馬鹿は死ね

坂口隆彦

馬鹿は死ね

「あの子のこと、出産後中絶をすることにしたの。」

 私の顔色を伺うこともなく言った美佳に、私は痛みを堪えて勇気のいる決断だね、と返した。美佳のありがとうという言葉が痛みを増幅させた。おしゃれなカフェの温かみのある照明のせいか、私の中で痛みが熱を持ち、ぐつぐつと沸き立つ。頭が沸騰しそうになり、美佳が傷つくであろう言葉を投げかけそうになった。

「痛み止めを飲んでもいい?」

 私が錠剤を取り出すと、美佳は憐みの目を私に向けた。

「もちろん。また痛むの?」

「うん。これを昔は皆が抱えてたなんて考えられない。」

 私は錠剤を飲んだ。年寄りはこの薬を感情をなくす薬だと言って嫌う。昔、野蛮な時代に、怒りや悲しみとそれぞれ名前がついていたこの痛みのことを、病気だと知らないのだ。

「落ち着いた?」

「うん。少し。」

「涼子、大変だね、その薬、結構強いんでしょう?私だったら耐えられないかも。」

 私は心底心配そうな美佳の顔にまた痛みを覚え、新しい錠剤を手に取った。今度の痛みは私を冷たく冷やしていった。美佳の顔に水を掛けて走り去ってしまいたくなる。急いでまた錠剤を飲み下す。

 効果が出てくるまであまり喋るべきじゃないと思って、美佳に話を続けてもらうことにした。

「やっぱり、病気が重いの?」

「そうなの。」

 思惑通り、美佳は話し始めた。

「あの子、生まれた時からよく泣く子だって相談したことあったよね。やっぱり少しドーパミンの働きがおかしいみたいなの。いつも、僕は怒ってるんだから話を聞いてとか、今の言葉に傷ついたとか・・・。」

「随分昔の言葉を使うんだね。」

「そう。昔の本で覚えてきちゃったみたいなのね。それは病気だから治療しなくちゃいけないんだよって言い聞かせても、全然駄目。自分が心地いい感情にしか身を任せないなんて人間が浅いなんて言われたの。」

「感情って本来、心地いい物を指すんじゃない?」

「そうでしょ?あの子、やっぱり障害が重すぎる。成人させるべきじゃない。涼子なら、あの子と同じ病気だから分かってくれると思った。」

 薬が効いてきたのか、私は多幸感に包まれながら夢うつつで美佳の話を聞いた。美佳の息子は私と同じ病気だ。生活していくうえで、突発的な痛みに襲われる。身体的な痛みではなく、脳からくる痛みだ。こうした痛みを他の人は抱えることがないと知った時はとても驚いた。この病気は苦しい。十代の頃、私も成人する前に中絶してほしいと思っていたくらいだ。時折どうして生まれてきてしまったんだろうという大きな痛みにも襲われるが、根本的な治療法はなく薬でそれを和らげるしかない。周りの人は突如苦しみだす私を不思議そうに眺め、私が錠剤を飲み下すところを見て、戦うあなたは素敵だ、と声を掛けてくれる。そしてそのサムズアップされた親指が、また私の新たな痛みを引き起こすのだ。

「本人はなんて言ってるの?」

「了承はしてる。成人したらもっと苦しいことは分かってるから、人になる前に中絶してくれて構わないって。ただ、一度でいいから、死ぬ前に同じ病気の人と話がしたいと言って聞かないの。」

 私はふっと薬の効き目が弱まるのを感じた。美佳が何をもって私に中絶の告白をしたか分かってしまったからだ。

「ねえ、まさか私に話したのってそのため?」

「そう。お願いしてもいい?」

 もちろん嫌だ。一人でだってこの痛みを処理するのは大変なのに、目の前で同じ痛みをぶちまけられたら私の痛みまで増幅してしまいそうだ。

 でも。喫茶店に入ってから、目の前に積みあがっていく錠剤の殻を見て思った。同じ病気の人の痛みが、どんなものなのか見てみたい気持ちもある。

 この病気には他の病気と同様程度の差があるが、痛みの現れ方も千差万別らしい。本やテレビでは同じ病気の人の告白を見かけるけれど、本物と話したことはない。

 私は重症なんじゃないかと思うことがたまにある。私以外の人は、皆普通に社会生活を送れていて、こんなに薬に頼らなくてはならない私は本来中絶されるべきだったか、少なくとも入院をして隔離してもらわなければいけないんじゃないだろうか。

