第三章 姉弟の願い

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 俺は悩んだ。悩んで悩んで数日が過ぎた。ただ、数日が過ぎても、俺の思索に進展はなかった。あれやこれや考えては「いやないな」とボツにして振り出しに戻り、それを何度か繰り返すうち、ついには何も浮かばなくなった。早くも陥った思考の袋小路にて、進む先をなくしてしまった。

 もちろん、俺をこんな風に悩ませるものは他でもない。先日、アリア先輩から仰せつかった宿題である。実のところ、予選の最終戦にて、華麗に俺を助け出したアリア先輩の素性についても大いに気になってはいるのだが、今は宿題の方が優先だ。

 それは、じきに行われるゲームの決勝、願いを叶える権限を賭けた最後の戦いに際し、ミューを説得するというものだ。端的に言えば、ミューにも勝利を目指して一緒に戦ってほしいと頼むわけである。

 確かに先日の様子を思うと、ソラとルナはまあいいとしても、ミューだけは素直に協力してくれそうにない感じであった。別れ際の彼女の放つ雰囲気には、何かいかようにも表現のし難い、複雑な心持ちが滲み出ているように思えた。こちらから何らかのアプローチをしない限り、事は望む方向には進展しないと思われる。

 見たところアリア先輩は、頑なにチーム全員の結束を重要視している。もしミューが戦う俺たちを止めようとするのなら、先輩だってそれを無下にはしないだろう。もしそうなれば、決勝で勝ちを目指しにゆくという話自体、覆りかねない。

 アリア先輩は言っていた。決勝は、南校が五人で立ち向かわなかったら、到底勝てない戦いだと。

 今ならば俺も、そう思う。南校の次に人数が少ない東校相手ですら、俺一人で突っ込めばあのザマなのだ。以前の俺は、決勝のことはそのときに考えようなんて思っていたけれど、あれ以上の相手に単独で立ち向かう手段は皆無だと、今は思い知っていた。

 ところでその相手についてだが、更新された端末のスケジュールには、西校と表記されていた。まあ、これは妥当な結果だと言える。西校は、現状では四校の中で最も多い、約二十の人員を有しているのだから。

 つまり南校は、次の決勝の舞台で、実に戦力差四倍という強敵と対峙することになったのだ。

 勝率は、極めて低い。南校がしっかりチームで連携し、満を持して挑んだとしても、当然のように負けは濃厚。勝利への道は、茨の道だ。

 というわけであるからして、仮にアリア先輩の宿題がなかったとしても、ミューの説得は俺にとって、避けては通れないハードルだろう。頭数は少しでも多い方が良い。ミューの存在が戦力にどれだけ寄与するかはわからないが、いないよりはいる方がいい。これは事実だった。

 しかし、浮かばない。いくら悩んでも、やはり案は浮かばない。何も浮かびやしないのだ。

 俺の目的、銀杏の樹の広場を守るという願いのために協力してくれ。そう言って頭を下げたとしても、ミューが快く首を縦に振るさまは想像しにくい。なぜなら彼女は、個人の勝手な思惑で学校を変えてはならないと考えているからだ。正式な権限をもってしてもなお、それは良くないことだと彼女は主張するらしい。機械的で、杓子定規で、融通の利かない思考である。

 だけれども、いくらクソ真面目な考えであれ、彼女の主張は正論だ。だからこそ論破するのは難しい。俺の願いが、一種のわがままであるという自覚も、もちろんあったから。

 では、どうするのか。どうすればよいのか。

 ロジカルに攻めるのは分が悪い。あの性格だし、逆にねじ伏せられかねない。ならばいっそ、ここはもう開き直って、真摯に懸命に、情に訴える熱弁を垂れるのはどうだろう。しかしそれはそれで、あの無愛想で無感動で無表情なミューの心を動かせるような文言は思いつかない。なおさら全く見当もつかないものだ。

 女心と秋の空……をこの場合に思い浮かべるのは誤用だろうが、彼女の心が度し難いという意味では同様だ。それを推し量ることができない俺には、彼女の説得は荷が重いと感じざるを得ない。

 あー……本当に、何かいい方法はないだろうか。せめてヒントだけでも、近くに落ちていてくれると助かるんだけど。

 手詰まり過ぎて、叫びたくなる。頭の中を、思考がぐるぐると回る。ついでにミューも、ぐるぐる回る。俺も回る。回り続ける。

 そうやって回る頭を必死に抱え続けたが、とうとうついに、何も進展がないまま決勝の当日を迎えるまでに至った。俺の思案は、全くもって至るべきところまで至ってはいないが、でも当日はやってきてしまった。

 勝負本番を本日の夜に控え、ただいま時刻は三時過ぎ。午後の授業を順調にすっぽかし、俺はお気に入りの場所で、一本の大樹の幹を拠り所として腰掛けながら、秋の空を見上げている。

 透明な空は、さきほど思考に上ったミューの心のようにミステリアスな色をして、紅に染まる兆候をほんのりと香らせた、境の曖昧な青と白のコントラストを描く。視界にちらつく扇の葉たちは、褪せ始めた色を寂しげに揺らして、傘のように俺を覆う。吹き抜ける冷涼な風が、わずかに髪を揺らして去っていく。

 この小さく簡素な空間では、全てが調和し、芸術的なまでの隔離世界を形成していた。

 ここにいると、俺はいっそう強く感じる。どうしてもこの場所を失いたくない。この場所を包み込む消滅の運命を、看過してしまいたくない。文化祭のあと、この場所がいよいよ消えてゆくという未来を、想像したくない。

 文化祭がこの銀杏の樹との送別祭になるなんて、絶対に嫌だ。

 そんなことを思ってしまうと、胸の片隅では妙に気持ちがざわついて、巡る不安が、背後からしっとりと絡みついてくる。まるで肺が微かに縮んだような息苦しさが、一雫の悲壮と寂寥をもたらしてくる。冷えた手で心臓を握られているように、怖くなる。

 だから、俺は諦めたくない。失うなんて耐えられない。切れかかった命綱に縋り付いてでも、一縷の望みを追い続ける。今夜の決勝のために、南校が全力を出すことを考える。ミューを説得する術を考え続ける。

 大切な銀杏の樹の存在を双肩に受けながら、俺はまた頭を回し始めた。

「さて……どーすりゃいーんですかねー」

 零れた俺の呟きは、葉の擦れる音に混ざって、風でどこかに運ばれていく。そのゆく先を探るようにして、ゆっくりと視線を空から落とした。

 澄んだ声音が耳をついたのは、そんなときだった。

「そうね。あなたはまず、ちゃんと授業に出るべきじゃないかしら」

 背後からだった。俺は幹から背を離し、横へ乗り出すようにして声のする方向を見た。

「サボりもあんまり度が過ぎると、見逃してあげる気もなくなりそうよ」

 視線の先、少し離れた通路の傍。立っていたのは、九条だった。

「あれ……サボり仲間」

「失礼なこと言うと今すぐ教室へ連れ帰るわよ。私は違うって前に話したでしょう」

 俺が顔を見せると、九条は無表情で辛辣な言葉を放ち、近くの壁に立ったままもたれた。

 互いの声だけがぎりぎり聞こえる絶妙な距離が、俺と彼女を隔てている。

「何かお悩み事? 普段から悩みなんてなさそうなのに」

「……お前もなかなか失礼だな」

「あら、ごめんなさい」

 冷めた上辺だけの謝罪だ。謝る気なさ過ぎ。

 俺は捻った身体を元に戻し、九条が視界の端に収まるように、改めて座り直した。

「なんなら相談に乗ってあげようか?」

「……相談? 九条が?」

「ええ、私が。テストで良い点が取りたいとか、彼女が欲しいとか。何でも結構よ」

「……何だよそれ。前者はまだいいとしても、もう一つの方は……」

 九条なりの冗談のつもりだろうか。相変わらず無表情なのが気になるが。

 そりゃあ確かに、彼女は頭が良いからテストの方は対応可能かもしれないけど、でも色恋沙汰の方は……どうかな。あんまり九条についてのそういう噂は聞かないし、それ以前に、俺が九条に対して彼女が欲しいと相談する絵面も、相当嫌だろう。

「何よ。経験はなくても知識はあるわよ。恋愛相談くらい簡単だわ」

 経験ねーのかよ。じゃあダメだろ。

「いやあ……。ま、まあ、それはさておき。テストの点はそこまでひどくないし、彼女の方も間に合ってるから」

「彼女いないのに間に合ってるの?」

「るせーよほっとけ。別に彼女がいなくても、四六時中それで頭悩ませたりはしないんだ」

「ふうん、そうなんだ。じゃあ、何で悩んでるの?」

 九条はあまり興味なさそうに、片手で反対の肘を抱えながら聞いてきた。

 けれどもそこで、俺は思い直す。

この悩みは相談できない。夜な夜な学校で行われているあのゲームのことについては、関係者以外には口外無用だ。ミューの説得がどうのなんてこと、九条には言えない。

 だいいち、ミューの件について九条の意見を参考にするなんて、それこそ俺が彼女に恋愛相談をしているみたいではないか。確かに相手は女だけれども、ちょっと……それはない。

 だから俺は彼女の質問に対し、真実ではないが嘘でもない、当たり障りのない答えを返した。

「前にも話したことだよ。ここがなくなってしまうのを、どうにかできないものかなって」

 対して九条は、テンポ良く反応する。

「あら、何か方法でも見つけたのかしら」

「…………」

 鋭いな、と俺は思った。

 九条は、俺のどの部分からこういう心情を読み取っているのだろう。まさか俺の頬が独りでに微笑んでいるわけでも、ひきつっているわけでもない。そこまでわかりやすい性格のつもりはないし、なるべく態度や表情には出さないようにしているのに。

 俺が黙っていると、さらに彼女は続けた。どうやら否定するまでもなく、彼女は納得をしてしまったようであった。

「署名でも集めることにした?」

「まさか」

 署名なぞ、既に却下された提案だ。一番合理的ではあるが、今回の件に関してはあまり現実的ではない。俺がここを好んでいることと、この場所の存続のために署名が集まることは、背反事項だ。決して同時に成立しない。

「じゃあたとえば、生徒会なんかよりももっと頼りになりそうな、秘密組織でも味方につけたとか。たとえばそこで、心強い協力者にでも出会ったとか。それこそあなたのお姉さんのような人なら、どんなことでもできてしまいそうよね」

 なぜだろう。いつになく今日の九条は饒舌だ。俺の口よりも、三倍くらい軽やかに彼女の口は動いている。

 俺はその事実に少しだけ違和感を覚えたが、しかしどちらかと言えばそれよりも、わざわざ実の姉が引き合いに出されたことの方へ意識がいった。何だ、嫌がらせかと。

 そりゃあまあ、アリア先輩は優璃の後輩らしいし、だから師匠に似たんだろうけど。よもや九条の冗談が、意外にも事実に近かったのはおかしな話だ。

「……何かしら方法があったとしても、それで万事上手くいくことが保証されたわけじゃない。色々問題はあるんだよ」

 九条の嫌味なギャグセンスに食いついて唇を尖らせてもよかったのだが、今回は、あまり露骨にするのはやめておいた。感づかれない程度の声量減衰に留める。

 だが、なおも彼女は再三問うた。

「そうなの。たとえば頭の硬い厄介な同級生が、その先輩に反対してたりとか?」

 そしてまた、違和感は膨れた。直前には注意を向け損ね、消えかけていた妙な引っ掛かりが、また現れたのだ。

 はは、そうさ。確かにミューさえ上手く首肯させられれば、あとは正々堂々戦うだけなんだけどな。って、いや、さすがにおかしくないか。

 九条がさきほどから、ずっと俺を見つめている。さらに、こちらがそれに気づいても、彼女はあからさまな正視をやめなかった。

 当然、俺は訝しむ。

「九条……お前さっきからどうしたんだ? 珍しくよく喋るし、変なこと言って……」

 俺がたまらず疑問を返すと、途端に九条はわざとらしく遮って言った。このときの彼女の言葉は、俺の耳に実によく通った。

「ねえ、だったら……私が頷けば、その問題とやらも少しは減るんじゃないのかしらね」

 ああ、やはりおかしい。今日の九条はどうにもおかしい。やたらとこちらの内情を知っている気がしてならない。見覚えのある休息態勢で佇みながら、凛とした瞳で俺を射抜いている。

