第10話

 震えるような言葉に、カナは目を見開き、咄嗟に口を開いた。

「……そんなこと、あるはず……」

「うん、貴方はそう言ってくれる。分かっていて、私は勝手に不安がっているの」

 シャルロットは穏やかに、だけど力強くカナの言葉を遮った。

 その言葉に思わずシャルロットの方を見る。彼女はカップに目を落としながら、小さく吐息をこぼす。

「貴方は私のことを大事に思ってくれている。それはすごく伝わってくるわ。でも――もしかしたら、それで私は、貴方の幸せを、奪っているのかもしれない」

 彼女は一息つき、さらに紅茶を一口飲んで続ける。

「貴方には、もっと幸せになる権利があるわ――貴方の教えてくれた、憲章のように。人は須らく自由であり、何人たりとも侵してはならない。貴方は当家に仕えるよりも、別の選択肢があるのかもしれない。それに、他の女の子と、仲良くすることだって」

 そういう、彼女は辛そうだった。自分の恐怖を吐き出し、その口にした内容で恐怖を再確認している――軽く震えた彼女は、また紅茶を飲んだ。

「貴方の自由を奪っていたらと思うと、すごく怖くて。だけど、そう思ってふと考えた貴方のいない未来を考えたら――まるで、胸にぽっかり穴が空いていたような寂しさを感じて、怖くなったの。貴方がいない、屋敷で過ごして、それが実感できた」

「シャル、さま……」

「情けない主人で、ごめんなさい。でも、貴方が他の人から引き抜きの声を掛けられていると、貴方の活躍を褒められると、誇らしい一面でどこか寂しく感じるの。貴方が、遠くに行ってしまう。そんな気がして。それと、女の子と話しているのを見るだけで、胸が引き締められるように辛くなる。とても、とてもつらくて――」

(そう、か……シャル様も……)

 それに気づき、カナは視線を上げる。改めて見た彼女は――小さく震えている。

 昔みたいに木の上で縋りつき、ぼろぼろと涙を流していた彼女。

 それからしっかりと大人びて、美しくなって――そして、強く頼もしくなった。

 その一方で、昔みたいな弱さを秘めている。それが、たまらなく愛おしく感じられた。

(あぁ、そうか、これが……)

 胸の中で、落ち着きのなかった気持ちがすとんと定まった気がした。

 カナは紅茶を一息に飲み干す。そして、そっとシャルロットへ手を伸ばした。

 手を重ね合わせると、シャルロットは目を上げ、揺れる瞳で見つめてくる。

 その瞳から目を逸らさずに、カナは優しく諭すように告げる。

「シャル様も――同じ、だったんですね」

「同じ?」

「はい、僕と同じことを思っていて下さいました――僕も、貴方がどこかに行ってしまうのを、恐れていました。シャル様は、モテモテですから」

「そんなわけ、ないじゃない」

「それは、シャル様があの縁談の手紙を読んでいないからです」

 思い返すだけでも、胸がかきむしられるくらい、あの手紙たちは心を乱してくれた。

 数々の甘い言葉、シャルを褒めたたえる言葉。それらを見るたびに、腹が立った。

「こいつらは、シャル様の何を知っているのだろう。この人たちは、シャル様の魅力を本当にご存じない――そう思いながら、自分の無力さにも腹が立ちました」

「無力さ……?」

「僕には、領地や資産はおろか、身分すらありません――ただの、下人なのです。そんな人間が、シャル様の傍に立つなんて、おこがましい。そんなことさえ……」

「そんなこと……っ!」

 シャルロットが声を上げ、瞬間、目を見開いた。

「あ……そっか……同じ、だ」

「……はい。二人とも同じです」

 視線を合わせる。それだけで、どこかおかしくなってきて、笑みこぼれる。

 二人は思わず笑い合いながら、こつん、と額をぶつけ合わせた。子供のときみたいに、二人で無邪気に笑い合う。

「おかしいわね、二人して、同じこと考えて同じことを怖がっていた」

「はい、長いこと一緒だったせいですかね」

「ふふ、そうね。主従似てきてしまったわ……嬉しいわ」

「はい、僕も嬉しいです。シャル様」

 ひとしきり、くすくすと笑い合うと――額をくっつけたまま、見つめ合う。やがて、そっとシャルロットは額を外して向き合う。そっとカナの手からカップを抜き取り、サイドテーブルに置いた。

 こつん、という乾いた音が、夜の部屋に静かに響く。

 そして、シャルロットはカナに向き合い、小さな声で訊ねる。

「ねえ、カナ――お願い。私を、安心させてほしいの」

「安心、ですか?」

「うん、私たちは本当に同じ気持ちなんだって。カナは、私の傍から離れないって、安心させてほしい」

 その言葉に、カナの喉がからからに乾いていく。どうしようもないくらい、目の前の少女から目を離せない。揺れる碧眼を見つめ返し、上ずりそうな声で訊ね返す。

「そうしたら――シャル様も、教えてくれますか。絶対に、僕の傍からいなくならない、と」

「うん――しっかりと、教えてあげる。だから、お願い――」

 そういいながら、そっとシャルロットはカナを向いて瞼を閉じる。

 わずかに上向きになったその顔。その淡い桜色の唇から、目が離せない。そのまま、吸い込まれるように、カナは顔を近づけ――。


 微かな水音が、部屋の中に響き渡った。


 唇をゆっくりと離す。間近な距離で、潤んだ瞳のシャルロットがささやく。

「もっと。もっとお願い」

「はい、シャル様――」

 乞われるがままに、さらにカナは唇を合わせた。その言葉を封じ込めるように、優しく、何度も、何度も――。

 そうするうちに、そっとシャルロットは首に腕を巻き付けていた。

 そのまま、カナに体重を掛ける。唇を逆に押しつけ返すようにして、ぐっと彼女はカナを押し倒す。気づけば、カナはベッドに横たわり、シャルロットを見上げていた。

 まるで、シャワーのように金髪が周りに降り注いでいる。

 それに包まれるようにして、シャルロットは熱に浮かされた目でささやく。

「私も、教えてあげる。貴方の傍から、絶対に離れない――ううん、離れてあげないことを。大丈夫。貴方が身分差を気にすることはないわ。私が、貴方を食べるだけだから」

 そういって、彼女は唇の合間から、真っ赤な唇をうごめかせる。

 まるで、蛇の捕食――獲物の気分になりながらも、まあ、いいか、とカナは思う。

「――シャル様に、いただいていただけるのなら……本望です」

「嬉しいこと、言ってくれるわね。それじゃあ」

 まだ、夜は長いわよ。そう甘くささやき、シャルロットはカナの顔に覆いかぶさっていった。

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