彼の国に雪は降りて
きゅうご
序
時は大正元年。
と言っても舞台は英国である。
ある、寂しげな村での話だ。
ジョージは2月の雪の降る日に村のパブに出かけた。雪が降っているからこそギネスでも飲みたいと思った。
パブの軽いドアを開けると、小柄な男の背中にぶつかりかける。
一瞬女かと思ったその背中は、途方に暮れて大きな箱を抱え持ち立ちすくんだ原田和志のものだった。原田はジョージに気付くと何か日本語で言ったが、英国の片田舎で漁師をする(引退しかけている)年寄りにはそんなものは通じなかった。
原田を避けてジョージは店内に入る。
小さな椅子に座り店主にありゃなんだと聞けば、わからねえと答えが返った。
「訛がひでえ英語でなんか喚くんだが
何言ってんのかわかんなくてみんな困ってんだよ」
と店主がギネスを注ぎながら呆れて言う。
ふうん。
ジョージが振り返ると、原田は必死の形相で、大きな声で、着なれぬのであろうフィシャーマンズニットを着た背筋を伸ばして何かを叫ぶ。なるほど何言ってんだかわからねえな。
と思った。
だが長い呪文みたいな英語の中に、ハラダと日本語が聞こえた。
ジョージははっとし、口をつけかけたギネスのグラスからいくばくかを零しもう一度振り向いて原田を見た。原田もジョージを見た。
「おい、ハリダっつったか?
ハリダ…ハルダ…ハラダ?」
目を丸くした原田がイエス!と叫んだ。
「あなとぁ、あねすとふれん?」
あんだって?と店主が眉をしかめるがジョージはアーネストだよ!と叫び返す。
他の客も合点がいったようでアーネストか、ああなるほどと口々に原田に何か言おうとするがジョージが大きく腕を振って制した。
「アーネストの息子かあんた」
漁村には役場があってそこにもしかしたらこいつの言葉が分かるやつがいるんじゃねえかと、ジョージとパブに居た老人数人がどやどやと閑古鳥の住まう役場に集まった。暇をしていたヌードルズというひょろひょろした若い、ロンドンから最近赴任してきた眼鏡を捕まえる。
「おいなんだっけじゃぱぬ?じゃぷ…じゃぽん?ぱんか?なんかそんな名前の」
「ああ日本帝国ですね島国の」
眼鏡は青白い顔のままマグカップのミルクティで暖をとりつつ壁に貼った世界地図を指差した。
東の方に細長い島がある。それを原田は指差した。
「ああまちげえねえな
アーネストのなんかだな」
「つうかお前さんその箱なんだ?」
誰かがその木でできたらしい箱を指で叩くと原田は急に立ち上がり眉を釣り上げ何かを叫ぶ。
誰かは悪かったよ!わかんねえって!と叫び返した。
「ええと」
言いにくそうにヌードルズは片手を挙げる。
「ぼく、少し日本語がわかるんですけど」
「早く言えよ」
「なんつってる?」
「アーネストはどうしてるって?」
ヌードルズは言いにくそうに原田を指差した。
「こいつが?なんだ?」
「アーネストの息子じゃねえのか」
「僕は原田和志といーまさ!!」
はじめて大声の英語が聞き取れてパブにいた老人連中はおおーっと歓声をあげた。
「カズシっつーのか」
「なあアーネストは?あいつはにほんで…成功したか?」
「あいつぁ村一番のいい漢だったんだぜ」
カズシはきょろきょろと周りに言われる英語を理解しようと努めたがどうもあまり通じていないようで、ヌードルズが日本語でかんたんに説明(と言って彼の日本語も怪しいものだったのだが)するとカズシは妙な顔をしてぐっと唇を引き結んだ。
ヌードルズは、言いにくそうに周りの老人たちに言う。
「アーネストなる人物は亡くなって、この箱の中にいるそうです」
これにはちょっと理解が必要だった。
「いや死んだのか…そりゃあ」
ジョージは掠れた声で呟いた。
「そうだよなあ
あいつがいなくなって何年だ?だが……」
「箱の中たぁどういう意味だ?」
「えーとまず彼はアーネストさんの長男だそうです
そして長男の務めで来たとか
父……アーネストさんですね、アーネストさんが故郷に帰りたいのではないかと……
