第2話 闇を駆逐する

(1)華燭の館




夜間の病院に犇めく呻き声は、まさしく黒い病院の名に相応しく背筋を逆撫でする。此の中の何人が生還出来るのか、不安は広がる暗雲の様だ。


「ラナンタータ、聞いたか。何てことだ…」


「出よう。早く」


何処に行くのか聞かずともわかる。カナンデラとラナンタータはラルポアの車で再び町へ向かう。あの繁華街の、花屋の三階で行われた殺し。其の現場に行くのだ。7才の子供が人を殺めたと言う犯行現場へ。


かのシャーロック・ホームズも現場検証には虫眼鏡を携帯して細かく調べたではないか……


ラナンタータは一度擦れ違った名探偵の横顔を思い出す。まだ自分が女なのか男なのかわからなかった幼いラナンタータに、行くべき道を指し示すような気難しげな青白い横顔だった。


「あの現場は守られている。階段が壊れたのだ。誰も入り込みはしない。表に見張りの警官もいる」


「他に住民がいるだろう。どうやって出入りしているんだ」


青暗い夜空に星が少ないのは薄曇りのせいだ。車窓から黒々と広がる田園はいくら走っても風景が変わらず苛つかせる。


「花屋の三階は花屋の屋根裏部屋と外階段のあるあの部屋だけだ。屋根裏部屋とは往き来できないようになっている。間借りさせるために作ったものだからな」


「調べよう。其れを調べるんだ」


逸る心を押し留め立ち塞がるような時間の中を車は走り続けた。


「もっと急げ」


「此れ以上はスピードをあげられないよ。危険だ」


「証拠を消される前に我々は到着しなければならないのた。急げ」


様々な思いが走馬灯のように巡る脳裏に、救いを求める幼子の姿が浮かぶ。


「あぁ……サディ……やめろ」


車が町に近づいた。灯りの灯る道に入る。繁華街に差しかかった。


「俺は此処で降りる。ラルポア、お前はラナンタータのボディ・ガードだ。一緒に花屋の三階に登れ」


「ぇ……どうやって……階段壊れてるのに……」


後部差席からドアの開いてラナンタータが答える。


「時間がない。早く行こう」


「わ、わかった」


バックミラーに映るカナンデラの姿は、繁華街の一際眩しい華燭の館へと踏み込んで消えた。


「怪しい薬の関係か……」


「そうだ。ラルポア、お前、やってないだろうな」


「何を言うんだラナンタータ。お前、まさか俺を疑うのか」


「今は誰も信じられない」


「俺はお前を信じるけどな……到着だ……」





(2)娼館のマダム



車から降りた時、花屋の前には警官が一人、建物の横の階段辺りにもう一人いて、ラナンタータに敬礼をした。既に幾多の難事件を解決してきた警部の娘は此の町では知らない者はいない。軽く会釈して一度現場を見上げ、隣のビルに入る。


ラナンタータは何かに追われているように階段を駆け上がった。ラルポアも続く。三階の一つのドアの前で息を調えながらノックした。


「はぁい、どなたぁ……」


出てきたのは見るからに夜仕事の蝶々だ。


「失礼します。私はラナンタータ・ベラ・アントローサと申します」


挨拶しながらラナンタータは肩で女を圧して室内に強引に入った。ズカズカと部屋を横切ってベランダに直行する。ベランダの手摺に脚を掛けた。


「危ない、ラナンタータっ……」


ラルポアが駆け寄る前にラナンタータは飛んでいた。フードが風圧で外れ、白い髪の毛が月影に美しく靡く。花屋のベランダの手摺を蹴って壁に激突したが、無事に着地した。


「早く来い」


言い捨てて花屋の部屋に入る。何か光るものが見えた。ラルポアは青くなって窓から飛んだ。


「ラナンタータっ……女の自覚が無さすぎる……危ないっ」


ナイフが光る。ラナンタータのマントが翻った。マントの重さと風圧をかましてナイフの相手に蹴りを入れた。


「こいつめ」


ラルポアが背後に回って狼藉者の腕を捕らえた。予想を裏切るか細い手首。


「ああっ……」


高音の艶めいた声。



「んっ……女か……」


ラナンタータが壁近くのスタンドの灯りを灯す。ほやあと暖かな色味が室内に広がり、ラナンタータのアルビノの特徴を露にし、ラルポアは乱れた金髪の上質のツィード・スーツが灯りに曝され、そして赤黒い刺繍タフタの品の良い女が浮かび上がった。