 それは久しからず、どこかで感じた感覚だった。だからだろうか。一度認知してしまったら、逃れようもなく、彼女は別の彼女に重なった。

「…………もしかして、お前……」

 九条は黙ったまま、視線だけで、何かを訴えかけてくる。

 俺はゆっくりと、言葉を紡いだ。

「……ミュー、なのか?」

 答えはすぐに返ってきた。

「やっと気づいた? 随分と時間がかかったわね。今日、私の方は、初めからそのつもりであなたに会いにきたんだけど。名前は何だったかしらね。リフィア先輩の弟くん」

 自分で聞いておきながら、そして予想通りの回答が返ってきたにも関わらず、俺は驚く他になかった。

 九条が、ミュー? そのつもりで会いにきた? 本気で言っているのか。

 必死に動揺を隠そうとするが、しかしどうしても、いくらか表情に表れざるを得ない。

 確かに今思えば、両者はとてもよく似ている。背格好や口調もそっくりだし、雰囲気も近い。冷静に考えれば、ミューと九条が同一人物であるという事実を肯定する要素は数多あれど、否定する要素は一切ないように思えた。

 そしてこれは、逆もまた然り。何かをきっかけとして、彼女には俺とレイがよく重なって見えたのかもしれない。彼女は頭が良い。俺が今になって気づいた事柄に、もっと早く気づいていた可能性は、十分にある。

 ……いつからだ? もしかして、最初から?

「私があなたを特定したのは、レイとしてのあなたが、権限を使ってこの場所を守りたいと言ったときからよ。まあ偉そうに言ったけれど、ほんの数日前ってことね。ともあれ私はもともと、椎名馨が同じ願いを抱いていることを知っていた。そんなことを願うのは、全校生徒を探してもあなたくらいのものよ。だから、レイの正体が椎名馨であることがわかったし、同時に椎名馨がリフィア先輩の弟であることもわかった。そしてついでに、リフィア先輩という人物が、あの椎名優璃であることもわかったわ」

 俺が固まったままで思考を巡らせていると、九条はこちらの内心の疑問にすらすらと答えた。まるで心を読み取ったかのようだった。

「…………」

 何か話そうとするのだが、如何せん頭がついてこない。何と開口したらいいのかわからない。

 俺がゲームの参加者であることが知られている。そして姉である優璃も同様であったことを、九条は推察した。

 あれ、正体って、ばれちゃいけないルールじゃなかったっけ。そして実はミューだとわかった彼女に対して、俺はどう振る舞えばいいのだろう。

 ぐるぐるしていた頭が、混乱で余計にぐるぐるしてきた。

 辺りには沈黙が落ちる。ただでさえ静かなこの場所が、さらに閑寂を上塗りしたように静まり返り、夕刻が近づいていっそう冷えた風だけが吹き付ける。秋に染まりかけた銀杏の葉が、鈴のような音を立てた。

 そうして俺が黙っていると、彼女は一言、吹く風と同じくらい唐突に言った。

「協力、してあげるわよ」

 単調に響く声音の意味が、すぐにはわからなかった。

「…………協力?」

 やっとのことで捻り出した言葉は、情けなくもオウム返しだ。久しぶりに口が仕事をした気がする。しかし頭はまだ仕事をしない。

「そう、協力。あなたの願いを叶えるための、その協力。仲良しごっこが好きなアリア先輩率いる南校は、チーム全員が同意しないことをやろうとはしないわ。だから西校との決勝も、誰か一人でも首を横に振ったならば、真剣に勝ちを狙って戦うことはない。でも今回、アリア先輩本人は乗り気よね。もちろん、ソラとルナも言わずもがな。私さえ賛成すると言えば、南校はあなたのための戦いに本気になるでしょう。まあ、なったところで戦力なんて知れたものだけれど」

「ど、どうして……どうして協力しようと思う……?」

 以前、アリア先輩が言っていた。ミューは風紀委員か何かでもやっているのかもしれないと。だが、違った。ミューは生徒会副会長だ。冷めた性格で妙に正義感ばかり強い、九条羽望だったというわけだ。九条は、ミューは、個人的な願いのため優勝権限を行使することに反対である。

 その彼女が、どうして俺のわがままで勝手な願いに協力すると進んで言うのか、疑問でないはずがなかった。

「いえ、協力と言うよりは、邪魔をしないって感じかしらね。別に、私がいれば西校に対する勝率が大きく上がるわけでもないし」

「答えになってない。なら俺は、どうして邪魔をしないのかと聞き直すだけになる」

 九条に俺を止める理由はあれど、後押しする理由などないはずだった。

 俺の質問に対し、彼女は壁にもたれるのをやめ、スッと直立して答えた。

「私……あなたに興味があるのよ」

 …………は?

 さらりとと述べられた九条の言葉は、非常に突飛なものだった。俺はその、意外性溢れる発言に面食らう。

 彼女は続けた。

「私はね、あなたと直接話す前から、あなたのことを知っていたの。もちろんあなたのお姉さんが有名だからってのもあったけれど、でもそれはまた、別の話。私はあなたと知り合うもっと前から、そこに座るあなたを見たことがあった」

 彼女は淡々と語る。俺を見て。それ以外、目立った動きは一切ない。呼吸や瞬きまで、やめてしまったのかと疑うほどだ。

 そんな風に見つめられ、俺は自然と顔を逸らしてしまう。

「見たことがあったって……ああ、あの渡り廊下からか」

「そう。私はよくあそこを通るもの」

 ごまかすつもりで俺がその渡り廊下の方を眺めると、彼女も同調するように首を捻った。二つの視線が校舎の隙間を縫いつつ重なる。

「それでね、見たのよ。広場の樹の下に座るあなたを。樹の下に座って景色を見ながら、とても満足そうな表情をしているあなたを」

 見られていたらしい。いつの間に、見られていたんだろう。きっともう、ずっと前のことなのだろう。俺には、いつのことだかわからない。

「それは……いいけどさ。興味ってのが、いまいち意味がわからない。ただ、見ただけなんだろう?」

 他人を遠くから一瞥しただけ。普通、そんなんで興味なんてわくのだろうか。しかも俺は、ここではいつも、ただ座っているだけだ。対して九条は、大多数の人間が興味を持つであろう珍しいことにも、しれっと無関心を貫きそうな性格をしているのに、本当にそんなことがあるのだろうか。

 悪いがとても信じられない。裏があるのかとでも邪推してしまう。

「ええ、見ただけよ」

 だが、彼女は即座に肯定した。いつも通り口調は平坦だが、声はとても澄み切っていた。聞けば、それが嘘ではないことが感じ取れる。珍しくも口数多く語る彼女は、そういう空気を作り出していた。

「信じられないかもしれないけど、でも……見ただけで十分だったのよ。だって……そこに座るときのあなたは、その表情は、明らかに私の知らない感情を湛えていたのだもの」

「知らない、感情……?」

「とても晴れやかだった。満たされていた。嬉しそうだった。あなたは自覚なんてしていなかったのかもしれないけれど、少なくとも私にはそう見えた。私が生まれてから今に至るまで、一度も感じたことのない無垢な幸福を、享受しているように見えたの」

 いつの間にか、九条は視線を戻し、また俺を正視していた。

「端的に言えば、私は羨ましかったのかもしれない。憧れたのかもしれない。きっと私は、ただ知りたかったの。興味というのは、そういうことよ」

「興味……でも、だからって、それと俺への協力と、関係があるのか?」

「以前話したときに、あなた言っていたじゃない。この場所が大切なんだって。あれを聞いて、私は思ったの。私の知らない感情の正体……それは大切っていう感情なのかなって。なくしたくない。守りたい。傍にありたい。そんな想いなのかなって」

 以前、俺は確かに九条にそう言った。あの渡り廊下で、彼女にそんな想いを話した。改めて言われると、ちょっと恥ずかしいことを言ったかな、なんて思うけれど、でも紛れもなく本心だ。

 けれど、あのとき彼女は、俺の言葉を否定したはずだった。よく覚えている。

「待てよ、九条。お前はあのとき、そんなものは鬱陶しい、お荷物だって言ったんだぞ」

 そんな彼女の返答は、俺を恐怖すらさせたのだ。

「ええ、確かにそう言ったわ。今も、そういう想いが、私の中にはちゃんと存在している。憧れたのはたぶん本当だけれど……実のところ、よくわからないの」

 淡々と語るのは相変わらずだ。だがここにきて俺は、自分を見つめる九条の瞳に、わずかな揺らぎを見た気がした。

 彼女はその瞳に、俺をしかと映し、続ける。

「だから、私は今夜の勝負で、それを判断することにしたわ。どうしても諦めきれない大切なもののために、本気で戦うあなたを見て、その感情が本物かどうか、価値あるものなのかどうか、判断することにした」

「それで、俺に協力をするってことか」

「そういうことね」

 つまり、九条は俺を試すつもりなのだ。俺のわがままが、願いが、信念が……価値あるものならばこの場所は残るだろうと、彼女は言うのだ。

 彼女の提案を聞いて、俺は率直に嬉しいと思った。まさか、向こうの方からそんなことを言ってくるだなんて、夢にも思っていなかったから。だから、自然と顔が綻んだ。

「願ってもないことだな。俺のわがままを大目に見てくれるなんて、嬉しいよ」

「驚いたわ。露骨に試されておいて、怒るどころか、まさか素直に喜ぶなんて。意外ね」

「そりゃ喜ぶさ。九条が協力してくれるって言うんだからな」

 すると彼女の表情には、俺の破顔につられたようにして、一瞬だけ感情が現れた。

「あなたは正直ね。自分の心に正直で、やっぱり羨ましいわ。なんて……自由な生き方なのかしら」

 九条は少しだけ目を伏せる。長いまつげが揺れる瞳を隠す。その姿には少しだけ、寂しげな印象を受けた。

「自由?」

「そう、自由。私はそういうの、苦手だもの」

 俺は、彼女にもらった評価の意味がよく分からずに首を傾げた。問い返して良いものかどうか迷ったが、彼女の唇も、同じく迷うように動いていることに気づく。結局、俺は何も尋ねずに彼女を見ているだけだった。

