだような気がした。警察を辞めたとして、どうやって食いつなぐんだ、と邪念を噛み砕くも、反芻しているように思えて嫌気が差す。
山道に男性の死体があるとの一報は、曽我巡査の眠気覚ましにはあまり効果的ではなかったが、平和で退屈な日常に現を抜かしていた彼の感覚を刺激した。
曽我巡査の勤務する交番に駆け込んできた老婆の言うことに「ほぅ」や「へぇ」などと適当な相槌を打ちながら、驚く振りをすることは欠かさなかった。だが、どことなく期待しているということは自覚していた。
曽我巡査が本署に報告したところ、現場確認の要請があったため、交代の巡査宛のメモを残し、無線機を持って老婆とともに現場へ向かった。
現場は老婆の言う通り山道だった。老婆が日課の散歩を寒さのために諦めていたとすれば、遺体は誰にも発見されなかっただろう。曽我巡査は肩を叩いたが、すでに人間の体温ではなかった。捜査一課に人員を要請した。
遺体に出血した痕跡はなく、おおよそ凍死だろうと思われた。いくつかビールの空き缶が転がっているところを見るに、自殺したのだろうということが、刑事課でない曽我巡査にも容易に想像できた。
老婆によると、雪の中にズボンのようなものが見えたので雪を退けたところ、男性の遺体とビール缶、そして手紙が見つかったとのことだった。手紙は丁寧に防水加工されていた。刑事課が未だに到着しないこともあり、曽我巡査は悪いと思いながらも、それを開いた。
私は、根津寺という学生です。私は、自殺するために雪国に向かうことにします。
私は今まで何度か自殺を図りました。しかしながら、そのどれも悉く失敗してしまい、万策尽きたように思われました。インターネットで検索したところ、凍死という方法があることを知りました。これしかないと、私は思いましたので、そのために準備を進めてきました。私の近くには酒の缶が転がっていることでしょう。それも私の準備したものです。無論、自殺するためです。未開封のものは、持ち帰って飲んでいただいて結構です。金のない学生の分際では、毒なんて物騒なものは用意さえできやしませんから。
私が自殺しますのは、生きていることに飽きたからであります。失恋などの“まとも”な理由で飽きたのではありません。ただ、毎朝起きて朝食を食べ、大学に行き、授業を受け、昼食をとり、午後の授業を受け、アルバイトに行き、夕食をとり、風呂に入り寝る。このサイクルを続けることに飽きてしまったという野暮な理由からなのです。
人間誰しも飽きることはあります。しかし、基本的な生活に飽きてしまってはどうしようもございません。繰り返しに耐えられなくなった私は、所持金の許す限り、様々な場所へ行きました。それでも、どこへ行こうとその繰り返しは私を拘束しているのです。
終いに、私は繰り返すことが面倒に感じるようになりました。これを読んでいる貴方に同意は求めません。ただ、叶うならば、私の体は焼くことなくその場に放置してください。所詮は、人間の作り上げた繰り返しから、道を外れた下賤な者です。もう、誰かの繰り返しに関与したくないのです。どうか、それだけでも叶えていただければ幸いです。
日付は一昨日だった。昨晩、この雪山で最期の晩酌をした彼は、寒さに抱かれて旅立ったのだろう。色を失った彼の皮膚が諾なったように思えた。
俺の生活も、所詮は彼と同じだ。いや、俺だけではない。人間のほとんど全ての生活が、彼と同じように、同じことを繰り返しているだけだ。だとすれば、なぜ彼は死なねばならなかったのだろうか。誰とも変わらない、同じ生き方をしていたというのに。
雪道を、刑事課の連中が難儀しながら歩いてくる。その中の一人に彼の遺書を手渡し、引き継ぎを済ませた曽我巡査は、交番への道を急いだ。先刻噛み砕いた邪念は、腹の中で再び淡く色付いた。
雪国 蔦野 蘿 @tsutanotsuta
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