四.五  ラチャプルエック

 一九八八年七月

 こここ数日は夜中に雨が降るサイクルの様で、昼間はやや曇りがちの空模様で比較的凌ぎやすい日が続いている。


 バンドタイ工業の林がティプロの武井と部品探しにタイの企業訪問に行くと言うので、左右田恒久も同行させてもらった。

 林は、いったん日本に戻ってから十カ月程して、本格的にタイでの部品調達の可能性調査の為に、またバンコクに舞い戻って来てあちらこちら調査していた。本社では、林の案でタイに生産拠点を設ける事がほぼ決まったようだ。

 恒久は、タイの部品産業の技術水準がどのくらいか実際に見て回りたいと思っていた所、ちょうど林が誘ってくれたのだ。目的の企業は、トンブリ―地区のラチャプルエック通りの近くのクロン沿いにあるとの事であった。

 通訳は、ティプロ持ちで、チュラサート大学の准教授のサノー氏にやってもらう事になった。

 サノーは、東都大学で経済学を学んでおり、日本語とタイ語の通訳をティプロで依頼する事が多いようである。プロの通訳ではなく、専門は経済だが守備範囲は広く技術的な用語の知識も抜群であり、タイではこの分野で最も信頼のおける通訳の一人である。

 車は、タイ住井の社用のプール車を一日使わせてもらう許可を総務の小山田リーダーから貰ってある。タイ住井では私用でも社用でも駐在員が車を自ら運転する事が禁止されているので、車と言えば運転手付きである。恒久と武井は林の泊まっているインペリアル・ホテルで林とサノーをピックアップして、チャオプラヤ川を渡ったトンブリ地区に向かった。

 武井さん、今は出張ベースですが、何処か事務所を借りて秘書を雇うことが出来ないでしょうか。インペリアル・ホテルのビジネス・ラウンジに秘書を置いておくと言う訳にもいかないので。駐在員事務所か現法設立まで待てないですし」

「出来ますよ。林さん個人で契約すれば事務所も借りることが出来ますし、人も雇えます。明日でも日系企業が多く入居しているタニヤ・ビルに聞いてみます。広さはどの位要りますか?」

「タニヤって、あのカラオケ・クラブがいっぱいあるタニヤですか?」

「そうなんです。入居しているのは殆どが日系企業だし、シーロム通りの角に東銀もあるし、日本メシ屋も結構あって便利だと思います」

「そうですか、タニヤのホステスに入れあげたりしないように気を付けなくてはいけませんね。なに、事務所は机と電話と秘書が居ればいいだけですからそれこそ十平米ちょっとあれば良いと思います」

 林は、嬉しそうに言った。

 車は丁度チャオプラヤ川に架かるタクシン橋を渡る所であった。右手の川沿いに昨年開業したシャングリラ・ホテルが、またその向こうには老舗のオリエンタル・ホテルが威容を誇っている。

 タクシン橋を渡ると、急に緑が多くなり、昔ながらの家々が並び、クロン(運河)があちこちに張り巡らされている。

「タニヤと言えば」

 サノーが、話に加わってきた。

「いかにも日本の植民地みたいに、タイ人の女性にホステスをさせて日本人は威張りくさって酒を飲んでいて怪しからんと言うような記事がタイ字紙に今も時々出ているのです。で、どんな感じかと思って何回かティプロの高橋次長さんにタニヤのカラオケ・クラブに連れて行ってもらったんです。タイ人だけでは入れてくれないですから。

 タイ人向けのカラオケ・クラブも結構街中にあちこちにありますが、それとあまり変わらないですね。ただ、タニヤのホステスは日本人好みの少し大人し目に見える子が多い気がしましたし、内装も落ち着いた所が多いようですね。タイ人向けはギンギンギラギラって言うんですか?日本人向けと比べると派手な所が多い気がします。

 日本人のお客さんは、駐在員が多いせいか威張っているような人は見たことが無いし、タイ人よりも行儀が良くて静かに飲んでいる人達が多い感じでした。銀座のクラブに行ったことが有りませんが、そんな感じなのでしょうか?」

「私も、銀座のクラブには行ったことが無いので分かりません。そう言えば、うちのタリンさんとタニヤにこの間行ったんですけど、サノーさんと同じようなことを言ってました。

 それにしても、見ているとタイの新聞、特にタイ字紙は対日批判が好きですね。それもまるでどこかの国の週刊誌みたいに情報源を確認しているのかどうか疑わしいのも中にはありますよね。そもそも、日本の経済協力はタイの為にやっていると言うよりも、自分の国の為にやっているのではないかとか、日本の企業は技術移転をしないとか、タイの物は買わないで、日本製品はどんどん輸出して来るので対日貿易赤字が累積しているとか、あらゆる難癖をつけていますよね。だから、何も知らない一般のタイ人は日本人が土地を買い占めていて、その内タイ全土が日本人に買い占められてしまうとかって新聞にそそのかされて、本気でそう思っている人がいるみたいですよ」