 やがて彼女は、はっとしたように唇を強く噤み直し、機敏に回れ右をする。長い黒髪が、風で淑やかな波を描いた。深い呼吸を一つ置き、ゆっくりと足を前に踏み出す。

 話は終わったのだろうか。

「……ねえ」

 けれども、数歩だけ歩いてから、九条は立ち止まって再び俺を呼んだ。こちらを振り向かずに、背を向けたままで。

「前に私、こんなことも、言ったじゃない? あなたと私は、きっとそのうち出会っていたって」

 内容は違うが、それもまた、以前やり取りした件に該当するものだった。

「……ん? あ、ああ。俺が授業サボるからって、言ってたやつな」

 九条の表情は見えない。

「それもあるんだけどね……けれど、本当のことを言うと、仮にあなたがサボり魔じゃなくても、私はいつかあなたに声をかけるつもりだったのよ。もちろん、私たちの間に共通の友人がいなくてもね」

 共通の友人とは、隆弥や朝比奈さんのことだろうか。思えば俺と九条が初めて言葉を交わしたのは、あの二人を含めて四人で会話をしたときだった。そういう記憶がある。

「あのさ、九条。俺は回りくどいのが苦手だよ。何が言いたい?」

「……私とあなたは、やっぱり出会う運命だったわ。百パーセントね」

 単調な声音が、それにはとても似つかわしくないような、大それたことを伝えてきた。運命とは、また随分と仰々しい。まさか九条が、そんなものを夢見るロマンチストには見えないが。

「それは、わかんないだろ。百パーセントは言い過ぎだ。それにだいいち、そういう話は過去の事柄に対してする話じゃない」

 俺ははっきりと、否定を返した。

「まあ、かもね。まともなこと言うじゃない」

 否定は難なく、背を向けたままの彼女に受け入れられる。すると彼女はさらに、次なる質問を投げかけてきた。

「じゃあ、未来についにはどう?」

 同時に今度は横を向き、視線だけを俺に合わせた。もう、その瞳は揺らいではいなかった。

「未来?」

 過去の次は未来か。九条にしては、妙に実益のない話に興じているように思える。

「常に未来は確率で定義される。先のことを考えるとき、ものをいうのは確率なのよ。未来のこと……たとえばそう、あなたがこの場所を守れるかどうか、とかね」

 そこまで言われると、ようやく俺は、彼女がどんなことを言おうとしているのか分かってきた。去り際に、わざわざ長い前置きまでして会話を先導し、いったい何を言おうとしているのか、ということが。

「……意地悪だよなあ、お前」

 そう返す他にない。

 対して九条は「そうね、本当に」なんて答えながら、軽く頷いて見せる。

 彼女は他でもない、今夜の勝負の話をしようとしているのだ。今夜の西校との戦いが、どんなものなのか。そんな話だ。続く言葉は、簡単に想像がついた。

「高くはないわよ。冷静に考えて、私たちの勝率は極めて低い」

 んなこと俺だってわかっている。言われなくてもわかっているさ。でもだからこそ、今の彼女の対して、どうしても肯定は述べたくなかった。あえて明るく、あっけらかんとして振る舞うことに努める。

 そうするのはたぶん、現実への些細な抵抗だった。

「でも、協力してくれるんだろ?」

「言ったじゃない。私の参加が及ぼす影響なんてほとんどないわ。私が参加したって、南校が勝つ可能性は、低いまま。そうね……良くて五パーセントってところよ」

「いやいや、どんな分析だって。つーかさ、まさに今から戦うってのに、普通そういうこと言います? 性格悪くないすか?」

「ええ、悪いけど。それが何か?」

 うわ……開き直ったよこの人。俺が頑張って身振り手振りを織り交ぜつつ、嫌味に受け取らないよう振舞っているのに。何それ、あてつけ? 嫌がらせか?

 そりゃあもちろん、九条の言うことは事実である。だけれども、これにはさすがに、唇も尖るというものだ。

「お前な」

 しかし、俺が文句を言おうとしたそのとき、九条はまた目を逸らした。「……あっ」と何かに気づいたような溜息をついて、急に斜め下に瞳を向けた。

「えっと、違うわ……ごめんなさい。その……嫌がらせで言ってるんじゃ、ないのよ」

 曲げた人差し指の甲を唇に当て、少々語尾をすぼめるように言う。

「嫌がらせ以外に、何があんだよ。こういうときは、励ますもんだろう? 普通」

「だから、嫌がらせじゃないってば。まあ、私の性格は悪いけど、でも違うの。可能性が低いからこそ……私にとっては意味があるって、思うのよ」

 そんな九条は、平素クールではきはきとした彼女にはあまり重ならない、恥ずかしがっているような、バツが悪いような様子で下を向いていた。前髪で表情が少し隠れるが、もどかしそうに言葉を選んでいるのが分かった。

 それから少しして、彼女はゆっくりと話し始めた。慎重に言葉を紡いでゆく。

「私だったら、とてもそんな低い可能性に縋ろうなんて思えない。可能性の壁を覆せない。でも、あなたは違うのよね。この場所を、守ると言う。なんだかその言葉には、力を感じるわ。あなたの想いが本当なら、確率を通り越してでも、数奇な未来を引き寄せるんじゃないかって……そう思ったから、今日私は、ここへきたの」

 俯き気味の彼女を、広場に差し込む太陽の光が照らす。彼女の頬は少し赤かった。

 俺が何も答えないでいると、彼女は静寂に耐えきれなくなったようで、また口を開く。いつもの落ち着いた口調と比べると、珍しいくらい早口に。

「そ、それだけ言っておこうと思って……。ほら、あなたの言う通り、励ましてるでしょ。激励よ、激励! 上手く言えないけど……一応、応援してるつもりよ」

 どうやら、恥ずかしがっているみたいだ。それが彼女の赤面の理由だった。毒舌副会長ももしかすると、そういうところは女の子らしいのかもしれなかった。可愛らしいところもあるらしい。

「……はは。あっはは。そっかそっか」

 ただ、そうとわかったら俺は自然と笑えた。なんだ、案外性格だって悪くないじゃないか。

「……も、もう行くわ。決勝は、十九時からよ!」

 俺が笑っていると、九条は早々とまた背を向けた。さっさと歩き出してしまって、今度こそ、ここから立ち去るみたいだ。

 だから俺は、最後に一言、彼女に向けて言葉を選んだ。彼女がそうしたように、俺も慎重に、そしてゆっくりと、素直な言葉を紡いで届けた。

「なあ九条、ありがとう。頑張って守るよ。だからさ、今度九条がこの場所にきたら、そのときは俺が前に言ったように、ここに座って広場の景色を見てみろよ。この樹の根元、広場の中心に座ってさ。そうしたらきっと驚くよ。九条の知りたいことも、わかるかもしれない」

 九条は立ち止まらずに、右手をひらりと舞わせて返事をした。了承なのか拒否なのか、俺は都合の良いように受け取る。

 そして俺が空を見やると、彼女の紅潮に誘われたように、差し込む光は夕焼けに移り変わろうとしていた。宵を過ぎて夜を迎えるまで、あともう少しという合図だ。

 もう少しで、決戦の時がくる。この場所の運命を決める決戦。全てはそこで決まるのだ。

 去ってゆく彼女の足音が、俺の耳に届く。ゆっくり土地を踏みしめていくその音が、俺の中では自ずと、戦いへのカウントダウンと重なっていた。


     2


 同日、午後十八時四十九分。

 俺は注意深く時間を確認しながら、遅れないように再び学校までやってきた。

 夕方に帰宅してから家で少し休んできたのだが、その際に例のアプリケーションにはメールが届いていて、色々と指示が書かれていた。

 決勝戦の開催場所は南校であること。開始時刻は通常通り十九時で、直前の十五分間にサインインをすること。サインインをしたら、開始までは美術室にて待機すること。

 いつもはこんな連絡は入ってこないのに、何だろうか。やはり決勝戦だからか? だとしてもどうして美術室。

 よくわからないこともあったが、ただそれはさておき、開催場所が南校だというのは嬉しい偶然だった。ホログラムの装飾が加わるとはいえ、ホームステージであることには変わりないので、地の利が活かせると思われる。戦いの運気が良好である証と受け取っておこう。

 校門の前にたどり着いた俺は、一呼吸置いてから校内に足を踏み入れた。

 瞬間、ひらひらした赤の装飾服に包まれて、夜の世界の俺になる。そういえば一部改変はしたものの、この優璃好みのゴシック人形のような服装は、そのうちちゃんと設定し直しておかなくてはいけないな。まったく、あんな性格で似合わない趣味しやがって。寓話のヒロインのような、可愛らしい夜の自分でも目指していたのだろうか。

 俺はそんなことを考えながら、昼間とは違い下駄箱を素通りして、そのまま館内に入り、美術室の方へと向かった。土足入館みたいで最初のうちは変な気分だったが、もうだいたい慣れたものだ。周りの光景はまだ通常通りの薄暗い夜の学校だが、既にホログラムによる装飾は施されているはずである。ここでは砂や埃さえも、架空のもの。土足なんて関係ない。夜の世界での痕跡は、一切昼の世界には残らないのだ。

