幽冥界

「アトゥーム様!」グランサール皇国皇女アレクサンドラは彼女の思い人、“死神の騎士”傭兵アトゥーム=オレステスがヴェンタドール王国守護龍ヴェルサスの魔法によって目の前で消えるのを見た。


 慌てて探索の魔法を使う――アレクサンドラは魔法にも多少の心得は有った。


 しかし、魔法に反応は無かった。


 アトゥームはこの世から完全に消えた――それが答えだった。


 アレクサンドラの身体を流れる血が逆流する――焦って更に探索魔法を使うが結果は同じだった。


「そんな――」アレクサンドラは自分の予知が外れた事が無かった事さえも一瞬忘れかけた。


 あの感覚は幻だったのか――


 あの人に漂っていた儚げな空気そのままに消えてしまった――?


 その時アトゥームの義兄弟、軍師ウォーマスターラウルの声をアレクサンドラは聞いた。


「大丈夫、問題無いよ」


“何が問題無いの――”アレクサンドラは口元まで出かかった言葉を何とか飲み込む。


 ヴェルサスが退却していくのをアレクサンドラは見た。


 “大丈夫”というのはヴェルサスがこれ以上攻撃してこない事を言ったのか――アレクサンドラにはそうとしか思われなかった。


 *   *   *


 アトゥームは荒涼とした平原にいた。


 空は血のように紅い――どす黒い雲が波の様にその空を切り裂いて流れていた。


 足元には背の高い枯れた草が石と共にあちこちに生えていた。


 うねる様な地面に吹きすさぶ生温い風――。


“ここは地獄か、冥府か――”なびく髪を意識しながらアトゥームは漠然と思った。


 ヴェルサスは俺を飛ばす魔法に全てを賭けたのだろう――殺気を込めた攻撃の中に一つだけ殺気を感じさせずに鎧に触れた一撃が有った。


 あれが魔法攻撃だと意識できなかったのは不覚だった。


 自分は死んだのか――だとすればあの世と言うものは肉体を持っていける場所なのか――アトゥームは自分の身体を見た。


 欠けている部分は無い。


 黒い皮の服に黒いブーツ――死神の騎士の装備が平時用に変化した姿だ。


 腰元に短剣グラディウスが一本、“ツヴァイハンダー”は亜空間にしまわれていた。


 アトゥームは古い街道らしきものが足元にあるのに気付いた。


 道の行き先に塔の様な建物が有るのを見た――このままここに居ても仕方がない――少し考えた後、塔に向かう事にした。


 道を歩きながら、死んでいないなら元の世界に戻らなければいけないと漠然と考えていた。


 この世界――冥府なのか――には生き物の気配はしなかったが、誰かに見張られているかの様な、そんな感じが拭えなかった。


 塔迄歩いて一時間から一時間半だろうと見当を付ける。


 日は差していないが暗くは無かった。


 小一時間ほどで塔に辿り着く。


 表から見る限りでは人が住んでいる様子は無かった。


 塔の高さは五階建て位で近くに池――湖ほど広くは無い――が有る。


 扉には看板が掛けてあった。


 北辺語で“注意”と書いてある。


 塔の扉を叩く。


 中から応えが有った。


「助けて――」女性のものか――くぐもった人語が聴こえる。


 アトゥームが答えようとしたその時、聞き覚えのある声がした。


「待った方が良いよ」短身痩躯の姿が浮かび上がる。


 トレボグラード城塞都市地下の迷宮で会った、古吸血鬼エルダーヴァンパイアカーラム=エルデバインの姿だった。


