第二幕 梅の花 かばかりにほふ春の夜の やみは風こそうれしかりけれ  ――藤原顕綱

 定食屋というと最近はめっきり行かなくなってしまった。というよりも個人経営の定食屋そのものを見かけないような気がする。街中に出れば目に飛び込むのは安さを前面に押し出した小綺麗なファミリーレストランばかりである。製本されたメニュー表を開くと、他の系列店と代わり映えしない無難な単品ハンバーグやカツ丼、グラタンなどが個性を誇張してくる。それは和食系であればサクッと揚げた天麩羅を添えた蕎麦と饂飩うどん、彩り豊かな御膳ごぜんである。そして決まってドリンクバーはウーロン茶と炭酸飲料、コーヒーも不味くはないが画一的だ。

 食事をするはずの場所なのに無機質な気がする。しかし私は何もファミレスをこき下ろしたい訳ではない。勿論ファミレスの食事も私は好きだ。メニューが代わり映えしないということは即ち誰でも楽しめるということであり、画一的なコーヒーの味は何処でも同じものが飲めるという安心感を与える。ファミレスが街中に溢れるのは必然的である。


 しかしやはり個人的な定食屋にはファミレスにはない魅力がある。最後にそれらしきものに行ったのはかれこれ一年くらい前になるだろうか。免許を取るべく通っていた自動車学校の近くに、一般的なそれのイメージからすると少しお洒落めな定食屋があった。ある日曜の教習の合間の昼休み、いつもは二ブロック先のコンビニで昼食を買っていたのだが、試しにその店に入ってみることにした。引き戸を開けると威勢のいいおばはんの声が飛ぶ。入り口のすぐそばにある小さなレジカウンターを横目に適当な席に座る。角のラミネート加工が剝がれかかったメニューに書かれているのは、やはり定食屋というべきか、ハンバーグ定食、鯖味噌定食、焼き魚定食、生姜焼き定食、とり天定食……と和洋折衷、まさに定食たちである。値段が若干高めに設定されているのもまたをかし。先述した「ファミレスの無難な単品たち」と何が違うんだコノヤロウ、と思うかもしれないが、簡潔に言うならば材料と調理法であろう。「ここの店のハンバーグには野菜が多い」とか「あっちの鯖味噌よりも味が濃い」とかいう小さな違いである。食事以外に言及するとすれば店の雰囲気というものは大きい。どんな外観をしているか、看板と暖簾のデザイン、店の天上の隅に置かれているのがブラウン管テレビなのか液晶テレビなのか、そこで流れているのは競馬中継なのかバラエティ番組なのか、メニュー表の作り方、テーブルに置かれているコップに入った箸、紙ナプキン、湿気を吸った胡椒、七味唐辛子……。これらが相俟ってその店の個性を醸成するのだ。

 「ながお」もまた独特な個性を醸していた。ガラリと引き戸を開けると、レジカウンターを入り口すぐ近くの右手に、凡そ二十人分位であろうか、こぢんまりした木製のテーブルが店の奥まで並んでいる。額縁に入れられて奥の壁に掛かっている絵画が一際強気な主張をしていた。

「さあさあ座って座って」と老婆が店の奥から四角いお盆を抱えて来た。急かされるように適当な席に座り、潮垂れるトレンチコートを椅子の背凭れに掛けた。

「余り物ですまないねえ」と笑いながら老婆が差し出したのは、濃いめの緑茶が注がれた湯飲みと幕の内弁当である。この店はテイクアウトもやっているらしい。

「お弁当も売っていらっしゃるんですか」

「お昼の間だけたいね。案外昼休みの時間に買いに来る人がおるけえ、パートさんに入ってもらって作りよるのよ」

「人通りが多いんですね」

「そうでもなかとけどねえ。不思議なもんよね。昔は学生さんがよく買いに来よったけん、その人たちかも知らんね」

 この「学生さん」は恐らく私の先輩にあたる人たちである。以前はこの辺りに教養部があったという。

「とにかく冷めないうちにお上がりんさい。私は奥の方で片付けしよるけん、食べ終わったら言うてね」

「あっでも……今僕お金持ってません」差し出された後になって大事なことを思い出したことに独り恥じ入りつつ言った。同時に村松に対する殺意が込み上げてきたのは言うまでもない。