 俺は廊下を歩いて階段を上っていると、その吹き抜けの空間を伝って、上方の踊り場に気配を感じた。

「こんばんは。ちゃんと遅れずにきたわね」

 首を上げると、窓から差すリボンのような月明かりに照らされて、見慣れた独特の休息態勢をとる女性の姿があった。その口から発せられるのは、今となっては聞き慣れた声だ。

「く……じゃない。ミューか」

「そうそう。間違えないで、ちゃんとその名前で呼びなさいよ。昼間の私と、今の私は別人なんだから」

「あ、ああ……わかってるけど……。でもなあ、知っちゃうとかーなりインパクトあるんだよなあ」

 彼女も今は、この世界であるべき姿になっているため、目元は隠され、装飾服を纏っている。ついこの間まで俺がここで会っていたミューと、何ら変わりはない。

 でも、もう俺は、彼女が九条羽望だと知っている。透けるはずのないグラスの向こうに、俺を見下ろす九条の双眼が透けている。思いの外、複雑な気分だった。

「そう? 私は別に、そうでもないけど」

「さいですか」

 俺はゆっくりと踊り場まで上り切り、彼女と同じ目線に立った。

「本当は、ばれたらまずいんだっけ?」

「前はそういう時もあったみたいだけど、今ではそんなに。アリア先輩が、秘密の方が面白いとか言っている程度よ」

「……さいですか」

 要はどうでもいいってことか。必然的にそんな解釈に落ち着き、俺は嘆息した。

 しかしミューは壁から背を離し、歩き出して言う。

「でも、ルールだからね。ちゃんと守るのよ。いいわね」

 はあ、ルールねえ。まったくもって、律儀な性格だ。彼女のあとに続いて歩き始めつつ、俺は頭に感想を浮かべる。

 そして二人で縦に並び、絶妙な間隔を空けながら進んでいく。近すぎず遠すぎず、互いに戸惑わないくらいの、過不足のない距離だ。

 周囲には、自分とミューの足音以外に耳をつくものはない。同じ速さで歩いていると、ミューの方が俺よりもわずかに多い歩数を刻んでいることに意識が向いた。

 ふと、俺はまた、口を開く。

「なあ、ところでさ。アリア先輩の正体、お前は知っているのか?」

「どうしたのよ。突然」

 ミューは前を向いたまま答える。

「いや、東校戦のとき、あんな風に俺を助けたから……何者かと思って」

「昼間の先輩のことなら、私は知らないわ。あの人がとても強いのは知っていたけれど、それは一年生のとき、あなたのお姉さんたちに鍛えてもらったからだって言っていたわ」

「ああ……なるほど」

 優璃と愉快な仲間たち直伝か。それを聞いて納得した。最強を誇っていた時代の強さを、アリア先輩はたった一人、継承しているということだったのだ。

 無言でミューと歩いていると、数分で美術室に到着した。

 入り口の扉を堂々と開け、ためらいもせずに彼女が中へ入ると、ぱらぱらと知った声での挨拶が聞こえる。アリア先輩たちは、もういるみたいだった。

 少し遅れて、俺も入り口をくぐる。

「あっ! 先輩! こんばんはーです!」

 すると、真っ先に反応したソラが飛びついてくるのが見えた。

 俺はそれを、スッと横にずれてかわす。

「あーらら」

 ソラは床に突っ込みそうになったが、体勢を立て直しながらヘラっと笑っていた。

 対してルナの方は、大人しく控えめに頭を下げる。「こんばんは、先輩」と言って、ペコリ。

 俺は二人分まとめて「おす」と返した。

 ミューのやつは、既に手頃なポジションをみつけて壁にもたれている。

 そんな中、部屋の奥の方で机に座っていたアリア先輩の顔が、俺へと振り向いた。

「やあレイ。ミュウミュウと、一緒だったのかい?」

「ええ、まあ。くるときに廊下でばったり会って」

 本当はミューに待ち伏せされていた気がしたけれど、そういうことにしておいた。

「じゃあ始まる前に、約束通り君の演説を聞こうかな。時間がないから手短に、でもしっかりとミュウミュウの心を動かすような、力のこもったものを期待するよ」

 先輩は机からバッと飛び降りつつ、口元をニッと釣り上げて笑った。

 そういやそんな話もあったな、と俺は思い出す。どうしよう、何も考えてない。でも、よく考えたら、もうこれってやらなくていいんじゃ……。

 俺が戸惑っていると、横から短い発言があった。

「必要ないですよ」

 ですよね。

 まるで俺の心の疑問に答えたかのような、ミューの言葉。俺はそれに、内心で同意した。

「演説はいりません。私も、彼に協力することにしましたから」

 アリア先輩が「ん?」とミューに視線を向ける。

「おや、なんと。こりゃあまた意外な話だねえ。だってミュウミュウは、今回の戦いには反対だったはずじゃないのかい?」

「さっきここへくるまでに、ちょっと彼と話したんですよ。仕方ないから、協力することにしました。アリア先輩も、その方が嬉しいのでしょう」

「へえ……。へええ~」

 するとアリア先輩は、感心したようにへえへえ言いながら、ミューの方へと寄っていった。そして顔を逸らすミューの正面にわざと何度も回り込んで、下方から鼻と鼻が触れるくらいにまで近づく。

「ミュウミュウったら、どうしちゃったの? いつもあんなに頑固なミュウミュウがさ。もしレイの演説で駄目だったら、私が頼み倒そうかなって考えてたくらいなのに~」

 声があからさまにニヤニヤしている。ミューはすっごく迷惑そうに離れようとしているが、アリア先輩が追いかけるので、さらに嫌そうにしている。

「み、ミュウミュウって呼ばないでください……」

「んっふふ~。なーにさミュウミュウ、今回はやけに素直だねえ。何かいいことでもあったの~?」

「な、なんにもないですよ。ちょっと……アリア先輩。あんまり顔、近づけないで……。抱きつくのもやめてください。あとミュウミュウって呼ばないでくださ……きゃっ!」

 ついにミューは定位置を放棄して逃げようとしたが、もたれかかっていた壁の支えをなくしてふらつく。そこにアリア先輩は構わず抱きついていたものだから、二人で一緒になって床に倒れ込んだ。ミューが下、アリア先輩が上。アリア先輩に退こうとする気配はなく、倒れてもずっとミューにひっついている。

 面白そうだと、横から一緒に倒れ込もうとしていたソラは、傍のルナにやんわり止められていた。

「ちょっともう! アリア先輩! 離れてください!」

 ミューがむきになって、アリア先輩の顔をひっぺがそうとしている。

 アリア先輩は頬を押されてのけぞったまま、俺の方へ向き直って嬉しそうに告げた。

「やったよレイ! これで晴れて、南校五人で決勝だよ! 頑張ろうね!」

 俺は、苦笑いを向けるばかりだった。

 おいおい……始まるまであと五分もないのに。んなことやってる場合かよ。

 そう思ったけれども、目の前のじゃれ合いは、ミューがいよいよ怒って先輩に蹴りを入れるに至るまで続いた。あのミューには似つかわしくないほど感情を露わにした蹴りだったが、アリア先輩は避けもせずにそれを受けつつヘラヘラしていた。響く音を聞く限り、とても痛そうな蹴りだったが、どうなんだろうか。

 そうしてひとしきり満足したらしいアリア先輩が、机の上に仁王立ちで腕を組みながら宣言する。

「さてっ! 始まるまでの残りの時間は、作戦会議かな!」

 ちらりとミューの方を見ると、既にいつもと変わらない様子だが、それとなくアリア先輩から一番離れた位置取りをしているのがわかった。

「いえーい! 作戦会議ー!」

 ソラが無駄に囃し立てる。

「このメンバーでの決勝戦は初めてだね。記念すべき初優勝を狙うわけだ。それでまずルールの確認だけど、決勝ではどちらのチームにもフラッグが用意される。各々が陣地にあるフラッグを守りながら戦うんだ。今までみたいに、片方が守って片方が攻めるのとは違う。対して、目的は今までと同じく、相手チームのフラッグを奪取することだ。いいね」

 アリア先輩は、つらつらとルールを語り始めた。

 どうやら決勝は、予選とルールが違うみたいだ。守りつつ攻めることが前提。チームとしては、最低でもそれなりの頭数が必要になるだろう。

 しかし繰り返すが、南校は五人だ。その五人が、最低限の頭数を満たしているかと言えば、不安は消えない。

「私たちの陣地はここ、美術室だ。敵陣の方も既に決まっていて、私たちみたいに待機していることだろう。互いに陣地の場所は知らされない。そこで大事なのは、いち早く敵陣の正確な位置をつかむこと。自陣の位置を敵に知られないこと。この二つだ。敵のフラッグをいつでも狙えて、でも自陣に戻れば安全地帯。そんな展開にもっていくことができれば、これ以上の理想はないよ」

 アリア先輩は、予選とルールの違う決勝の立ち回りについても詳しい様子だった。二年前、優璃やその仲間と一緒によく決勝へ出ていたからだろう。

「というわけで、我々のチームは人少なだが、でも最低二組には分かれなければならないね。敵陣を探る偵察組と、自陣を守る防衛組に」

 俺とソラとルナとミュー。それぞれに目配せをして、先輩は言った。

「はーい! 分かれるなら、三人と二人だと思いまーす。一人で動くのは危険だし」

「うんうん。単独行動はリスクが大きすぎるから、やめた方がいい。その通りだね」

 先輩が分かりやすく俺の方を見ながら、ソラの提案に賛成する。

 嫌味かちくしょう。そう思ったが、からかわれても反論はできない。そそくさと話の流れに乗るのみだ。

「そ、その通りですよね。じ、じゃあ、まずはとりあえず、偵察と防衛の分け方を決めませんか」

「そうだねえ。うん、そうしようか~」

 俺が誤魔化すのを見て、アリア先輩はまだニヤニヤしている。ミューをからかったあとは俺か……。今日は随分と機嫌がよろしそうで何より。

「ま、偵察組に二人、防衛組に三人だね。二人の方がはぐれにくいし、出来るだけ慎重に動いて、戦闘は避ける方針で。防衛組の方は、敵がたまたまここへきた場合にそいつを必ずしとめなきゃならないから三人……って感じかな」

「はいはーい! 私! 私、偵察組! やりたいでっす! はりきって敵、探すよー!」

 人数の分け方がアリア先輩から提案されると、すかさずソラが元気良く立候補をした。

「ソラか。うんまあ、ソラはじっとしてるの苦手だしねー。そう言うと思ってたけど」

「いいと思いますよ。あと、俺も偵察組にします。俺も今はじっとしてられないから、できるだけ動きたいんで」

「ほう、そうなのかい」

「防衛組、任せていいですか」

「おー、いいよいいよー。なんだ、すんなり決まっちゃったね」

 ルナとミューは黙っていたが、こちらの話は聞いていたようだ。異議がないのは、了承ということだろう。

 結論、俺とソラが偵察組。残りのアリア先輩、ルナ、ミューが防衛組だ。

 わずか五人の作戦会議はすぐに完了する。ものの五分もかからなかった。実際のところは運も絡むし、あとはゲームが始まってからの状況次第だろう。

 そうしてゲーム開始が目前となると、アリア先輩とソラはそわそわして、カウントダウンなんかをし始めた。

「アリア先輩! もうすぐ十九時ですよ! 十九時!」

「いよいよだなー! わくわくするなー! お、ソラ! あと十秒だぞ!」

「はーい! いきますよー! 九!」

「八!」

「七!」

「六!」

 ぴょんぴょん跳ねながら、二人は交互に大声で数える。ごー! よーん! と言って戯れる。

「さーん!」

 ていうか、こんなにうるさくして、敵にはばれないのだろうか。開始前とはいえ、流石に少し不安になる。

「にー!」

 無邪気なカウントダウンが、段々とゲームの開始まで迫る。直前までくると俺もつられてそわそわし、心臓の鼓動が早くなった。

「いーち!」

 いよいよだ。いよいよ始まる。大切なものを、あの場所を守る戦いが始まる。一瞬たりとも気は抜かない。勝ちにいくんだ。

「「ぜーろー!」」

 アリア先輩とソラが揃って手を振り上げる。俺が最後のカウントを聞いた直後、みるみるうちに世界が変わり出していくのがわかった。

 ゲーム開始の合図、ステージの展開だ。敷地の中心の方から、まるで波紋のような光が広がってきて、それが美術室の窓からコマ送りみたいによく見えた。

 二重三重の円波動が、見慣れた南校の風貌を、人工的でディジタルな光に包み込んでいく。夜を迎えて暗がりになっていた周りは一斉に輝き始め、画素を一つ一つ書き換えるかのように、ホログラムによって再構築されていく。

 そして異様に体感時間の長い数秒が過ぎ去ると、辺りは忽然と、真っ白い霧に包まれていた。

「……って、あれ? 見にくくなったけど」

「見にくくっていうか、見えませんけど。真っ白で」

 はしゃいでいた二人から、妙に冷静なコメントが聞こえる。カウントダウンを終えて、途端に素に戻ったようだ。俺は二人から少し離れたところに立っていたせいか、白くぼやけた影だけが見えた。

 うーん……ソラの言う通り、これは白い。真っ白だ。その原因が相当な濃霧であることはすぐに分かった。視界が数メートル程度しかない。

 もちろんステージが展開された影響だろう。近場にあった柱や机を確認すると、まるで朽木を固めて作ったような、古びて廃れた風貌になっていた。

「いい趣味してるわね」

 背後から足音と共に、そんなことを言われる。視界が悪くなったからだろう、ミューが部屋の隅から傍へと寄ってきたのだ。

「こりゃ、ゴーストタウンみたいだな」

「みたいっていうか、そのものよね。決勝戦のステージがゴーストタウンなんて」

「やな趣味だろ。不気味だし」

「超怖いわね」

 超棒読みで怖いとか言われても困る。お化けも立ち去る超冷めた感想を言いながら、ミューはアリア先輩とソラのいる部屋の中心へ進んだ。

「チーム諸君ー。見にくいから、もっと近くへー集合ー!」

 俺も続いて、号令口調のアリア先輩の周りに集まる。

 すると、そこにはいつの間にかフラッグが出現していた。予選のときよりもさらに一回り大きいもので、俺たちの背丈の倍近くある。よく見ると、布の部分には南校のマーク刻まれていた。