「あなたは……」


女は顔を背けたが、ラナンタータは無遠慮に近づく。


「私はラナンタータ・ベラ・アントローサです」


マントの裾を軽く摘まんで略式に会釈した。


「アントローサと言えばアントローサ警部の……」


「ええ、娘です。マダム」


「私をご存知……」


ラナンタータはラルポアに顎をしゃくってみせた。ラルポアが女の手を離す。


「はい。マヌエラ夫人。あなたはこの町のポロ名手のお一人。女性ポロのゲームは毎年拝見しています。お目にかかれて光栄です」


サランドラ・ド・マヌエラ夫人。マヌエラ家に嫁ぐ前は此の花屋の従業員であったが、若くして寡婦となり此の町に舞い戻って娼館のマダムに収まった、曰く付きの美女。そしてポロの名手でもある。


「あぁ……アントローサ警部が寄越したのね。私が馬鹿な真似をしない様に……」


「夫人、何故此の様なことを……お聞かせ願えませんか。先ずは、どうやって此の部屋に入ることが出来たのでしょう」


ラナンタータは珍しく優しげな声色で、花屋の屋根裏部屋があると言う壁に向かって歩く。


「いけません、其処は……」


マヌエラ夫人の悲鳴に近い懇願が終わる前に、本棚がドアのように開いた。


灯りを背に現れたのは背の高い男の影。アロムナワ子爵。


「こんばんは、ミス・アントローサ。そして初めまして。私はジェイコム・アロムナワ……」


「存じ上げております。アロムナワ子爵。私の兄もポロの……」


「ははは……いつも手痛い目に合わされております」


アロムナワ子爵はポロで焼けたトースト色の肌に白い歯を見せて笑った。


「さて、今夜は記念すべき長い夜になりそうですな……先ずは灯りを消してもらいましょうか、ミス・アントローサ……」




(3)アロムナワ子爵の恋物語



息を潜めて暗い室内に潜む。隣の建物から漏れる灯りを凌駕する月が出た。ベランダの一部に隣のビルの影が寝る形になるが、僅かな照り返しが部屋の内部の間取りを明確にする。


誰も身動ぎ一つしない。若い男性がベランダから飛び込んで来た。衣服を直し、部屋の中央に進むと、男は洗面所に向きを変えて歩き出した。壁際のキャンドルスタンドに向かってマッチを摩る。途端アロムナワ子爵とラルポアが取り押さえにかかった。


「あ……お前はゲオルグ……何故」


「アロムナワ子爵。離してください。私は決して犯人ではありませんよ」


細面の甘いマスクに憂いを加味した若い男が唇を噛む。タートルネックの黒いセーターに黒いボトムは侵入者の計画性を表している。


ラナンタータが暗がりから魔物のようにゆらりと剥がれた。フードで髪の毛を隠すと、人間離れした白い顔が宙に浮いているように見えなくもない。


「では何故、ベランダを飛び越えてまで……洗面所に何かあるのか……」


ラルポアがバネのように反応して小走りに洗面所に向かう。


「くっ……」


「お前は何故此処に来た……」


「覚えていませんか……私は今はマヌエラ夫人の店のボーイですが、昔、あなたと約束しました。あなたを守ると……今夜は満月会Rの夜だから、あなたが狙われると……」


「どういうことなんです、アロムナワ子爵……満月会Rとは何です……」


ラナンタータは精一杯の敬意を払って訊く。


「満月会Rか……私は若い頃、悪い病にかかって……病としか言い様のない悪夢のような……忌まわしい……後悔しているが……」


言葉が途切れた隙にマヌエラ夫人が継ぐ。


「私も加担致しました。私は、貧しい子供の中から綺麗な者を選んで…生活の足しにとお金を渡して、満月会Rに……」


「其の組織は何者が運営しているのです。何名ほど……」


「ほとんどが此の町の名士です。既に鬼籍にお入りになった方々も……残っているのは……」


ゲオルグが叫んだ。


「言うな。其れ以上言うな……満月会Rは……」


アロムナワ子爵はゲオルグを睨んだ。


「何故私が命を狙われるとわかった……」


「盗み聞きしたからです。アロムナワ子爵……私は……子供の頃あなたと関係したことがあります。お忘れでしょう……子爵……私の名前はサルバドール……あなたはサディと呼んでいました……私たちは恋人のように……あなたの満月会Rでのコードネームをまだ覚えています……」