「おやそうかね。まあよかよか、明日でよかよ」老婆は私に背を向けたままのんびりと言った。

 三角巾を掛け、見た目の割に背筋の伸びた老婆が厨房に吸い込まれていくのを見届けると、私は改めて提供された売れ残りの幕の内弁当に向き合った。長方形の所謂「弁当」の形をした筐に細かく仕切りが走り、色とりどりの食材がプラスチックの窓の下に覗いている。薄っぺらい蓋を留めている輪ゴムを取り外すと、レンジで温めた直後なのだろう、湯気が立ち上っている。なるほど「冷めないうちに」と言ったのはそういうことか。

 中身は何の変哲もない幕の内弁当である――と思ったのも束の間、明らかな異端がそこにはあった。白飯の中央に、梅干しとは言い難いカリカリで着色料塗れの小さい梅干しが埋まっており、偶にその周辺に黒ゴマが散らされているのが通常のはずだ。しかしこの弁当では左半分を炊き込みご飯が埋めているのだ。

 ほんのり茶色に色づいた米の間から、細切りにされたタケノコ、ゴボウ、ニンジン、シイタケ、それから細かく刻まれた鶏肉が顔をのぞかせている。炊き込みご飯がよそわれている状況など、駅弁とか飛行機の機内食くらい豪華でないと有り得ないものだと考えていただけに、十分すぎるインパクトだ。

 調べてみればこのようなものはたくさん出てくるのかもしれないのだが、私が言いたいのはそういうことではない。この様な下町の個人的な定食屋で幕の内弁当が販売され、しかもその空間の約半分を炊き込みご飯が占有していることが問題なのである。

 まったく、グルメリポートでもないのに評論じみたことを言いたいのではない――とはいいつつも、この「ながお」とやらの弁当には叙述せずにはいられない光景が広がっている。三つに分割された右半分でまず目に飛び込むのが鮭の塩焼き。

 「塩焼き」と言いつつ身が柔らかそうな見た目をしているのは、おそらくは蒸したものだからだろう。それから厚さ二センチ位に切られただし巻き卵が一切れ、小さなシュウマイが二個、薄切りのカマボコが二切れ、アルミカップに盛られた煮物のサトイモ、ニンジン、シイタケ、レンコン。

 別の区切りは副菜ゾーンだろうか、ビニールのカップに入ったポテトサラダときんぴらごぼうが並んでいる。最後の一区画、最も小さい部分には漬物がチョコンと坐っている。たくあんとフキノトウ。かくしてラップトップの画面ほどの大きさの長方形の中に広がる小さな宇宙が、調和した色彩のスペクタクルを奏でている。おかずの部分は比較的平凡とはいえ、全体が与える印象は想像を絶するものだろう。

 一息ついて、私は竹製の筒から割り箸を取り出した。


     *


 湯飲みの緑茶を飲み干した時、タオルで手を拭きながら店の奥から老婆が歩いてきた。

「どうやったね? うちの弁当は」

「いやもう、とても美味しかったですよ。何と言うか実家で食べるメシってこんな感じやったなあと思いましたね。昔からのお客さんがずっと買いに来るのも納得ですよ」

「弁当ひとつでそんなに考える人もおるったいね。ままま、兎に角そんなに褒めてもらえると嬉しかねえ」

「それにしても、今日はどうしてこんなに遅くまでやっていらっしゃったんですか?」

「ああ、古ーか友人の来たとさね。わざわざ京都から。高校以来たい。全く変わらんもんやけえ、お客さんの帰ってしまった後もついつい長話してしまったとよ」と老婆は破顔しながら言った。犬歯の欠けた白い歯が覗いている。

