第50話 イサドラ契約
特別病室はホテルのような作りになっている。窓のカーテンが二重で重厚な遮光性の高いものと白くて遮光性の低い薄地の絹が用いられていた。
病人の顔色は灰色に近い。青い硝子玉の填まったような皺の深い皮膚が弛んだ。
「おお、イサドラ・ダンカンじゃないか」
ミイラのような乾いた手が浮く。
「まあ、私を其の名前で呼んでくださる方がまだいらしたのね。お目にかかれて嬉しいわ」
イサドラはその手を包み込んで胸に抱いた。
「私もだ、イサドラ。私に出来ることなら願いを叶えてやるぞ」
「私がパリに行く為に、アントローサ警部の娘が必要なの。どうすれば同行者になってくれるかしら」
「拉致か。私の別荘が空いている。手下を使え。私はもう長くはないから、お前の望みを早く果たせ。腐った者たちをこの世に残して自分だけが去るのは心残りだ。息子のローランは青臭い理想主義者だから、心配なのだ。イサドラ、お前が指名手配犯でなければ……」
「恩に着ますわ、タワンセブ卿」
「その代わり、私の願いもついでに叶えてくれるか。なに、ついでで良いのだイサドラ。お前の魔女的な魅力でセラ・カポネを潰してほしい」
「セラ・カポネ……存じませんが」
「パパキノシタの跡目を継いだヤンキーだ。あいつだけは野放しにしておけん」
若い頃は精悍な顔だったに違いないタワンセブの老いさらばえた顔に、血の気が戻った。皮膚に張りが戻りつつあるように見える。
「ふふふ、任せて、タワンセブ卿。契約だと思ってくださって結構よ。あなたと私の溜飲を下げる為の契約。あなたの別荘と手下をお借りしますわ」
ラナンタータはカナンデラの事務所でため息を吐いた。タワンセブの縄張りにあるデカダンス・ジョークが遠く思える。窓から見えるガラシュリッヒ・シュロスにデカダンス・ジョークが移転してくれたら良いのにと、朝からため息を吐いてばかりいる。
ローランは金髪に紺のタートルネックのセーター。近くで見ると甘いマスク。
シャンタンは此の地域のゴッドファーザーだから、タワンセブ組の息子としては公衆の面前で敬意を払うのはわかる。
でも挨拶して直ぐに『お楽しみの処をお邪魔しました』って、畏まり過ぎ。
シャンタンもぎこちなかった。ローランに『あなたの勘違いですよ』なんて変な答え方。邪魔にはなっていないという意味だったのか……
ラナンタータの記憶違いでなければ、シャンタンはカナンデラの顔色をかなり気にしていた。それでラナンタータは邪推した。
シャンタンは可愛いから、もしかしたら過去にローランと特別な関係があったのかもしれない……きゃああ……私は余計なことに気づいてしまったかも……
カナンデラには絶対教えてあげない。
そうだ、あのカポネと言う押しの強い人も、割り込んで来て長々と喋り出して、私にも話題を振るから席を立てなかったけど、あの人も気づいたかも。シャンタンとローランのことに……
やだやだ。私はただ此の国や世界の将来についてローランと話してみたかったのに……
ため息が出た。
ラルポアはラナンタータのため息を勘違いした。そして独りでさ迷いの森に踏み込んだ。
『ローランと友達になりたい』と言われただけなのに僕は『駄目だよ、相手はマフィアだ。アントローサ警部の立場を考えて』と頭ごなしに止めようとした。早計だったか……思わず過剰反応してしまった。
ラナンタータも自由に恋するお年頃だと覚悟はしていたが、『好きになった。恋かも』と言われると正直かなりショックだ。ラナンタータは学園のお嬢様たちとは違うと思っていたのに。あの『道ならぬ恋』に憧れるお嬢様たちとは……
ああ、お姫様みたいに可愛い妹が手の届かない処へ行こうとしている。しかもよりによって相手がマフィアの息子とは……
ラルポアも思わずため息を吐いた。
ラルポアったら考え過ぎ。『恋だよね』とからかってみたら本気にしている。私はただ話してみたいなと思っただけだ。だって、夕べの議題についての提案は発展性のある面白い内容だったから当然だ。
電話が鳴った。
「遅刻大魔王カナンデラだよ。私が出る。ダブルワーク遅刻禁止って言ってやる」
カナンデラは、夕べもシャンタンの事務所にダブルワークの如くお泊まりして、まだ出勤していない。
「はい、カナンデラ・ザカリー探偵事務所です」
「あら、お嬢様が電話番。私よ、ラナンタータお嬢様、イサドラ・ナリスよ」
ラナンタータは目を瞠く。
「ラナンタータお嬢様、私を捕まえたいのでしょ。私と契約しましょう。あなたが私の望みを叶えてくれたら、私もあなたの言うことを聞くわ。どうかしら」
ラルポアがラナンタータに近づいた。
「イサドラ・ナリス。私が、あなたと契約……」
ラルポアも目を瞠いてラナンタータと見つめ合う。
「ええ。あなたは賢いから契約したいの。明日、素敵な返事を期待してるわ」
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