宮仕えの女 - 4
花の香りに紛れて、むせかえるような血臭が漂ってきた。いや違う。彼女を追う事に精一杯で気づいていなかったが、血臭はずっとここからビル風に乗って漂ってきていたのだ。
彼女は、横たわる男性の傍に跪いていた。あの女がやったのか?いや、違う。彼は元から瀕死だったのだ。あの女は血臭を嗅ぎつけて駆け付けただけに過ぎない。しかし、何のために?
「──大丈夫ですか?」
鈴を転がすような声で、彼女は訊ねた。男性には最早応える余力すらないのか、喉をひゅうひゅう鳴らすばかりだ。当たり前だがまだどこも捌かれていない。眼球も、内臓も、衣服も。
ツキが回ってきたと思った。ここであの女を殺せば、二人分の死体と身ぐるみを得られる。それらをクリメリア公国の隊商に流せばかなりの収入になるだろう。夢がぐっと近くなる。希望で目の前が明るくなるかのようだ。
「あぁ……可哀想に。
けれど大丈夫でございますよ」
彼女がそう言った直後、私はナイフを逆手に構えて動き出そうとした。
けれどそれよりも早く、彼女は取り出した包丁で深く男の胸を抉りぬいた。
私は全身に電気が奔ったかのような衝撃を受け、その場から動けなくなった。思いもよらない暴力が男に引導を渡さんと繰り出された現場を目の当たりにしてしまったからだ。
彼女は大きく瞠目した男の頭を膝に乗せ、慈しむように撫でている。まるで親が子供を寝かしつけるかのように。
「これであなたも、我が国に"尽くす"ことができるのでございますからね」
真っ当にものを考えられるようになったのは、彼女が再び口を開いた時だった。男は既に絶命していた。彼女の手によって殺されたのだ。彼女は彼の服を脱がせると、慣れた手つきで生皮を剥がしはじめた。
その光景を見て、私は再び混乱した。アスピリの声はもう聴こえなかった。どうして彼女がそんな真似を?折角の綺麗な顔を返り血で汚してまで。
けれど、筋膜のひとつひとつを愛でるように、悼むように刃物で丁寧に剥がしていく様子はどういうわけか艶めかしく見えて、私は理解できないままその光景の釘付けになっていた。
「ふふ、今日は新鮮なハンバーグを供する事ができそうですね」
嬉し気に漏れた彼女の独り言を聴いて、私は全てを理解した。彼女が度々この闇市に訪れていた理由。私は極力口にしないよう心掛けていたが、闇市には人肉も取り扱っている。彼女は時に購入し、あるいは今日のように新鮮な肉を"仕入れて"いたのだ。
それも一回や二回ではない。アスピリが言っていたように、彼女は手慣れている。恐らく常習的に、ずっと繰り返してきたのだろう。
(じゃあ、あの綺麗な顔は)
(あの肉付きの良い身体は)
(私たちを、食べて……?)
そこまで考えたところで、無性に身体が熱くなってきた。彼女は違うと思っていたのだ。あまりにも美しいものだから、他のオワテル国民とは違うと。宮仕えだから、私たちの想像もつかないほどの贅を尽くしているのだと。
この薄汚い身体を糧に、それらが作られているのだとしたら、私達とはいったい何なのだろう。
私達はいったい何のために、ここに──
「……あら」
目と目が合った。バスケットに入るだけの枝肉を詰め込んだ彼女が、此方に気づいた。そして彼女は最初に見た時と同じように微笑みかけて、恐れることなく私の方へ歩み出した。
(馬鹿が。のこのこと……解体してやる)
私は笑っていた。笑って、その手に持つナイフを。
その場に
落とした。
「ひ……ひぃ……っ」
息を吐くような情けない声が自分のものだと気づくのに時間がかかった。
私はナイフの代わりに、金歯を差し出していた。まるで命乞いをするように。
(何をやっているんだ私は)
ナイフを拾おうとするが、身体が上手く動かない。顔はひきつったまま強張り、次第に涙があふれてきた。
(はやくナイフをひろって、それから)
何のためにここまで来たのか。幸せになるために決まっている。
だったらやる事は決まっている。
(はやく■してもらわなきゃ)
遠くで聴き慣れた演説が聞こえてくる。死は救いとする、カルト教団『輝く刃』の早朝演説だ。彼女はそんな私を見て、慈しむように微笑むと、そのまま素通りして元来た暗がりへ消えて行った。
足音が、気配が消えるまで私は動けなかった。そして完全に彼女が居た痕跡が消えた瞬間、失禁しながらその場にへたりこんだ。胃の中がぐるぐるする。今にも吐きそうだ。どうしてあんな真似をしたのか自分でも分からなかった。自分の心音が酷く煩かった。
『本当は分かってるだろ』
それはアスピリの声ではなかった。自分の声でもなかった。自分の声を象った幻聴だと知った時、私はその場で嘔吐した。
『おまえは幸せになりたいんだから』
『答えはもう見つかってるんだ』
『綺麗になりたいんだろう。羨ましかったんだろう』
『だからおまえのやることは』
「ちがう!」
私は虚空に向かって叫んだ。そうすると幻聴は聞こえなくなったが、同時に言いしれようもない不安がどっと押し寄せてきた。
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