「サディ……わかった。自ら名乗ろう。私のコードネームは……」




(8)舞姫イサドラ

カナンデラは壁にかかった幾つもの電気ランプに照らされた長い廊下を通り、店の奥に通された。


「此れは此れは探偵さん。今夜はまた何のご用で」


大きなマホガニーのデスクに不似合いの、若い男が笑った。金髪碧眼の整った顔に薄いソバカスが儚な気に散る。何処となく倦怠感を纏いながら虚勢を張っての笑いだ。


「こんばんは、シャンタン。此の町を取り仕切る君のことだから今日の殺人事件のことは既に知っているだろうね」


シャンタンと呼ばれた若者が人差し指をぴんと伸ばす。側近が動いた。棚を開いてワインのボトルを出す。


「おいおい、二十歳に満たない君がワインかい。お父上の跡を継いだからってそこまで真似する必要は……」


出されたグラスは一つ。


「毒など入っていませんよ。どうぞ」


シャンタンは綺麗に撫で付けた金髪を片手で触り、碧眼の片方を細める。


勧められたグラスを鼻に持って行く。


「いい香りだ。利口だなぁ、シャンタン」


 一気に呷る。


「カナンデラさん、お察しの通りです。殺人事件のあったあの花屋と関係があったのは確かです。しかし、父の代で終わっていますよ。私は真っ当な起業家です。此の通り商売繁盛していますからね。今やうちの売れっ子たちは大スターだ。おフランスのムーランルージュに匹敵するスターを抱えて笑いが止まりませんよ。何故今更麻薬などに関わらなければならないのか……」


「大人を舐めるなよ、18歳のゴッド・ファザー。過去に麻薬関係があったことは認めるんだな」


シャンタンの顔色が変わる。


「だが、今は其の用ではない。お宅のダンサーに用がある。イサドラ・ダンカンを名乗る若いダンサーがいるだろう」


「彼女に何の用だ……わかった。おい、イサドラを呼べ」


シャンタンは訝しげな眼でカナンデラを睨む。若衆がドアから姿を消した後、カナンデラはシャンタンのデスクに素早く片方の尻を乗せた。そのまま斜めになり、シャンタンに覆い被さって顎を上げ素早く唇を合わせた。


「おっ……なっ……おっ……お前、何をする……」


手の甲で口を拭う。


「ははは……イキっていても可愛いもんだ。もう一回どうだ。今度は……」


「やめろぉぉぉ……」


シャンタンはひじ掛け椅子に張り付いて固まった。


「楽しいなぁ。もしかしてお前、ワインにアヘンなど混ぜてはいないだろうなぁ。何でこんなに楽しいのかなぁ。お前が望むなら俺の子供を孕ませてやるんだけどなぁ……」


「い、命が惜しくないのか」


「ん、其れは警告かぁ。もう一回いくか……」


カナンデラはシャンタンの顎を上に向ける。シャンタンは恥じと怒りで真っ赤になった顔を背けて吐き捨てた。


「俺に触るとぶっぱなすぞ」


「おおぉ、イキってるじゃないか。ははは……」


ドアがノック無しに開いた。


「男同士で何の密談かしら」


極上の薄手タフタに透けたシフォンを纏わせた、ギリシャ風の露出の高いドレスの若い女が、立っている。高い位置からのスリットから片方のナマ足を前に出し腰に手を当てた姿は、撮影時のポーズのまんま。