 もし美佳の息子が私より重症なら、随分励みになる。私は生きていてもいいんだと思えるかもしれない。

「分かった。いいよ。」

 私が答えると美佳は顔の前でパチンと手を叩き、大げさに感謝した。

「今から呼んでもいい?」

 もうどうにでもなれと頷くと、美佳は机の上にある携帯電話を手に取り、電話を掛け始めた。この喫茶店の近くにある美佳の家だろう。会ってくれるって、と弾んだ声で電話口に話しかける。

「涼子、本当にありがとう!今から息子が来るからね。ここのお会計は私が持つ!」

 美佳はそう言って、二千円を置いて店を出ていった。お会計は二千百円。この微妙さが健常者らしいと思った。

 私がお金を財布に仕舞い、薬の殻をいじくって遊んでいると、ふっと人影が降ってきた。

「・・・涼子さんですか?」

 影を追った先にあった顔が喋った。若い。私が座っている席は確かに出入口からは遠い位置にあるが、一切の気配なく入ってきたのだと思うと驚く。

「そうだけど。」

 私の答えを待たずにその人影は向かいの席に滑り込んだ。色が白い。もっと背筋を伸ばして笑っていれば、きっと高校生の頃の美佳に似ている。

「安藤美佳の息子です。」

 だろうな。彼女は自分の名前も告げずに、私に向かって言った。

「一度でいいので、僕と一緒に徹底的に怒ってくれませんか?」

 私はぽかんとした顔をしていたのだろう。彼は私に尋ねた。

「どの、その、痛みが、怒りか分かりますか?」

「・・・分からない。」

 彼は笑った。美佳のものとは違う、私の胸を冷たく冷やす笑いだ。

「馬鹿は死ね。」

 彼が吐いた言葉を聞くと、熱い痛みが上がってきた。私の病気を差別するときに使われる言葉だからだ。

「言われますよね。僕達は。旧人類だって。怒りや悲しみがあるなんて、前頭葉の弱った年寄だけで、普通の人は皆にこにこして暮らしている。」

 私が錠剤の入ったポーチに手を掛けると、彼はポーチから私の手を払った。

「飲まないでください。これは麻薬です。」

「治療薬だよ。」

「いいから。」

 彼は痛みを感じているようで、少し大きな声を出した。

「僕は今苛立っています。あなたは今、何を考えました?旧人類って言われた時のことなんか、思い出したんじゃないですか?劣っているって差別されたことを。」

 私は私の中で煮えたぎる何かを早く抑えつけたくて仕方がなかった。健常者の高笑いが頭の中を渦巻く。ネットの中で見かけた言葉だから、高笑いなんて聞いたことないのに。涙腺が揺さぶられて目が潤んだ。

 彼がポーチを取り上げてしまったので、私の右手は机の上をさまよった。彼が私の目を覗き込む。真ん中にきゅうと寄せられた眉は、症状がひどい時の私の顔に似ている。

「言われた。馬鹿は死ねって。馬鹿なんだから生きている価値がないって。生まれた価値もないって。」

「あなたは悲しかったんですね。」

「・・・痛い。」

「それは悲しみです。」

 彼は手を挙げ、店員を呼んだ。店員は私を見て訝しがる表情を浮かべたが、彼は無視してコーヒーを頼んだ。

「悲しいですよね。存在を否定されて。価値のある人間なんていないのに。」

「・・・悲しい。悲しいっていうのかな。そうね、悲しいよ。私のことを知りもしない癖に。普通の人ってみんなそう。死ぬべきか、憐れむか。憐れまれるのだって痛いよ。可哀そうに可哀そうにって。発作が出た時に普通の人と話すと、壁に向かって話してる感じがする。」

