そしてバンコク

高円寺実

 序

 若い女が、夜の9時を大きく回った頃、バンコクの中心街を縦断するウイッタユー通りを北にルンピニ公園の方に向かって歩いている。

 この通りは、街路樹が四列に植えられていて、さながらこんもりとした森の中の道を歩いているように感じられる。

 六車線のうち中央の二車線の両端にある分離帯に樹木が植わっているが、埋め立てられたクロン(運河)の両岸に植えられていた並木をそのまま残したからだ。

 豊かな緑と大使館、一流ホテル、コンドミニアム、お洒落なカフェやレストランなどが立ち並んでいて、高級感のある落ち着いた雰囲気の通りだ。

 ウイッタユーと言うタイ語を直訳するとラジオで、かつてサラデーン局と言うラジオ局が、この通りとラマ四世通りとの交差点辺りにあったことから、そう呼ばれるようになったようだ。英語名ではワイヤレス通りと呼ばれている。

 青々と茂った街路樹の葉っぱの間から、街灯の光が歩道を照らしている辺りで、女の顔がはっきりと見分けられた。

 あざやかな眉毛、背中まで垂れるつややかな「紫」の黒髪、そして切れ長の大きな瞳。

 だがその瞳は焦点が定まらず、涙が溢れている。

 女は茫然自失の様子で、唇は色を失い、眉間には皺が走り、世の中の苦悶を全て自分一人で背負い込んだかのごとくに顔が歪んでいる。

 時おり上を向きながら眉間の皺をさらに深くし、如何にも耐え難い苦痛を堪えるかのように、口を手で押さえたりしながら時々呻いている。

 風がそよいで、少し前に降った驟雨の名残の滴が、木々の葉の間から時折落ちて来て、額や頬に当るのにも女は気が付かない風だ。

 夕刻に、この季節にしては珍しくひと雨あった。

 歩道の右手には、金網のフェンス越しに緑の絨毯を敷いた様な広大な庭が広がっていて、その奥の方にある建物の窓から、ろうそくの炎の様な明かりがチラチラと漏れている。

 女は歩きながらその明かりを暫く見つめていたと思ったら、今度はふらふらと車道の方に向かい四角い形をしたコンクリートの電柱に肩からぶつかるようにして止まった。

 体が揺れている。

 電柱越しに車が走ってくる方向をのぞいた。この時間ともなると、昼間の渋滞とは打って変わって車はまばらになっている。

 ルンピニ公園の方からタクシーが何台か向かって来ている。

 女は何かを短く呟きながら歩道の方に戻り、またふらふらと歩き始めた。

 相変わらず苦痛を耐えている様子だ。暫く歩いて白い塀のアメリカ大使館辺りを通り過ぎて少しすると右手前方にルンピニ公園が現れる。

 公園に沿って走るサラシン通りを右折してすぐにある歩道橋を渡って、反対側の公園側の歩道をラジャダムリ通り方向に歩き始めた。

 ルンピニ公園はバンコクでは最大の公園で、造られた一九二〇年代にはバンコクの街はずれにあたる辺りだったが、今やビジネス街の中心に位置しており、都民に憩いの場を提供している。

 東京で言えばさしずめ新宿御苑といったところであろうか。

 公園側の歩道に、食べ物屋の屋台が何軒か続いている。

 女が、中華鍋と中華お玉を威勢よくぶつけ合って、派手に炒め物をしている屋台に近付くと、油で炒められた唐辛子やニンニクの強烈な刺激のある匂いに襲われて、激しくむせた。

 大きな目を腫らして嗚咽した女の様子は、この炒め物にむせたかのように見えた。 

 日よけの大きな傘を設えた屋台の列が途切れた見晴らしの良いところで女は立ち止まった。

 女の視線の先に公園の池が広がっている。池の畔に桃色のチョンプー・パンティップ(ターベーブーヤー)の花が見事に咲き誇っている。 

 タイ桜ともいわれるように、外灯に浮き上がったチョンプー・パンティップは遠目にはまるで満開の夜桜のように見え、ときおりハラリハラリと花冠が落ちている。

 落ちた花冠が降り積もって、地面はさながらピンクの絨毯を敷き詰めたように見える。

 その樹の太い幹にデンファレ(デンドロビウム・ファレノプシス)が絡み付き一面に紫色の花を咲かせている。

 何かを思い出すようにその様をしばらくじっと見ていた女は、満足したように表情を緩めながら振り返って車道のほうに向かった。

 女が先ほど歩いてきた方角から、ショッキング・ピンク色のタクシーが猛スピードで近づいて来ている。

 まるで周りが見えないかのように、女は前方を見たまま車道に数歩ほど出た。

 右手から来たタクシーが女に気が付いたと見えて、急ブレーキをかけたが間に合わなかった。

 女の体がタクシーにぶつかった瞬間、それまで女の切れ長の大きな目に溜まっていた涙が飛び散った。

 霧のように飛び散った涙が、街路灯に照らされ、辺りが一瞬あざやかな薄紫色に染まった。

 跳ね飛ばされて宙を舞っている女の周りで、それはまさに先程女が見ていたタイ桜ことチョンプー・パンティップの花と紫色の蘭のデンファレの花が、あたかも刹那に咲いたかのようであった。

 四、五メートルほども飛ばされるような大きな衝撃を受けた割には、女の美しい顔にはかすり傷ひとつ無かった。

 首から提げた黄金のケースに入ったプラクルアン(仏像のお守り)が、女の顔のあたりに砕け散っていて、あたかもそのプラクルアンが女の「顔」の身代わりになってくれたかのように見えた。

 信心深そうな見物人の一人が、これは「この美しい女を愛する者たちへの仏様のせめてものご慈悲ではないか」と言った。

 屋台にいた誰かが直ぐに連絡したのであろう、救急車がたちどころに現れて女を連れて行った。

 現場検証をしていた警官が、近くに落ちていた携帯電話の鳴る音に気が付いた。

 チリチリチリン、チリチリチリンと淋しそうに何度か鳴って止まった。警官は女の物と思われるその携帯を、証拠品用のプラスチックの袋に入れた。

 タクシーの運転手は、いかにも自殺するかのように女が突然歩道から現れてきたと証言したが、屋台の客たちは、女がボーっとしながら、反対側にあるライブハウスにでも行こうとして道路を渡ろうとしたのでは、と証言が食い違った。

 二〇一二年二月の事である。

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