「ぉ、噂に違わぬ上玉。あなたが今をときめく舞姫イサドラ・ダンカンですね。とてもお若い……」









(4)サディ……




「おいおい、美味しい部分は残しておいてくれよ」


カナンデラが毛皮のコートを羽織った女を従え壁の秘密のドアから現れた。


「まさか花屋の三階が伏魔殿だったとはねえ……此方イサドラ・ダンカンさん……の名前を名乗っている成り済まし、ミス・サディ」


「「「「サディ……」」」」


マヌエラ夫人とアロムナワ子爵とゲオルグ、ラルポアが同時に絶句した。ラナンタータが済まして毛皮のサディに貴婦人の挨拶をする。


「あなたが犯人ですね……成り済ましさん」


白いラナンタータの唇の端が吊り上がる図は、魔力に似ている。


「何の話でしょう。私はサディと云う女に会わせると言われて付いてきただけです」


イサドラは毛皮のコートの首元を合わせ直す。


ラナンタータはにっこり笑った積もりだ。ただの痙攣にしか見えなくとも、ラナンタータとしては確かに微笑んだ。


「さて、紳士淑女の皆さん。此処に二人のサディ……いいえ、正確には三人のサディが揃いました」


「三人……」


「ええ。マヌエラ夫人、あなたが初代のサディですね」


「何故其れを……」


「あなたはある富貴族に見初められる前は此の花屋で働いていた。花屋のスタッフの顔と売春婦の顔。年取った富貴族と死に別れ、あなたは花屋夫婦に呼ばれて此の町に舞い戻ることになったのです。そして娼館を経営した。毎晩、小さなサディが花を持って娼館に来たはずです。其の子供をあなたはどうしましたか」


「私は……確かに私は初代のサディです」


イサドラを名乗る女の肩が揺れた。


「サディ……あなたがサディ。あなたをどんなに憎んだか」


マヌエラ夫人は俯いた。


「私は幼い頃に此の花屋の夫婦に拾われてアヘンを仕込まれました。そして、花を買いに来たある身分の高い方の慰み者になったのです。其の方のお屋敷に引き取られて田舎に参りました。アヘンを絶つことが出来たのは田舎暮らしだったからです」


マヌエラ夫人の声が途絶えた。


「折角、絶つことが出来たアヘンをあなたは再び……花屋夫婦は第二第三のサディを育てていた。あなたの娼館でサディを見た客のうちの幾人かは、此の部屋を訪れたことでしょう」


カナンデラが忌々しそうに言葉を継ぐ。


「勿論、外階段など使わずに花屋の中から屋根裏部屋を通って、此の秘密のドアからだ。此の部屋は其の為に作られた、ロリコン野郎の穢れた欲望を満たす恐ろしい部屋だ」


マヌエラ夫人は自分の両腕で自分の両肩を抱いた。寒そうに震える。ラナンタータは静かな口調で言った。


「あなたはただ、あの子の名前はサディだと、そう言うだけで男たちは目の色を変える。あの7才のサディに、あなたは自分がされた忌まわしいことをさせたのですよね……」


ラナンタータの声は悲しみを含んでいた。


「あああああああぁぁぁぁ……」


マヌエラ夫人は膝間づいた。


「あの子は何代目のサディでしょうか。恐らくあなたのようにアヘン漬けにされているのでしょう。目の前で育ての親が殺されても騒がす、三階の高さをベランダ越しに隣のビルに移動する時も怖がらず……自分が殺したと思い込まされている。あの子は無実です」


ラナンタータの眼から涙が零れた。


「犯人は……」

 




(5)伏魔殿の不条理を見つめる



毛皮のコートが滑り落ちた。


「ガーランド様……」


世紀の大スターイサドラ・ダンカンだと偽って大衆を沸かせた舞姫の手に、光るものが見えた。


「危ないっ」


カナンデラがイサドラの衣装を引っ張る。バランスを崩したイサドラだったが、そのまま怯まずにカナンデラに切りかかった。


「邪魔しないで……」


「こいつはガーランドではない。よく見ろ、お前は催眠術にかかっているのだ。お前は満月会Rに唆されたのだろう……」


イサドラはふふんと笑った。


「邪魔しないでくださいませ。私は満月会Rの総統様にお仕えするサディです。此の方は私の愛しい方、ガーランド様……勿論、コードネームでございますれば、私は本名でお呼びしたことはございませぬ。私は、先代のシャンタン会長に水揚げされて踊り子になりましたが、真実は巫女なのです。訳あってガーランド様のお命を我が物にしなければなりませぬ……ガーランド様……ガーランド様……死んで頂けますね」