 先輩はその巨大なフラッグに寄りかかり、軽快に告げる。

「んじゃま、すっごい見にくいけど、とりあえず予定通りにいこっか。こいつが私たちのフラッグ。大事な大事なフラッグだ。私たちはこいつを守るから、レイとソラは偵察よろしく。敵から隠れながら動くなら、逆にこの霧もメリットかもね。ああ、ソラの銃は使うと居場所がばれるから、ちょっと不都合かもだけど」

「いえいえ、そんなことありませんよ! 私は隠れて狙撃もできます! サイレントモードで使えば、敵にだって見つかりません!」

「お、そんなことできるのかい。高性能だねー」

 見ると、ソラはどこからともなく自慢の白い装飾銃を取り出し、シュビッと構えてポーズをしていた。今回も初めから武器を使用するようだ。

 どうでもいいが、見た目が真っ白なソラにとって、このステージは保護色になり過ぎている。被って見えない。反対に真っ黒なルナと比べると、歴然たる差があった。滅多に敵には見つからなさそうだが、下手をすると俺まではぐれそうだ……。

 それと、ソラの銃を目にして、俺は思い出したことがあった。これは実は、少し前から気になっていたことだった。

「ところでアリア先輩。その、武器についてなんですけど」

「ん?」

「あれって、みんな持ってるものなんですよね? 姉貴のやつは、何か使っていませんでしたか?」

 普段は、切り札としてなかなか使わないもの。それでもやはり、皆がそれぞれ所持しているもののはずだ。俺は前回のゲームで、助けてもらったときにアリア先輩の武器をたまたま見た。そういったものが優璃にもあったのではないかと考えたのだ。

 質問の答えは予想通りだった。

「あー……あるよ。うん、あるある。そっか。普通は色々設定しないといけないんだけど、君はリフィア先輩のアカウントをそのまんま継いでるから、すぐに使えるかもね。もしそれが使えれば、いい戦力になると思うよ」

「本当ですか! それ、どうやって使うかわかりますか? できれば偵察に出る前に」

「うんうん。ちょっと貸してみな」

 アリア先輩は快く頷くと、俺の端末を覗き込んでスラスラと操作の説明をしてくれた。

今まで見聞きした限り、個人専用の武器は、このゲームで多大な威力を発揮できる。それを特に如実に物語っているのは、紛れもないソラとルナだ。もし使うことができたなら、間違いなく様々な場面で、俺が優位に立ち回るための材料になる。本来は切り札だから、そう易々とは使えない。とは言うが、俺にとっては今日こそが全てなのだ。ここで使わずして、いつ使う。

 端末では操作が進む。アリア先輩の指示で、このゲームに関するアプリケーションのフォルダを次々と開けていくが、俺はほとんど見たことがないのでよくわからない。以前に服の設定をしたときにも似たような操作をしたものだが、しかし未だにちんぷんかんぷんだ。ただただ内心のはやる想いを必死に抑えている。

「あれ、これパスワードかかってるじゃないか」

 だが、先輩の口からまず飛び出た言葉は、予想だにしないものだった。

「……は?」

 思わず素っ頓狂な声が上がる。確かに、画面は何かの入力を要求してきている。

「これ、アカウント引き継ぎのときにかけるパスワードだね。リフィア先輩がかけたやつだ」

 パスワードって……アカウントを受け継いだあと、要所で必要になるという、あのパスワード?

「パ……いや、そんなはずないですよ。フォルダ操作に必要なパスワードは、前に解除したはず……」

「でも現にかかってるんだよ。フォルダの操作はできるけど、武器の起動にだけ、また別でかかってるみたいだ。これは私じゃ、どうにもならない」

 優璃がかけたパスワードは、最初のうちに解除したはずだ。ちゃんと三つ解除をした。候補だったパスワードは、全部打ち込んだはずだ。

「……あれ?」

「あれって……リフィア先輩から聞いてないのかい? それとも、忘れたとか?」

「いや……そんなはずは……あれ?」

 ……あれ? 四つ目のパスワードなんて、聞いてないぞ。いや、それを言うのならそもそも、パスワードそのものを聞いたわけじゃないけど……。

 でも間違いなく優璃は、自分のこよなく愛するものをパスワードに設定していた。お気に入りの曲。ぬいぐるみ。駅前のパフェ。その三つはどれも、あいつがかねてから譲らず最も好んでいるものたちだ。確かに優璃には他にも好きなものがたくさんあるけど、極めて好んでいたものはその三つだ。これは間違いない。四つ目なんて思い浮かばない。

「まあいいや。アカウントを受け継いでるんだし、パスワードを知らないってことはないはずだよ。でないと君がここにいられるはずがないからね」

「知らないはずない……ま、まあ、そうなんですけど……」

 俺は若干、混乱気味に反応する。

「とりあえず、起動の方法は分かったね。パスワードを入れたら武器が出てくるはずだから……あとは、偵察がてら思い出しなよ。あんまりもたもたしてると、敵に先越されるかもしれないし。ほら、ソラも待ちくたびれてるから」

 説明が終わると、先輩は美術室の入口の方へ向かって俺の背を押し、出撃を促した。

言われた通り待ちくたびれていたソラは、俺が押しやられるとすぐに飛びついてきて、腕をつかんで引っ張っていく。

「くれぐれもやられないように。それと、尾行もされないようにね。これ以上戦力差が広がったり、自陣がばれたりしたら、まず勝ち目はないと思うから。いいねー」

 まるで「気をつけていってらっしゃーい」の代わりと言わんばかりに、アリア先輩は手を振って告げる。美術室を出ていこうとする俺とソラに聞こえるように、大声で。敵に聞こえるんじゃないかと不安になるくらい、大声で。

 結局、俺は整理のつかない頭のままで、ソラと偵察に向かうことになった。

「さ、行きまっ! じゃなかった……いきますよ~」

 ソラは拳を突き上げて声を張ろうとしたが、慌てて自制をして、口に手を添えながら静かに気合を入れる。

「……っかしーなー」

 一方、俺は四つ目のパスワードを特定しようと、頭の中をふらふら放浪していた。

「先輩! 先輩もコソコソ声で喋ってくださいよ! 偵察の雰囲気壊れちゃうでしょ!」

「雰囲気って……気にするところはそこかよ」

「パスワードばかり気にするよりはいいです。勝つために必要なのは、お姉さんの武器じゃなくて、偵察任務の完遂ですよ!」

「ま、まあ……」

「大丈夫ですって! 私が大活躍して、先輩のお願いを叶えてあげますから!」

「なんとも頼もしい気合だな」

「だってだって、アリア先輩がみんなで勝とうって言ったの、初めてなんですよ! 勝つためのゲームをするのは、初めてです。だから私、燃えてます! 先輩が気合入ってなさ過ぎなんです!」

 南校は今まで、全くと言っていいほど優勝争いから外れていた。リーダーであるアリア先輩が、戦いを避けていたから。そして、他の皆も概ねその意向に沿うよう振舞っていたからだ。だから本気で勝ちを狙って戦うのは、ソラも初めてなのだ。

「何言ってんだ。俺も心の中では静かに燃えてるよ」

「本当ですかねえ」

 まあ、ソラの言うことも一理ある。敵陣位置の特定は必要不可欠だ。これができないことには絶対に勝てない。パスワードのことは、動きながら頭の隅で考えることにしよう。

「ああ、本当だよ。よし、気合入れていこう。偵察だ。ちゃんと雰囲気も出してな」

 俺はソラと同じくらいまで声量を落とす。

 するとソラは、顔の前で親指をグッと立て、口の端をニッと釣り上げて笑った。

 二人で静かに歩き出す。抜き足差し足。曲がり角では、壁に張り付いて先を確認しながら曲がる。完全に形から入るタイプ。しかし雰囲気を出すには一番手っ取り早い。

「まずは……どこから回るのがいいかな」

「そうですねえ。敵陣になってそうなところですかね」

「だからそれがどこかって話だろ」

「わかりませんよお。だから探すんですし」

 …………そりゃそうなんだが。

「……よし、じゃあいくつか目星をつけて、順番に回ろう。ある程度確認したら、それが全部ハズレでも、一度アリア先輩たちに報告しに行く。で、どうだ?」

「先輩頼もしー!」

 いや、お前も少しは頭使えよ。褒め言葉がミューみたいに棒読みじゃないだけマシだけどさ。

「敵は人数が多いし、広めのところから回ろう。南校で広いところだから……えっと、グラウンド、体育館、食堂とか」

「あとは講堂と、それからプールも広いですね」

「だな。とりあえずその五つを、近い順に回ろう。まずは……グラウンドとプールだ」

「了解です!」

 グラウンドとプールは隣接している。グラウンドを確認しつつ通り抜けて、そのままプールへと向かうことにした。

 俺とソラは野外へ出て、目的地の方へと歩く。もちろんここでも、抜き足差し足、壁伝いだ。霧のせいでほとんど視界がないから、敵の方も物音には気を使うだろう。できる限り静かに進む。

 ある程度スピードも意識しつつ、まずは通りすがりにグラウンドを一瞥。

 ……うん、ひとえに静寂を保っていた。正直なところ、外縁からでは白い霧しか見えないが、それでも人の気配がないことが如実にわかる。誰一人いない。こりゃあプールも同様かな。そう思いながら一応、更衣室等々まで入って確認したが、やはりハズレであった。

「ちぇ。なかなか簡単にはいかないですね」

 ソラがぼやく。

「そりゃ、そうだろ。この学校は広いからな。さ、次次」

「ですねえ。次は……食堂ですか?」

「そうだな。とりあえず食堂を見て……それもハズレだったら、講堂と体育館か。あとは道中でたまたま発見ってこともあるかもしれないし、目聡く注意しておきたいな」

 当然だが、今候補にしているところ以外にも、広めのスポットは数多くある。

「てゆーか思ったんですけど、調べようとしてる場所がもしアタリだったら、たどり着く前に雰囲気でわかりそうなものじゃないですか? そもそも敵の姿とか見そうですし……逆に近づいても静かなまんまだったら、もうだいたいハズレですし」