 恒久は、日頃のタイ字紙の対日批判の理不尽さに対する怒りが込み上げてきてしまい、珍しくタイの批判をした。言いながら、先輩の安山の気持ちがよく分かる気がしていた。

「左右田さん、新聞が日本を褒めたって誰も新聞を買ってくれませんよ。対日批判記事は読者の溜飲を下げ、新聞の売り上げが伸びるのでなかなか止められないでしょうね。有名税と言った所だと思いますよ。でも、日本の大使館はもっと小まめに抗議をするか必要なら反論記事を載せるべきでしょうね。ティプロは経済分野では時々ですが反論記事を載せていますよね」と、サノーが武井の方を見ながら言った。

 車がラチャプルエック通りから横道に入り狭いクロンを渡ると、運転手が小声でサノーに何か呟いた。

 サノーは外を見て「あっ、着いたようです。ここはワッシャー類や皿バネ、鉄製のグロメットなどを作る工場で、会社名はリン・ワッシャー・インダストリー社と言います。社長はウタイ・リンウィラワンです」と説明した。

 小さな家内工業の様な工場は、バナナやパパイヤの木が生い茂る住宅街の中にあった。道路から工場に入るには細いクロン(運河)に架かっている橋を渡る必要がある。下を船が通れるように橋の中央部分が高くなっており、階段で上がり降りする様に設えてある。少し先に、入出荷作業の為の屋根だけの建屋があり、工場と小型の橋形クレーンがクロンを渡って繋がっている。

 工場の入り口側はオープンになっており、中からプレス機械が連続的に金属類を成形している「プシュー、ガッチャン、ガッチャン」と言う音が聞こえてくる。

 中に入ると右手側に事務室が有り、白のワイシャツに黒っぽい色のズボン姿の中国人風の50才がらみの男が中から出てきた。でっぷりとして、腹が妊婦の様に出ており、落ちてしまいそうなズボンのベルトは飛び出た腹の下の方で締めてあり、脇腹のワイシャツが捲れている所から肉が溢れて見えている。だが、愛嬌のある顔と、かなりオーバーウエイトではあるが恰幅の良い体格はいかにも社長と言った風情である。あらかじめ、サノーを通じて来意を告げてあったので、早速事務室のソファー席で話を始めた。

 事務室はさすがに冷房が効いていたが、古い冷房機らしく地鳴りがするように「ブウーン・ブウーン」と唸っている。

 社長は英語が出来たが、なかなかのタイ語なまりで、英語がかなり出来る林でも時々だがサノーに何を言っているのか聞いた。しかし、そこは技術者同士、専門用語はお手の物でお互いのなまった英語でも結構通じており、サノーの出番はあまり無かった。

 林は、工場のプレス機械や工作機械をチェックし、ノギスで座金などの製品を丁寧に測定して何やら手帳や製品リストに几帳面にメモをしながら、「座金はここまで精密に測定する必要は無いのですが、製品の均質性やバリの出具合が気になりましてね」と吹き出る汗を手で拭いながら言った。

 製品リストが英語でも用意されているので、卸し先を聞いた所、日本とはまだ取引した事は無く、欧米や台湾の家電メーカーに卸している。韓国のメーカーとはかつて取引したことがあったが支払面で問題があって「正直二度と付き合いたくないんだ」と吐き捨てるように言った。

「最近も何度か買いたいと言ってきているが断っているんだよ」

 よほど嫌なことが有ったとみえる。

 工場には七、八人の工員が忙しそうに働いている。全体的に整理整頓が行き届いており、通路はきれいに掃き清められている。

 この工場では、主に冷間圧延鋼板・鋼帯を使って座金類と板ナットなどおよび硬鋼線材でバネ座金などを製造している。日本に持って帰って鋼材の品質チェックをする為に、それぞれいくつかサンプルを貰った。

 そう言えばと言った顔で林が社長の名刺を裏返して見ると、タイ語の名前と思われるその下に林午添と漢字名が書かれている。

 先程ウタイ社長に出した林の名刺は英語だけなので、日本で使っている方の名刺をウタイ社長に見せながら「セイム・ネーム!セイム・ネーム!」と嬉しそうに林治夫と書かれている自分の名前とリンの漢字の部分をさし示した。

「私の名前はハヤシと発音します。あなたのはリンですかリムですか?」

「オー、イエス、イエス!セーム・セーム!私の名前はリンと発音します」

 二人の「林」は奇遇とばかり、改めてガッチリと握手を交わした。

 帰りの車で林(はやし)は、品質に問題なければ、あまり愛想は良くないが、どんぐり眼の愛嬌のある顔をしたこの林(リン)と出来れば取引したいと呟いた。

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