「満月会Rと云うやつか……」


カナンデラが訊いた。ラナンタータが重ねる。


「満月会Rが命を狙っていることをどうやって知った……」


カナンデラが(あぁ……満月会Rの命令じゃないってか……)と訝しげな目を寄越す。ラナンタータは声を出さずに(単細胞……)と罵る。


「満月会議Rから脱会したアロムナワ子爵は、政治的な理由で総統様と敵対してお命を狙われておりますれば、私が先に獲物を仕留めなければ横取りされてしまいます。其れで、お手紙でおびき寄せたのでございます。お願いします。お分かりください。離してくださいませ……私は……私の獲物を渡しませぬ……誰にも……」


「横取りされたくないばかりに殺害を……ふざけるな…」


「狂人の恋か……薬物催眠じゃないのかぁ……病院行きだな……」



偽物イサドラ・ダンカンはガーランド殺害を企て、自らの救いの為に花屋の夫婦を殺し、目撃者の7才のサディを犯人に仕立てたと云う顛末。淫靡な目的を持った男がやって来て死体を発見したのは予定外の出来事だった。


『愛していたから私がやりましたと言うのよ。そしたら神様が助けてくれるから…私もあなたも救われるの。誰にも何も言わず、愛していたから私がやりましたとだけ言うのよ……』


奇妙な手紙についてアムロナワ子爵はマヌエラ夫人に相談した。其れをゲオルグに聞かれた。マヌエラ夫人と一緒に殺人事件の現場に招く手紙の主を知ろうとして潜んでいた処に、ラナンタータが飛び込んで来たのだった。






「階段から落とされたあの男はサディを買いに行って第一発見者になった。ご家族が機転を効かせてベッドの名札を隣の死人と替えていなければ、もしかしたら真実に到達することはできなかったかもしれない……」


カナンデラの事務所の窓辺に佇んでラナンタータが言った。


「あぁ……もう少しで第二第三の殺人が起きる処だった。しかし、人気者イサドラ・ダンカンの偽物だとはね。あちこちいるんじゃないか、イサドラ・ダンカンの偽物は……まぁ、あの部屋で再び殺人が起きると聞いた時はたまげたがね。あの男、持ち直したとして裁判で証言してくれるかな……」


「満月会Rの存在が明らかにされれば、此の町の穢れも取り払われるだろう。父の出番だ……」


「甘いね、ラナンタータ……いくらアントローサ警部でも無理な話だ。此の腐った国の代議士相手に正義が罷り通る訳がない。あのマヌエラ夫人は自殺した。政治家や軍人が出入りしていた娼館のマダムが自殺……本当に自殺だろうか……あの人も被害者の一人と言えなくもないのだが……憐れだ……」


憐れみか……そういう処に人間味を感じるよ、カナン……とラナンタータは窓硝子に息を吐く。アルビノの硝子越しに見上げる空は灰色の雲が垂れ籠めていた。


「其れに比べればアロムナワ子爵は次期宰相候補だと……けっ……あんな奴を推す輩の気が知れないが、やつは裁かれていない。ゲオルグは貝になって口を噤ぐんでいるそうだ。ラルポアが洗面所から見つけたお香はアヘンだと云うのに……死んだ花屋の夫婦だけが悪者だ。科学が進んでも人間は進化しない。此の町だけではない、国自体がいろんな意味で、腐っている。伏魔殿にどっぷり浸かっているのさ……」


カナンデラのセリフがラナンタータの背中を通り過ぎる。真っ白なアルビノに生まれたせいで、子供の頃から見知らぬ他人の好奇心に自尊心を傷つけられ、此の世の不条理には慣れているつもりだ。たまに苛ついても前を向くしかない。悲しみを隠した眼に、華やぐ歓楽街の灯りが虚しく映り込む。


「いつまでも変わらない訳はない……いつかは変わるのだ……人も町も変わる……国も変わる……必ず変わる……其の為に私は動く。私の父も同じだ……」


ラナンタータの眼差しの先に、闇を駆逐する灯りが灯った。時は1920年代半ば、第一次世界大戦中は近隣の参加国から多少の軍事的影響があったが、其れも終結して、19才のラナンタータは未来を見つめる。


後に、満月会Rの会長と目される者のベラドンナ抽出物による死亡が報じられた。自殺と他殺の両面で捜査中である。



「総統様をこの手で……うふふ……ガーランド様は渡しません……ええ、決して」



             此の回 終わり


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