 アトゥームは訝った――何故ここにカーラムが居て、こんな時に話しかけてくるのか――。


「どういう事だ?それにここは何処だ?何故お前がここに居る?」


「随分な言い様にも聞こえるけど、まあそれは良いよ。ここは幽冥界、人によっては地獄の辺土と呼ぶ所――君はヴェルサスの魔法でここに飛ばされたんだ」


「俺は死んだのか?」


「元の世界に帰れなければ死んだも同じだね――出る手段が無いわけじゃないけど」


 カーラムは間を置いた。


「君達との約定で必要な時には助けると言っただろう。僕の助けがある方が良いと思うけどね」


「それはそうだが――何故この塔の主に答えない方が良いんだ?」


「中に居るのは人間じゃない――塔に縛られた地縛霊だよ――答えると憑りつかれる可能性が有る。そうなると厄介だからね――彼女には可哀そうな事だけど」


「成仏させることは出来ないのか?」


「憑りつかれた上で彼女の望みを満たしてあげれば出来ない事も無いけど――魔法使いでもない君には難しいよ。それでも助けてあげたいかい?」


 永遠にここに縛られる――アトゥームは迷わなかった。


「助けられる可能性が有るなら、そうすべきだろう。手助けはしてもらえるんだろう」


「君には何の得にもならない事だよ」


「損得の問題じゃない――俺がそうしたいと思うだけだ」


 カーラムはアトゥームをじっと見ると、やれやれという様に首を振った。


「死神の騎士と言うには君は感傷的すぎるよ」


 アトゥームは扉に向かい直すと言った。


「俺は傭兵アトゥーム=オレステス。あなたを助けたい」


「ヲヲオオオオオ――」扉がバタンと開く、突風と共におどろおどろしい、勝利の呼び声にも似た歓喜の声が響き渡る。


 身体が重くなる感覚が有った。


 明瞭だった五感のみならず魂までもが無明の霧に包まれる様な感覚に襲われる。


“裁きを――あの男に裁きを”アトゥームの脳内に声が響く――今でもかすかに聞こえる幻聴とは僅かに異なる声。


 アトゥームは何とか聞き分けることが出来た。


 カーラムは感覚共有の魔法で霊の言葉を聞いた。


「あの男とは誰だ――」カーラムが訊く。


 霊は姿を現した――若い女性だろうか――白い寝間着かドレスか――長い髪が揺れる。


 脳内に聞こえるだけだった声が鼓膜を通して伝わってくる。


「――悔しい――虚しい――辛い――哀しい――苦しい――切ない」


「――俺に何をして欲しいんだ」アトゥームは呼ばわった。


「私を捨てたあの男に――同様の苦しみを――」この女の霊は愛した男に裏切られて殺されたのだ――だが女が殺される間際の映像が脳裏に映るが男の顔が陰になって隠れて見えない。


「――仇を討って欲しいんだな」霊に向かって殆んど叫ぶような声で訊く。


「裁きを――裁きを――裁きを――」


「これだけじゃ分からないよ――せめてもう少し手掛かりは無いの?」カーラムが全く怯えの無い声で訊く――不死者アンデッドで吸血鬼に優るものなどそう居ない。


 女の霊は一気にアトゥームに襲い掛かる。


 アトゥームの身体を数分の間包み込むと体内に吸い込まれる様に消えた。


「大丈夫かい」カーラムはアトゥームの意識が乗っ取られていない事を知る。


「何とかな。気分は良くないが」


「霊に憑りつかれると生命力を消耗する。それだけじゃない――肉体も頭脳も五感も第六感さえも働きが鈍くなる――彼女の望みを叶える迄そのままだよ。マギスパイトで建国帝ズィドガーを倒したような真似は出来ないね」