「ま、まあな……でも、だからって油断するなよ」

 はぁい、とソラは答えた。

 気を取り直して、俺たちは食堂へと向かう。全校生徒を一度に収容……はてんでできないが、それでもかなりの広さを誇る場所だ。

「……つまんないです」

 しかし期待とは裏腹に、たった一人の敵にすら会わず食堂へと到達してしまうと、ソラがテーブルの上でまたぼやいた。食堂もハズレだ。

「さて、次。次行くぞ~」

「せんぱぁい。もう飽きた」

「まだ三つ目だろうが」

「でもー。敵もいないんじゃ、何から隠れてるのかもわかんないですし」

 しつこいようだが、この学校は広い。三つやそこら調べたからって、そう簡単に敵陣はみつからない。そんなことは容易に想像がつく。

 地道に一つ一つ調べていくしかないのだ。少しずつ少しずつ、堅実に前へ進んでいくしかない。

 二時間という制限時間は長くはないが、まだ余裕はある。まだ、焦ってはいけない。

「ほら、だから油断すん……」

 俺が呆れてテーブル上のソラに言おうとすると、そこで突然、ソラが飛びかかってきた。

「――先輩伏せて!」

 俺とソラは、二人して床に貼り付くことになる。

 直後、複数ある出入り口のうち一つから、声が聞こえた。

「お~い、誰かいないかー……と。よし、食堂は違う、と」

「ちょっと、ちゃんと確認しなさいよ。よく見えないんだから」

「いや、ここまできて物音一つなかったらわかるだろ」

「でも食堂って広いんだからね」

 ゆっくりと顔を上げると、霧の中に人影だけが見えた。声はそれらから発せられている。

「そうですね。だいたいでいいので、一通り見ておきましょう」

 声は三種類。霧でよくは見えないが、間違いなく西校の連中だとわかった。彼らは敵の偵察隊の一組だろう。俺やソラと違ってほとんど隠密行動を意識していないのは、初めから優勢な西校側が目立っても、なんら問題はないからだろう。彼らは俺たちと違ってコソコソせず、南校の人間や陣地を見つけたら、とにかく目立って人を集めれば良いのだから。

 俺とソラは二人で重なって、食堂内を歩く敵を警戒しながら身を潜めた。

「やべーって。中に入ってきたぞ」

 互いに数センチのところまで顔が近づいており、ほとんど口パクのようにして話す。

「こうして伏せてじっとしてれば、何とかなりませんかね? 霧もあることですし」

「いや、わからんけど。でも、もし見つかったりしたらいっかんの終わりだ。ここで派手に戦うわけにはいかない」

「あ、やっぱ、戦うのはダメですかね?」

 そりゃそうだ。何の作戦もなしに戦っても、俺たちに勝機はない。足取りもばれて、敵陣探しどころではなくなる。やつらを振り切らない限り自陣にだって戻ることはできなくなるし、増援を呼ばれたりしたら、いよいよどうしようもなくなってしまう。

 俺は何度も首を横に振って「ダメ! 絶対!」の意思表示をした。

 するとソラは「やっぱりですか」と答える。そして次の瞬間、うつ伏せのままフッと右手を軽く振り、彼女の自慢の武器であるところの白い装飾銃を出現させた。

 ……って、おい!

「バ、バカヤロ! だから戦っちゃダメだって――」

 血迷ったのかと思い、俺はすぐにソラを止めようと慌てたが、一方のソラはそれを予期していたかのように落ち着いていた。左手でそっと俺を制してくる。

「わかってますよ先輩。ちゃんとわかってます。まあ、見ててください」

 固まる俺の横で、ソラは短く息を吸い込んで止め、右手の銃を正面に構えて狙いを定めた。片手で銃を持っていること以外は、スナイパーが遠くから標的を狙うような光景である。

 ぴったりと重なった身体を伝って、ソラの心音がわずかに大きく俺へと届く。直後、誰もいない空間に向かってトリガーが引かれた。

 コンマ数秒だけ遅れて、遠く校舎の外からキンッという衝撃音が返ってくる。発砲音はほとんど聞こえなかった。

「――!?」

 三人の敵が同時に、ビクッと反応を示すのがわかった。ついでに俺も似たような反応をした。

「……聞こえた?」

「ああ、確かに何か聞こえた。この辺りを偵察しているのは、俺たちだけのはずだが」

「じゃあ今のは……南校、ですかね?」

「外からだったな。行ってみよう」

 西校の三人は短く意見を交わし合い、やがて同意に達すると、揃ってすぐさま食堂を出ていった。なるほど、ソラの狙いはこういうことか。

 俺たちはその後、数秒ほどしてから静止を解いて、口を開いた。

「…………行っ……たか?」

「……はい。行きました」

「そうか。じゃあ……」

「追いかけますか!?」

「いや、とりあえず俺の上からどいてくれ」

「あ……すません」

 ソラは、ごそごそと匍匐前進ならぬ匍匐後進で退き、俺から離れた。そしてゆっくりと体勢を直して立ち上がる。ついでに右手の銃をくるっと一回転させて消し去った。

 俺も一息ついてから、身体を起こす。

「尾行するのはやめておこう。警戒中の敵を追うのは危険だ。それより、あいつらがきたのは体育館と講堂の方だった。ちょうど次に調べる場所だったし、そこへ向かう」

「ふむ、そうですか。りょーかーい」

 ソラは片手を挙げ、間延びした声で返事をした。

 一方で、俺の身体にはまだ震えが残っている。なんとかやり過ごせたが、正直、今のはかなりやばいと思った。早くも隠密行動の失敗を覚悟して、肝を冷やした。深呼吸をして、無理やり落ち着こうとするのにしばらくかかった。

 二人で食堂をあとにする。

 次の目的地は、体育館と講堂だ。この二つは野外の同じ区画にある。いっぺんに両方立ち寄れるが、現在地からより近いのは体育館の方なので、先にそちらへ向かうことにした。

 さきほどの経験から、よりいっそう抜き足差し足を注意深く行い、外に出てからは木々の陰に身を隠しながら進む。ソラのやつは、口では飽きたと言っていたが、ここでもノリノリでスパイの真似事に励んでいた。いや、別に真似ではないか。今の俺たちはスパイそのものだ。

 道中少しして、まったく物音を耳にしない状況が続くと、周囲のゴーストタウンっぷりを改めて認識する。霧のせいではぐれないようにとの意味も込めて、俺は極小の声でソラに尋ねた。

「なあ、ところでなんだが」

「はい?」

 ぴったり真後ろから、同じく極小ボイスで返答がくる。

「さっき食堂で、武器を取り出してたよな」

「取り出してましたけど、それが何か?」

「今更なんだけど、端末をいじって出し入れするわけじゃないんだよな。いきなり腕を振っただけで出たり消えたり、まるで魔法みたいだ」

 思い返せば、以前アリア先輩が大槍を使ったときも、ぶんっと得物を回すだけで消し去っていたものだ。

「あー、あれはですね。端末でショートカットコマンドを設定しておくんですよ。手を回すとか、指を鳴らすとか、そういう特定の動作を。すると次からはアプリケーションがその行動を読み取って、勝手に武器を出したり、しまったりしてくれるんです」

 へえ。要するに、決めポーズを作っておけば、武器の展開と収納が素早くできると。

「台詞とかでもいいんですよ。音声コマンドですね」

「そういう仕組みだったのか」

 考えてみれば当たり前か。わざわざ毎回のように端末のファイルから操作なんて、実際はやっていられない。敵の目の前でちまちま端末を操作してやっとこさ武器展開なんて、想像するまでもなくバカ丸出しである。皆、いざというときにすぐ取り出せるよう、そしてすぐに隠せるよう、事前に設定しておいているのだ。スタイリッシュかつ非常に便利。

「使い勝手のいい代物だな。かっこいいし。やっぱ、俺もそれほしいな」

 考えないようにしていたパスワードの件が、また頭に浮かんでくる。

「せ・ん・ぱ・い! またそれですかー。気が散ってますよー」

 しかしすぐに、ソラが顔をぬっと近づけて、注意をしてきた。はいはい、わかってるよ。任務優先、と。

 自分専用の武器があれば、確かに戦いやすくはなる。でも、目指すフラッグの場所がわからなければ話にならない。ああ、ちゃんとわかっている。

 俺は頭を振り、思考を切り替える努力をしながら、霧の中をせっせと進んだ。

 うっすらと体育館の外壁、それと周りのテラスが見える位置までやってくる。なお、ここまで敵との遭遇はない。またソラがぼやくのだろうと、俺は思った。

 けれども、ソラは隣で黙って何かを見つめていた。

「……どした?」

「……先輩、あれ」

 その様子に誘われて、俺も白くぼやけた正面の景色を凝視する。すると、テラスのところに何やら三つの影を発見した。

「あ、あれって……」

「西校の偵察隊ですかね!」

 食堂のときと同様、それ以外にあり得ないことはすぐわかった。

 敵はテラスを歩いており、やがて扉をくぐって館内に消えていく。

 俺たちはひとまず、近くの物陰に姿を隠した。

「追いかけますか!?」

 嬉々としてソラが言う。判断を俺に委ねてはいるが、語調では既に追いかけたいと言っているようなものだった。まあ、さきほどと違って尾行をするという選択肢は、大いにありだろう。向こうは俺たちの存在に気づいていないのだ。

「そうだな。よし、出てくるまで待とうか」

 体育館は俺たちの陣地ではないから、偵察隊もすぐにそれを悟り、戻ってくるだろう。出てきたら、俺たちはその後をつける。敵が陣地に戻るときまで、ばれないように。するとなんと、俺たちが探さなくても、自然と敵陣まで案内してもらえるというわけだ。なんと素晴らしいプラン。シンプルかつ確実。

 成功必至の作戦を思い浮かべ、俺は今か今かと体育館の入口を見つめていた。

 しかし予想に反して、なかなか待ち人たちは姿を現さない。

「……きませんよ?」

「ああ、こないな。何でだろう」

 体育館なんて、踏み入って一通り歩けば、すぐに確認は終わるはずだ。あそこはひらけた空間だし、いくら霧が濃いからといっても、数分あれば十分だろうに。いったいなぜ……。

「あ……もしかして」

 そのとき俺は思った。

 何もない体育館からは、敵はすぐに戻ってくるはずだ。では逆に、敵がすぐに戻ってこないならば……。もしかして、もしかすると……これはつまり、体育館には何かがあるということではないだろうか。ならば……いったい何がある?

「……ソラ、中を見に行こう」

「え? 今からですか?」

 そうだ。おそらく、そこには俺たちの目的とするものがあるのだ。そんな気がする。

「物音を立てるなよ。ゆっくりだぞ」

「え? え……え?」

 ソラは戸惑っていたが、俺が進み出すと、疑問符を浮かべつつもあとに続いてきた。

 テラスに忍び寄り、窓の傍で腰を屈め、桟の下からキノコのように頭だけを出して館内を見る。霧が視界を遮るが、目を凝らして何とか観察を試みる。

 するとそこには、俺の予想通り、大きな西校の校章が入った旗――俺たちの奪い取るべきフラッグが、堂々と広い空間の中心を占めて立てられていた。当然ながら、周囲にはテラスで見た偵察隊の三人と、防衛担当であろう五人の西校メンバーがいる。全部で八人だ。

「あ」

 隣では、ソラが口を開けたままにして驚いていた。ものすごく棚ぼたみたいな発見だから、まあ気持ちはわかる。けど声は出すなよ。敵に見つかるだろ。

 俺は呆れてソラをたしなめようとした。

 だが同時に、横を向いた俺の視線と、誰かのそれが交差した。さきほどまで誰もいなかったテラスの曲がり角の向こうに、ぼんやりと新しく影が現れたのだ。

 思わず、俺まで口から声が出てしまう。

「あ」

 また三人組だ。意外なことに割と容姿が判別でき、霧中でも男だけのグループだとわかった。距離が近いということだ。

 彼らの眼前で、体育館の窓下に張り付く俺たち。ソラも遅れて横を向き、その場の五人は数秒の沈黙の中で硬直し、見つめ合った。

 しかし、それも長くは続かない。俺の脳内で事態の処理が完了してくると、急速に身体が熱くなり、背筋に強い力が入った。

 相手の方もほぼ同じタイミングで現状を理解したらしく、三人のうち一人が大仰に俺たちを指差して叫び声を上げる。

「あーーーー!」

 瞬間、周囲の空気が張りつめた。

「やっべ」

 俺はほとんど反射的に、ソラの手をとって走り出す。

「おい! 南校のやつらがいたぞ!」

「フラッグ見張ってたやつらは何やってんだ! 中だけじゃなくてちゃんとテラスまで見てろよ!」

 背後では、沸騰したような勢いで西校の連中が騒ぎ出していた。もちろんだが、何人かは俺たちを追ってくるようだ。振り返ると人影の集団がもみくちゃになっている。

 さて、これって本格的にやばいのではないだろうか。うん、やばい気がする。

 敵の本拠地を見つけたはいいものの、アリア先輩たちに伝える前に捉えられては意味がない。かといって、敵を振り切るまでは自陣に戻ることもできない。願はくはゴタゴタなしで、颯爽と偵察任務をこなして自陣に帰還したかったけど、そうもいかないか。