つまりその日本は火葬をする国で」
ヌードルズが言ったとたんにその場に、カズシの周りに少し空間ができた。
「ちょっ!おま」
「え、まさかおめえ」
「骨持ってるんかい?」
「おいおい骨持ってこんなとこまで来たのかよ」
「いやこれ骨かよあいつの!?」
喚き立てる連中を無視してジョージはカズシの肩をたたいた。
「とにかく辛かったろ」
ヌードルズが訳すと、カズシは目をうるませうつむいた。
この村は漁村で、人の出入りは割とある。
船に乗ってどっかに根を張って帰ってこなくなるやつ、船に乗ってきてここに根を張るやつ、春夏の間だけのやつ、冬の間だけのやつ。
訳有のも多い。ジョージは昔ロンドンでやらかしたとか、トムは昔はウエストミンスターでボウズをやってたらしい。ミンスターは嘘だろうが、ボウズだったのは本当らしい。
ジョージはトムの(ジョージの家よりマシな)家の中にカズシを招き入れた。
薄暗い居間でトムが温かい紅茶を用意する間に、無理やり連れてきたヌードルズに間に入ってもらい少しのことがわかった。
カズシにはみっつ違いの妹がいること。
アーネストは肺の病で亡くなった。
奥方……カズシの母はまだ健在ということ。
そしてカズシがほんの17歳ということ。
「あいつぁな」
紅茶に温めた牛乳を入れながらトムは懐かしげに思い出をこぼした。
「いいやつだった」
「一応ここの領主様なんだけどな」
ジョージが付け加える。トムは笑った。
ヌードルズが、確か剥奪されたのでは?と英語で言ってから日本語になおす。
カズシは驚いたようだった。
「知らねえのか?
あいつぁ、
ほら飲め、とトムはミルクティーをカズシの前に置いた。
と、カズシは慌てて胸に抱えっぱなしの例の箱を開け(ジョージは思わずのけぞったが中にはまだ白い豪華な布で包まれたなにかがあった)
「これ…」
とカズシが何か革の表紙の分厚い紙の束をジョージに差し出す。
「もし父と親しかったのであれば読んでほしいそうです」
ヌードルズが付け足す。
表紙をめくる。まず、日本滞在記と書いてあった。
「親しい……それなら俺より」
といったところでトムの家のドアが力強くノックされた。
トムがドアを開けると赤髪の背の高い男が転がるように入って来た。
「この辺りの領主です」
ヌードルズがそっとカズシに耳打ちする。
「変わった方なので驚かないで」
「アーネストの息子だって!?!?」
細い体のどこから出たのか、大音量の英語にカズシは怯んだ。怯んだそのカズシの肩を掴み揺さぶり、その赤い髪の中年の男は勢いよく英語をまくし立て(正直勢いに押されてジョージにも何を言ってるのか判別しかねた。)だんだんとその男は泣き出した。
「死んだのか!アーネスト!」
一通り泣くと男は姿勢を正しなにかポケットから出してカズシに渡した。
「名刺だ。わたしはエドワルド、エディおじさんで構わん、ええと」
「漁師のジョージです、旦那」
「あっしはトム、そこのヌードルズは日本語ができるそうで」
日本語!
エディは失念していたといったふうに大きな柔らかい手のひらでぽん、とカズシの両頬を挟んだ。
「君は日本語を話すのか、失礼、あー……うん、ああ」
すこしはなせる。
エディはいく年かぶりに日本語でそう言った。
「だが込み入った話となると難しいな。ヌードルズくん、悪いが拙宅まで同道願えるか」
「え、あ、え、役場の仕事が」
「村長の許可は取った。悪いが通訳してくれ。」
と、たんっとカズシの肩を叩く。
「知りたいんだ。
あいつが、いったいどんな人生だったか。
あいつが残したのはなんなのか」
エディの目は、まだ潤んでいたが澄んだ水のように冷静さを取り戻していた。
これが、幼いカズシの焦がれた、そして父は二度と帰ろうとしなかった国での、物語の始まりである。
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