「取り敢えず塔を探そう――何か助けになる品物アイテムが有るかも知れない」


「期待は持てないけどね」カーラムは皮肉めいた口調で言った。


 塔を探索する――幽霊の朽ちたむくろさえも無く、目ぼしいものは見当たらなかった。


 塔の上から周りを見渡す、古い街道跡が森と湖に繋がっていた。


「完全に行き詰ったな」その時アトゥーム達の前に先程の女の霊が現れた。


 湖の方を指差している。


「行ってみるかい?」


「他にどうしろと言うんだ」


 “三人”は湖に向かう。


 最初の内こそ開けていたが、途中から森の中の小道を迷わない様に進むことになった。


 アトゥームは死神の騎士の装備を平時の形態から有事のそれに替えた――黒い鎧に両手剣を背負う通常の形態だ。


 カーラムは長剣ロングソード一本を腰に吊るした以外は夜会服の様な礼服を着ていた。


 白いシャツに黒いジャケット、黒いスラックスに、赤で裏打ちされたサテンのマントと言った出で立ちだ。


「転移の魔法は使えないのか?」アトゥームが尋ねる。


「ここに飛んでくるのにかなりの魔力を使ったんだ、後に備えて残しておきたいよ」


「どうやって俺の居場所を知ったんだ?」


軍師ウォーマスターラウルと魔力の痕跡を辿ったんだ。生身の人間は飛ばされない限り入れないけど、吸血鬼の僕なら来れる」


「帰りは」


「ヴェルサスと交渉するしかないね。解呪ディスペルは効かなかった。僕は一人でも帰れるけど、君を連れてかないと八つ裂きにされかねないよ」カーラムは笑った。


「俺は一人では何も出来ないな――」自嘲する様にアトゥームが言う。


「誰にでも得手不得手は有るよ」


 カーラムの足元に何時の間にか白猫が居た。


 アトゥームが尋ねるより先にカーラムが答える。


「これは僕の使い魔だよ――不死の吸血猫――死にかけてたところを助けたのさ」


 喉を鳴らしながら前を走る。


 消えたり現われたりを繰り返し、時にカーラムの肩に乗って辺りを警戒したりする。


 小休憩を挟んで、暫くは平和だった。


 湖が近くに見え始めた頃、猫が毛を逆立てて唸った。


 アトゥームには何がそうさせたのか分からなかったが、脅威が迫っている事は理解できた。


 目の前を風が渦を巻く――唐突に長身の男――アトゥームより5~6センチ程低い――が姿を現した。


「ジュラール?」アトゥームの声は信じられないといった様子だった。


 かつて刀礼で見送った男が目の前にいる――マリア達から聞いていたとはいえ実際に目にするのとは違うのだと知らされた。


 ジュラールは閉じていた眼を開く――アメジストの瞳がアトゥーム、カーラム、白猫、そして見えない筈の女の霊を見た。


「やはり貴方は彼女を救う事を選んだのですね。傭兵マーセナリーアトゥーム」穏やかな声だった。


「それでこそ貴方だ。静香様やマリア様を助けて頂いている事、そしてアレクサンドラ様との事、グランサール皇室付近衛騎士としても礼を言わせて頂きます」


「ジュラール、お前は今アリオーシュに仕えているのだろう。ここはアリオーシュの領地なのか?」


「そうとも言えるし、そうでないとも言えます――貴方を飛ばすのに我が主アリオーシュも一枚嚙んでいるのです」


「湖に行く前に強敵が潜んでます。それを乗り越えないと貴方に憑りついた女の霊を救うことは出来ません」


「君は助けてくれないの?」カーラムは尋ねる。


「私はここでは現身うつしみを持っていません。戦いを眺めるのがせいぜいです」


「役に立たないね」カーラムの言葉に「そうですね」とジュラールも苦笑した。


 その時森の梢が一斉にざわめき、真っ黒な鳥――カラスそのものだった――がしわがれ声を上げて一斉に飛び立った。


目の前に燃える炎の様な光が出現した。


「我が領土を侵したのはお前達か――?」


 殆んど肉の削げ落ちた顔――眼窩が深く落ち込んで、鈍い赤色に光る眼の――ボロを纏った骸骨じみた容姿だった。


「リッチ!?」カーラムが驚きの声を上げる――吸血鬼ヴァンパイアをも凌ぐやもと言われる不死者アンデッドの王――居たのはそれだけではなかった――茶色の身体にオレンジに近い茶色の小さい四枚の羽、鶏冠とさか様の突起物が頭に有る。


「こっちはマイルフィックか――」アトゥームはかつて“狂王の試練場”でこの怪物と戦ったことが有った――一体しかいない、迷宮でも最強クラスの太古の魔神だった。


幽霊ゴーストに憑りつかれた状態で何処までやれるか――


――アトゥームは両手剣ツヴァイハンダーを背から抜き放つ。

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