「先輩、どうしましょう」

 手を引く俺に身体を預けたまま、ソラが緊張感のなさそうな声で尋ねる。

「どうもこうも、とりあえず逃げるしかっ!」

「ま、そうですよねえ」

 ソラを引っぱりながら全速力で体育館から離れ、俺は白い世界を駆けた。


     3


 あえなく敵に追われることとなった俺とソラは、一目散に体育館から離れて校舎内へと逃げ込み、駆けずり回った挙句に敷地の隅の方にある教室に身を隠した。その教室は、察するに昼間もほとんど使われていないのか、山積みにされた段ボールで埋め尽くされた部屋だった。

 現在、俺とソラはそんな幾多の段ボールの隙間に入り込んで埋もれた状態だ。狭い空間のため、どうしても二人重なってお互い身動きが取りにくく、首を捻ることもできないので、視界も固定されたままである。

「ちょっと先輩、ゴソゴソしないでくださいよ。狭いんですから、くすぐったいです」

「俺は微塵も動いとらん。お前が勝手に動いてるんだ。下になってる俺は痛いぞ」

「えー、本当ですかー? 変なところ触ろうとしてませんかー?」

「んな余裕はねぇよ。心身共にな!」

 相変わらずソラからは緊張感というものが感じられない。

 本来、隠れて一ヵ所に留まるのは得策ではないのだろうが、こうなってしまったのは成り行きだ。早いところ敵の隙を見て、この場所を逃れつつ美術室に戻りたいところである。

 しかし、なにぶん実際は難しい。どうやら追ってきた敵は六人で、二人一組になって俺たちを探しているらしかった。近くではたびたび敵の声が聞こえるし、目の前の廊下を通る姿もしばしば見受けられる。このままでは、見つかるのも時間の問題だろう。

「ところでソラ、今何時だ?」

「今ですか? えっとですね……」

 俺が尋ねると、ソラはゴソゴソと身体を捻って端末を取り出した。こいつが動くと俺は痛いんだが……。

「あっれれ。もう二十時十五分です。知らないうちに、そんなに経ってたんですね」

 ゲームは二十一時までだ。つまり、残りは四十五分。逃げ回る過程で、かなりの時間を消費してしまったようだった。よもやこんなところで隠れている場合ではない。

「やばいな……。さっさと先輩たちのところに戻って、攻めに転じないと。時間切れなんて興醒めもいいところだぜ」

「確かに、そうですね。このまま終わるってのは、ちょっと退屈です……」

 ソラはまた、グネグネ動いて端末をしまいながら続ける。

「でも、今も近くで敵の声がしますし、周りに何人かいるのは明白ですね。それを全てかい潜って美術室に戻るのは……かなり望み薄かと」

「まあ……そうだよなあ。頑張っても絶対、一組くらいには遭遇しそうだ。かなり敷地の端まで逃げてきたから、戻るにしても距離があるしな」

「距離がある、ですか。先輩、実は私、自分が今どこにいるのかよくわかってないんですけど……先輩はわかってますか?」

 目の前では、ソラが首を傾げていた。

「正確じゃないけど、まあだいたいな。この辺りは旧校舎だ。学校全体で見ても隅の隅、かなりの僻地だよ」

「なるほど、旧校舎ですか。それでこんな物置みたいな部屋がいっぱい……。私、昼間の学校でもほとんどきたことないです。先輩ってば、よくわかりますね」

 そりゃあ、そうだろうな。普通に南校で生活をしていて、旧校舎にこなければならない事態に出くわすことはほとんどない。この旧校舎に足を踏み入れたことのある人間が、南校に属する膨大な数の生徒の中に、いったいどれだけいるだろう。それこそ今くらいでなければ、旧校舎を歩く人間の姿などなかなか拝めないものだ。

「とにかく、ここから美術室は遠い。あそこは新校舎だ。とても何事もなく戻れる気がしない。廊下には敵が頻繁に現れるし……万事休すってやつだな……」

「あの、先輩。私の体勢だと廊下の方を見られないんですけど、窓から逃げるっていう選択肢もありますよ? 段ボールの山を静かにどかせば、なんとかなると思いません?」

「ああ……窓ねえ。逆に俺の体勢だと窓の方は見えないけど……まあ、よじ登って外を確認してみたらいいんじゃないか?」

 互いの体勢とスペース的に、俺からは廊下側しか、ソラからは窓側しか見えない。その分、ソラは廊下を通る敵の姿を見てないだろう。

 しかしこれまで、俺はそれを目にするたびにげんなりしている。冷静に考えれば、廊下側だけでなく窓の外にも捜索の手は伸びているはずだ。確認するまでもなく、容易く予想はついてしまった。

「じゃあ私、ちょっと見てみますね」

 ソラは三度目の体勢変更を試みるようだ。ガサガサ動いて何度も俺を踏んづけ、段ボールの山を登る準備を始めた。

「ちょ、おま、こら。痛ぇだろうがソラ」

「あー、すませんすません」

 んしょ、んしょ。ソラはそう呟きながらサルみたいに上へと向かう。頼むから段ボール雪崩を起こしてくれるなよ。

 対して俺は、わざわざ窓を覗いてまで敵を見たくはなかったので、そのまま下でじっとしていることにした。

 まったく、どうすりゃいいのかこの状況。前みたいに、ピンチに助けが……ってこともあるわけない。アリア先輩とミューとルナは、自陣でフラッグを守っているのだ。俺とソラが戻ってくるのを信じて待ってくれているのだろう。それを思うとこの状況は、なおのこと辛い。

 初めのうちはやる気満々。闘志の炎は胸の中で煌々と滾っていたのに、結局のところこのザマだ。心に雨が降る。諦念の雨が、胸の炎を弱らせてゆく。所詮はこんなものなのだろうか。大切な場所を賭けた戦いでも、圧倒的な戦力差を前にしては、いとも容易く、容赦なく敗北が訪れる。

 ミューに……九条に示すはずだった、大切なものの価値。本物の感情。俺はそれを、あいつに教えてやりたかった。そして二人で、共有したかったのかもしれない。なんならあの場所が、次からは俺一人だけのものではなく、彼女との歓談の場になってもよかったのに。けれども、全て叶わぬことのようだ。

「はあ……」

 下降気味の思考に陥っていると、ついつい胸中の落胆が溜息となって、口から漏れた。

「元気、ないですね」

 それを聞いてか、段ボールクライミング中のソラから、声が降る。

「そりゃ……そうだろ。みんなに協力してもらって、俺の願いのために勝とうとしてくれてるのに……西校相手だって、俺は勝てるつもりでいたのに。なのに、こんなところで隠れて燻ってて……このまま脱出もできなければ、敵に見つかるか、時間切れを待つだけだ。情けねぇったらねぇよ」

 泣き言は、情けなさをさらに露呈するばかりだった。

「まあまあ、私が窓の外を確認したら、意外となんとかなるかもしれませんよ。んしょっと、ほら…………あ」

 ソラは段ボールの山を登り切ったらしく、上からぶらぶらと足を投げ出している。外を覗いたのか、またワンパターンなリアクションを呟いていた。おそらく敵の姿でも発見したのだろう。先に続く言葉はなかった。

 俺は無反応で、ぼんやりと目の前に揺れるソラの足先を追い、相変わらず段ボールの隙間に沈んでじっとしていた。

 そうしてしばらく無言が続く。

 するとまた、ソラが一言、ぽつりと零した。

「ねえ……先輩。聞いても、いいですか?」

 ソラの声音は、なぜか妙に落ち着いていた。シンとした中で、俺の鼓膜によく届く。目の前の両足は、さきほどまでの尻尾みたいな動きをやめて、穏やかに漂う霧の中で、いつの間にか行儀良く揃っていた。

「……なんだよ。改まって」

「先輩の願い事って、あれですよね。大切な銀杏の樹の広場を守りたいっていう。それって先輩にとって、いったいどんなものなんですか? どうしてそんなに、大切なんですか?」

「……んなこと、聞いてどうする」

「いいじゃないですか。気分転換に話してくださいよ。先輩がそこまで必死に守ろうとするものなんて、私、気になりますもん」

 俺は驚いた。まさか唐突に、そんな質問がくるとは思っていなかったのだ。対して俺は、今は雑談なんて余裕かましていられる場合じゃねえだろ、と突っ込みを入れてやりたくなった。

 でも直後、どうせここでじっとしている間は、することがないのも事実かな、と考え直す。

 いいさ。それならまあ、答えてやろう。気分転換になるかはわからないけれど、聞きたいっていうのなら話してやるさ。あの広場が、どんなに素晴らしいところなのか。どんなに貴重で、価値のあるところなのか。それを、こいつにも。

 俺は小さく息をつく。そっと頭の中にあの場所を描きながら、ゆっくりと口を動かした。

「あそこは、あの銀杏の樹の広場は、俺にとってとても大切なところだよ。平和で穏やかで、これ以上にない、安らぎのための場所。人目に触れず喧騒を避け、緩やかな時間の流れを感じ、退屈で面白くもないけれど、心温まるところ。そんなところだから。中心にある樹の根元に座れば、もうまるで別世界みたいでさ。静寂や安穏、そんなものたちが、どれだけ価値のあるものか実感できるんだ。暑い日も寒い日も、晴れの日でも雨の日でも、俺はあそこへ行くのが好きだよ」

 ソラは黙ったまま、何も言わなかった。でもきっと、俺の言葉を聞いてくれているのだろう。なんとなくだが、ちゃんとわかった。

「けど、中でも一番綺麗なのは、秋の季節かな。やっぱりあれは銀杏の樹だからさ。金色の葉を湛えた姿が、一番映える。ちょうど今がその頃だ。ソラも一度でいいから、眺めてみたらよくわかるはずだよ」