「よかね兄ちゃん、お友達は大事にせなあいかんよ。特に付き合いの長い人とか親しくなっとる人はね」

「はあ」

「この年になると知り合いはどんどん階段ば昇って行きんしゃあと。天国への階段たいね。そいに身体も思うよりは動かんとたい。そやけん定期的に連絡取ったり、都合の合う時に会ったりしたりしとかんといかんたいね。学校ば出てしまったら会おうと思ってもなかなか会えんくなるけんねえ」

「なるほど」と老婆の熱意に若干驚きを隠せないまま無難な相槌を打った。その時目に留まったのが、例の絵画である。

 画面の大きさは縦七十センチ、横一メートルくらいだろうか。アクリル板の内側で波打っているところを見る限り水彩画のようである。前景には画面の中央より少し下の辺りまで真っ青な水田が広がっている。おそらく夏なのだろう。重なるように横に走る畦道の奥には、白色で描かれた集落が細部まで描写されている。

 家々の奥には、そこまで高さはないがこんもりとした森が見え、その奥に殆ど群青色で彩色された山が、その奥に更に高い山が聳え、灰色と薄い青色でその距離故に霞む様を見事に表現している。鮮やかな青色で塗られた空は晴れているが、陰影とぼんやりした輪郭が忠実に表現された綿雲がジグザグに配置されている。全体的に鮮やかだが淡い色調で彩られ、空気遠近法でその微妙な色の変化が描かれているところを見ると――

「あの絵は……𠮷田博の作品でしょうか?」

「あの水彩画かい? あれは主人が描いた絵よ。でも惜しいねえ。主人は𠮷田博の絵ばよーく見よったけんねえ。展覧会も取り憑かれたごと見に行きよったとよ」

 老婆は懐かしそうに絵画を眺めた。それから私の方を不思議そうに見た。

「それにしてもどうして𠮷田博がすぐに思い浮かんだと? 普通の人なら具体的にどの画家とかわからんと思うんやけど」

「いや、実は大学で美術史を勉強しているもので……」

「へえ、美術史。聞いただけじゃよく分からんわねえ……どんなことば研究? 勉強? しよると?」

「僕は近代の日本画をやってます。祖父がやたら美術品に凝ってて、昔から明治の美術を見せられていたので」

「そうなんやねえ。私は大学に行っとらんとけど、やっぱ学生さんば見よったら羨ましくなるたいね。好きなことば好きなだけ勉強しよらすとやけん」

「高校を出て就職されたんですか」

「料理の専門学校みたいなところに通ったわね。主人とはそこで出会ったとよ。うちが元々定食屋を長いことやっていたから、結婚も反対されんかったとよ」

「……となると、御主人はいつから絵を描いていらっしゃったんですか?」

「何かね、絵画の専門学校か料理の専門学校かで悩んだらしいのよ」

「昔から芸術的な方だったんですね」

「一時期は似顔絵を描いてお小遣いも稼いでいたくらい上手かったとさ。もう死んでから三年くらい経つとかいなあ」

 懐かし気に遠い目で水彩画を見る老婆を見て、途端に私は閉口した。調子に乗って話過ぎてしまうのが悪い癖だとは思いつつもなかなか直せないでいる。一人で切り盛りしているのだろうかと薄々感じてはいたが、そういうことだったのか。

「あんまり気を遣わんでよかとよ。主人はおらんけどパートさんが入りんしゃあけん全然寂しゅうなかと」

 老婆は犬歯の欠けた歯をきらめかせながらニヤリと笑ったが、何処か翳りを見ずにはいられなかった。ご主人が他界していたという話を聞かなければ、単なる屈託のない笑顔に見えていたことだろう。



      *



 明日お金持ってきますから、と言うと老婆はハイハイ気を付けてねと言って私を送り出した。店に入る前に降っていた雨はとうに止んでいた。街灯の白い光が濡れたアスファルトに反射し、人気のない住宅街の影を浮かび上がらせていた。時計を見ると十二時半を指していた。

 酒はすっかり抜けていた。これなら歩いて帰るのも苦労はしなさそうだ。距離的にはなかなかきついものがあるが。

 しばらく歩いて「ながお」の方を振り返ると、老婆が入り口に渡していた暖簾の竹竿を取り外していた。


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