第三章 流行り病
第1話
「――流行り病?」
その単語が初めてシャルロットの耳に届いたのは、亡きレックスの主治医、テオドールが屋敷を訪ねてきたときだった。
恰幅のいい初老の医師は、応接間のソファーで紅茶を飲みながら頷く。
「ええ、一応、お嬢様にも申し上げておくべきかと思いまして。もしかしたら、そういう流行性の病が起きているかもしれません」
そう告げながら、テオドールは書類をカバンから取り出して、シャルロットに差し出す。彼女はそれを受け取って目を通していく。
傍に控えているカナも、後ろからのぞき込むようにして言う。
「ふむ――なるほどね」
症状としては、発熱、頭痛、下痢、嘔吐――当たり障りのない症状だ。
風邪にも思えるが、発熱が高く、下痢や嘔吐が止まらなくなり、衰弱していくらしい。現在、重症になった人はいないようだが……。
「これが、農村部の方から徐々に広がっておりましてな。もしかしたら、流行り病かもしれない、と考えております。何事もなければよいのですがな……」
「いえ、ありがとう。テオドール。私も頭に入れておいて、何かできることがあれば、手を打つことにするわ。父も、きっとそうしただろうし」
「そうですな。レックス様もそうされたでしょう」
「ちなみに、具体的な対策方法はあるかしら」
「ふむ、下痢や吐瀉物には触れないようにして、水などで流すことが肝要です。また、しっかり手洗い、口をゆすぐことである程度、感染は防げるかと」
「分かったわ――カナ、使用人たちに徹底させて頂戴」
「かしこまりました。お嬢様」
カナは一礼して了解を示す。シャルロットは悠然と微笑みを浮かべ、テオドールに視線を戻すと、彼は感心したようにつぶやく。
「しかし、少し見ないうちに、領主らしくなられましたなあ、お嬢様、いや、辺境伯様」
「そうかしら? おだてても何も出ないわよ? テオドール」
「いやいや、お世辞抜きに素晴らしいと思いますとも。地方通貨も、よく妙案を出されたと思います」
「これは、カナの案だったのだけどね」
「はは、なるほど、カナくんもまたとんでもないアイデアを出す」
「恐縮です」
それから二人は近況を伝え合いながら、談笑をしていく。その二人に紅茶を出しながら、カナはぼんやりと考える。
(しかし、流行り病、か……時期が悪いかな)
辺境伯就任パーティーが、来週に迫りつつあった。
街もそれに向けて、急速に準備が整い、お祭りムードになっている。目端の利く商人たちも、街に入り込んで商売を始めている。
そこで、流行り病。何事もなければいいのだが。
「なるほど、体調を崩す人も増えている、と」
翌日、カナは農協組合に顔を出していた。
辺境伯就任パーティーに即して、街はお祭り騒ぎになる。そのため、農協と商工は互いに領分を定め、きっちりと屋台を出す範囲を決めるのだ。
今回はそれの調整と仲介に来ていたが――今回は、割と互いに妥協し合い、すんなり決まったらしい。少しだけ調整するだけで終了していた。
(いつも、これくらいだと助かるんだけどな……)
そう思いながら、出してくれた薄いお茶をカナは口にする。
向かい合って座る、農協組合長のベル・ノームは少し考え込むように頷く。
「確かに、農村の方では体調を崩されている人も多い」
「ええ、ですので、流行り病、というほどでもないですが、お嬢様の就任パーティーもあるので、念には念を、皆様には注意をお願いしたいです」
「ふむ、分かりました。カナくん」
手渡した注意事項のリストに目を通し、ノーム組合長は頷いて微笑んだ。
彼は細身で小柄だが、知的な雰囲気をまとっている人だ。ジョン商工組合長とは、折り合いが悪いが、理性的であり、話せば分かってくれる人だ。
テオドールから聞いた注意点を二、三点言い含めると、ノームはしっかりと頷いてくれる。
「分かりました。皆には徹底させましょう――しかし、カナくんはいつも忙しくしていますね。前回の地方通貨の際もそうでしたが」
「これぐらいは当然です――シャルロットお嬢様を、支えるためですから」
「ふふ、キミは昔からそうですね。非常に好感が持てます。ですが、あまり無理をしないようにして下さいね?」
「お心遣い、感謝します」
なんとなく、彼も心配してくれているのだろう。
カナ自身も、少しだけ自覚があった。身体が重たく、気怠い感じがするのだ。
(でも、ここが頑張りどころ――あと、もう一息だから)
喝を入れ直す。カナは微笑みを返して腰を上げた。
「では、これから騎士団と、当日の治安維持について打ち合わせがありますので」
「ええ、お気をつけて、カナくん」
「はい、失礼いたします」
ノームの見送りを受け、カナは農協組合から出る。外に出ると、日差しがいつもより強く感じる。心なしか、身体も熱い。
(まいったな、気力の方が引っ張られて、疲れてきたのかもしれない)
だが、騎士団との打ち合わせは、今日中に済ませておきたい。身体に鞭打ち、騎士団への営舎へ歩いていく。
だが――この、無理が良くなかったのだろう。
騎士団の打ち合わせが終わり、屋敷へ戻るときには身体がずっしりと重たく感じられていた。熱がじわじわと身体を蝕んでいるのを感じる。
(早く、戻って、報告の方を――)
だんだん、ぼんやりとしてきた意識を繋ぎとめるように、前へ、前へと足を踏み出す。
やがて、何とか屋敷にたどり着き、扉を開くと――そこには、鼻歌交じりに掃除をしているマリーの姿があった。スカートを翻して振り返り、彼女はにこりと微笑む。
「あ、おかえりなさ――か、カナさん? 大丈夫ですか!? すごく、顔が赤いですよ!」
きんきんと声が耳に響く。顔をしかめた瞬間、どっと疲れが出たのか、思わずその場でよろめく――それをマリーが慌てて支えてくれた瞬間。
スイッチが切れたかのように、意識がふっと遠のいていった。
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