 私は覚えたての言葉を使って話した。知らない間に声が少し大きくなった。彼が今度は嬉しそうに笑った。美佳みたいな笑顔だった。

「それ、きっと怒りですよ!」

「そうなの?痛い。これが一番嫌いな痛みなの。色んな痛みがあるでしょう?」

「あります。怒りは確かに嫌だ。昔は貧乏人の娯楽だったみたいですけどね。」

「娯楽?これが?こんなに・・・。」

「感情を表す語彙がないんですね。随分健常者みたいだ。」

 彼は運ばれてきたコーヒーをかき混ぜて言った。ミルクを入れているのが成人前の子供らしい。

「だって、普通に生きろって言われてきたじゃない。」

 体中が痛くて訳が分からなくなったが、私の薬は彼の膝だ。

「女性は順応しちゃうから。あなたは成人したんだから、苦しみながら生きていってください。」

「あなた、何をしに来たの?私をいじめて楽しい?」

「いいえ、僕意外に悲しみを知る人間に会いたかっただけ。」

 彼はまた笑った。

「・・・私も、同じ病気の人にあったら聞いてみたかったことがある。」

 彼はどうぞと言うように手のひらを上に向けた。

「他の人は本当にこの痛みがないんだと思う?」

「どういうことですか?」

「信じられないの。私、夫が死んだときにものすごく重い症状が出て、薬を飲んでも切れるたびに泣きつくした。痛くて痛くて、体が私の体から何かが抜け落ちたみたいな気分になった。夫の物が家にあるのが耐えられなくて、しばらくホテルで暮らしたくらい。痛い痛いって泣いてると、普通の人は薬を一錠飲めば平気になるって言われたの。私、思い入れが強いほど痛みが大きくなることは経験則から知っていたんだ。だから、あの痛みは夫への愛だったんだと思う。それを不思議そうに眺められるのが嫌だった。」

 彼は満足そうに頷いている。

「分かります。怒りも悲しみも、時には小さな絶望だって、僕を構成する要素なんです。僕が怒りを感じた時、僕は異常状態なんじゃない。怒っている僕だって僕なんです。悲しんでいるあなたはあなただったし、それはきっと本当に旦那さんを好きだった証拠だと思います。」

「ありがとう。そんなこと、言ってもらえる日が来るなんて思わなかったな。」

「僕も、こんなに心の底から感情の話が出来るなんて思ってませんでしたよ。」

「すごく嬉しいよ。私、あの痛みは、私を構成する私の愛だったと思えた。」

 痛みについて話す私を見る彼の目が、腫れ物に触るように私を撫でる健常者の目よりもずっと優しくて、胸がいっぱいになった。彼は私と同じ種類の痛みを知っているのだ。

「あの痛みは取り除くべき症状なんかじゃなくて、私そのものだったんだ。きっと。」

「旦那さんは普通の人でした?」

「健常者。私の病気を不思議そうにしてることはあったけど、急な発作にも黙って付いててくれる優しい人だったよ。まあ、分かり合えないなと思うと、悲しい?こともあったけど。」

「寂しかったんですね。」

 また新しい言葉が出てきた。彼が真面目な顔で私を覗き込むので、少し笑ってしまった。

「分かってくれたのはあなただけ。」

「理解できることを話す人間はあなただけです。もうこの世に人間は僕らだけですよ。馬鹿の僕らだけ。」

 おどけた様に、そして少し自嘲気味に彼が肩を竦めた。若々しい肩のラインが大きく上下する。生まれることなく流れていった夫との子を思った。生まれていたらきっとこれくらいの年だろう。

「ねえ、生まれてよかった?」

 唐突に聞くと、彼は面食らったように少し黙った。そして視線を左右に一度づつ振って答えた。

「それはあなたの疑問じゃないんですか?人の答えをカンニングしないでください。」

彼はまた笑った。この子が私の子供だったらいいのになと思った。そうだったら、この笑顔を失わないためになんだってする。

ふと、私は薬を飲んだ後よりも幸せな気持ちになっていることに気づいた。

「あ、なんだか幸せかも。」

「でしょう。感情を分かち合って理解してもらうって凄く大切なことなんです。僕とあなたにはそれが出来る。」

「これがしたかったの?同じ病気の人に会って。」

 彼にも同じように否定されたくない痛みがあるなら、聞いてあげたいと思った。

「お願いしたいことがあって。」

 うん、と私は頷く。

「ご存じかと思いますが、僕は死にます。何が出産後中絶だ。分かってください。殺されるんです。いいですか。あなたと一緒に唯一怒り、悲しみ、苦しんだ僕は、あなたをこの世に置いて殺されます。」

「・・・あなた、納得してるって聞いてるけど。」

「納得してますよ。あなたを尊敬してる。こんな人間が一握りもいない世界を生きていかなくちゃいけないなんて堪ったもんじゃない。」

 彼は私に薬の入ったポーチを返した。

「あなたみたいに薬漬けになる度胸もない。」

 私はポーチを開けて薬を検め、やっぱり手の届くところにあると安心するなと思った。ポーチの中を眺めたまま答える。

「・・・どうして欲しいの?」

 彼は黙っていた。何かを告白するのだろと思って、下を向いたまま彼の言葉を待った。

「僕が死んだら悲しんでください。少しでいいから。」

 震える声に驚いて私が顔を上げると、彼はもう来た時と同じく、音もなく去った後だった。

カランカランと喫茶店の入口のベルが鳴るのが聞こえ、私は急に泣きたくなった。

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