 俺が語り終えるとソラは小さく、ふぅん、と呟いた。

「先輩は、本当にその銀杏の樹の広場が、お好きなんですね。詩的なお言葉で、格好いいです」

 やがて少し間をあけて、穏やかな声で感想をくれた。

 いやまあ、あの場所に似合うような表現をしようと思ったら、どうしても言葉は詩的になる。仕方ないだろう。無理に格好つけているわけではないのだ。

「一度眺めてみたら……ですか。確かに、そうですね」

 ソラはポツリと呟いていた。

 俺が何となしにそれを見上げると、あたかも示し合わせたかのようにソラも首を捻り、段ボールの上からこちらを見下ろす。

「先輩も、こっちへきてみませんか」

 まるで俺の視線の動きを知っていたかのような素振りだった。続けて段ボールにぶら下がったまま、器用に横へとずれる。

 脈絡もなくそんな提案を受けたから、何のことだかすぐにはわからなかったが、ソラが隣に一人分のスペースを空けたのだと知って、俺はその意図を理解した。

「こっちって、俺にもこいつを登れと」

「そうです。ほら、いい眺めですから」

 いい眺めって……お前さっき、敵見つけて固まってたじゃねぇか。面倒だよ。てか今更だけど、これって登っても廊下から見えてないよな。大丈夫なんだよな……。

 当たり前だが、気怠さと心配が胸をよぎった。

 しかし結局、ソラがせっつくので、仕方なく俺も登ることになる。

「ったく、なんなんだよ」

 上まで着いてから、俺は隣のソラに毒づいた。

 けれどもソラは無言で微笑んでいる。そのままゆっくりと前方を向くのを見て、俺まで自然とつられてしまった。

 そのとき、俺は自分の目に映るものを見て、深く大きく息を飲んだ。眼前に広がる景色から不意打ちを食らったのだ。窓の外、俺が視線を向けた先では、直前まで頭の中に描いていた光景そのものが、白い霧の向こう側で輝いていた。

「えへへ。私、見つけちゃいましたよ。これですよね。先輩と先輩のお姉さんが、守りたいと願う、銀杏の樹の広場」

 辺りの霧は、依然として十分濃い。しかしながら、窓の外にある大樹の姿を、この目ははっきりと捉えることができた。白くぼやける空間を、金色の光が鋭く進んで、眼球まで飛び込んでくる。それは間違いなく、一つ一つの枝に隙間なく育まれた、あまたの銀杏の葉によるものだとわかった。

「秋の季節がとても綺麗で、一度眺めてみるといい。ええ、先輩の言う通りですね。私も今、初めて見て、そう思います」

 隣ではソラが、人懐っこく肩を寄せてきている。

 ただ俺の方は、未だ身体の硬直が抜けない。まさか思いもしなかったのだ。いくらここが旧校舎だと分かっていても、自分の隠れた教室の傍に、守ろうとしている広場それ自体があったなんて。

 昼間のうちはこんな荷物だらけの部屋にはこないし、この角度で眺めるのは、俺も初めてだった。窓枠がちょうど額となり、さながら空想の世界を切り取って描いた絵画のように感じられる。

「実に神秘的……幻想的な風景です。きっと先輩のお姉さんも、この広場を見て、同じような気持ちを抱いたのでしょう。守りたい、残したいと、感じたのでしょうね」

 そんなソラの言葉を聞き、ふと俺は思い出す。事の発端の当時、優璃が広場の危機を知って、俺に守るよう命じてきたときのことを。あのとき俺は、優璃の頼みがどうにも腑に落ちなくて、違和感を覚えていた。

 動機が不明瞭だったのだ。優璃が広場を守ろうとする動機が。

 なぜなら俺は、優璃があの広場を気に入るなんて、とても思えなかったから。あいつのような人間は、俺や銀杏の樹の広場とは、真逆の存在だと考えていたからだ。

 いつも騒がしくて、賑やかな空間を好んでいた優璃。本来ならそんなあいつが、広場の存在を知っていたこと自体、驚愕の一つである。

 だからあのとき、疑問を消化しきれなかった俺は、きっと優璃には何か別の目的があるのだろうと結論した。目的そのものまではわからなかったけれど、曖昧なまま半ば無理矢理に納得したのだ。

 しかしここにきて、また俺の中に違和感が蘇る。想定することのできなかった優璃の別の目的は、現在に至ってなお、検討もつかないままだ。それは、いったい何なのだろう。

 隣のソラはもう、口を閉ざして景色に見入っている。

 ボーっと悩んでいると、さきほど耳にしたソラの最後の言葉がゆっくりと尾を引いて、俺の鼓膜を揺さぶっているような気になった。

 優璃は、この場所が大切だから……だから守りたい。残したい。

 まさに今このとき、銀杏の樹を前にぼんやりと頭を回しても、それを上回るほどに妥当的な答えは見出せない。そんなことはあり得ないはずなのに、どうしても他の可能性が思い浮かべられなかった。

 そうして漂う霧を眺めていると、だんだんと思考をぼかされて、広場を見つめる俺の視界には、突然、人の姿が浮かんだように感じられた。

 忘れかけていた瞬きを重ねて行い、驚きと共に凝視する。

 どうしたことだろう。銀杏の葉の放つ光が強く拡散し、あたかも霧が薄くなったかのように見える。自然と景色がクリアになり、俺の特等席である樹の根元に、一人の人間の佇む姿が明確に映る。それが誰なのか、すぐにわかった。

 優璃だった。この学校の制服に身を包む、在りし日の優璃の姿。儚く明滅し、あたかも映画を投影するかのように、かつての彼女をそこに描いていた。

 初めは一人。物憂げそうに、穏やかそうに、風に鳴る木葉を仰いでいる。消えて、また現れるごとに少しずつ変わる優璃の姿は、あいつが何度もここを訪れ続けていたことを思わせた。

 そして次第に、映る人間は二人になった。落ち着いた儚さを残しながら、朗らかに会話をする様子が重なってゆく。

 さらにしばらくすると、次々といつの間にか人が増え、三人、四人、五人となる。大きな樹を傘にして彼女らは集い、優璃はその真ん中で破顔していた。

 何だろう、この光景は。まるで過去を思い起こすかのような、そんな幻。これは事実なのだろうか。

 俺は恍惚として、優璃の姿に見入ってしまっていた。目の前に見える、俺が姉として認識している優璃とは別人のような彼女に。眺めているだけで、全身がじわりと暖まってくるような微笑みに。

 そして感じる温度と共に、一つの想いが、にわかに俺へと去来する。

 優璃にとって、この場所はとても大切なところなのだ。かけがえがなく、大好きで、守りたくて……だからそこ、残したくて、絶対に失いたくない場所なのだ。

 ここから彼女を見ていると、そんな想いが強く強く湧き上がってくる。同時に、まさかと考えていた気待ちがだんだんと萎んでいき、俺が優璃の気持ちを確信する頃になると、いつしか眼前の投影は消滅していた。

 心臓が、トクンと鳴る。瞬間、俺はハッと気づき、誰にも聞こえないような小声で呟く。

「そうか……もしかしたら、これが四つ目の……」

 世界は再び白くて濃い霧に包まれていたが、対照的に、俺の胸中は一気に晴れ渡った。抱えていた違和感は霧散する。そして迷いも、不安も消えた。

 優璃ならきっと、こんな状況、ものともしないのだろう。いくら絶望的な状況でも、あいつの辞書に諦めるなんて文字はない。単細胞らしく、敵全員をなぎ倒して特攻、なんてことをするかもしれない。実際に見たこともないのに、嬉々として飛び出して行く優璃の姿が、俺の脳裏には容易く浮かんだ。

 そんな優璃のイメージは、今の俺にとって大きな助けになった。どこまでも大胆で無茶苦茶で、傍若無人で突拍子のない我が姉貴。彼女の幻をここで見たことが、俺の決意を強く固めた。追い詰められた窮地の中、文字通り四面楚歌のこの戦況で、俺は優璃の背中を追う。そうするべきだと、心が叫んだ。

「ソラ、今何時だ?」

「へ?」

 ソラは素っ頓狂な声を上げた。

「先輩、それさっきも聞きましたよね。もー、何度も聞くくらいなら自分で確認してくださいよー」

 二十時二十分です、と返ってくる。この部屋にきて初めに時間を確認してから、まだ五分しか経っていない。俺が広場の優璃を見ていた間、時間は止まっていたのだろうか。そう思うくらいに、実際と体感では時の進みに差があった。

 いや、あるいは止まっていたのではなく、ほんの一瞬だったのかもしれない。あれは幻だったのだから……言うなれば、俺だけの目に映った夢のようなものだ。

「よし。休憩は終わりだ」

 俺は静かに息を吸い込み、ソラへ始動の合図を告げる。

「これからみんなのところへ帰る」

 そう言うと、ソラはしばらくこちらを向いて固まっていたが、やがて口を開いた。

「帰るって……。あ、もしかして先輩ってば、何かいい作戦を思いつきましたか!?」

 興味津々で耳を傾けてくる。

 ソラの耳元で俺は、考えついたことをただそのまま述べた。

 すると、一度上がったソラのテンションが、また下がる。

「…………あの、それはちょっと……作戦とは言わないかと」

「あれ、そうかな。作戦のつもりだったんだけど」

「………………」

 沈黙された。突っ込みすら返ることはなく、無言で鋭く見つめられる。この場合、睨まれるといった方が正しい表現だろうか。それから少しして、ソラは言った。

「突然、どうしちゃったんですか。そんなことをすればどうなるか、先輩もわかっているでしょう。もしかして……もう諦めちゃいましたか?」

 ソラの瞳は、真っ直ぐに俺を捉えているとわかった。視線が反感を物語っている。

「あっはは、まさか。その逆だよ」

 しかし、俺は笑って、片手をソラの頭にポンと置いた。

「俺は諦めないよ。弱気になっていたのは確かだけどな。うん、それは謝る。でも、俺の提案は勝つためのものだ。リスクはあるけど、正しい選択だって信じてる」

 真剣な表情をして、視線をソラのそれへと重ねる。

 するとソラは、自分の手を頭上に乗る俺の手に重ね、甲を優しく握ってくる。

「本当……ですか?」

「ああ、本当だよ。だから……協力してくれ」

 俺が答えると、不安そうにしていたソラの口元は、軽く緩んだ。

「そうでしたか。これはこれは、失礼しました。はい、そういうことなら是非、お供させて頂きます」

 そして俺たち二人は、隠れ続けた荷物いっぱいの教室をあとにした。

 ソラの言う通り、俺の提案は本当に、お世辞にも作戦と呼べるほどのものではなかったのかもしれない。

 ただただ、自陣である美術室に戻るだけだ。小細工は何もない。できる限り敵に見つからないように進み、徘徊している敵をある程度避けつつ、最短で美術室に着くように移動する。そしてどうにも敵をやり過ごせなくなったら、覚悟を決めて正面突破。もちろんその場で戦いなどしない。通り抜けるだけだ。以降はひたすら全速力で走る。

 追ってくる敵を巻く余裕はないだろう。もたついていたら他の敵も集まってきてしまう。

 しかしだからといって、そのまま美術室に向かえば、わざわざ敵を自陣へご招待するはめになってしまうのはわかっていた。というかそれこそが、俺たちがずっと隠れたままで、自陣へと逃げ帰ることができずにいた一番の理由なのだ。

 でも、それはもう、考えないことにした。考えなくていいのかと問われればよくはないのだが、もういいのだ。いいったらいいのだ。少なくとも、あの部屋に隠れたまま終わるよりはずっといい。アリア先輩や、あるいはミューあたりには何か言われるかもしれないが、それでもいいと思うことにした。ソラも不安なはずだけれど、俺を信じて協力すると言ってくれた。

 俺たちは廊下を進む。ここまで運良く、何度か敵をかわすこともできた。

 しかし、とうとう隠れて進むのにも、限界がやってくる。

「先輩、ここを曲がった先に、敵がいます。二人組です」

「もうあまり迂回する余裕はないな。下手に動けば、ここまで避けてきた別の敵に出会うかもしれない」

「そうですね。じゃあ……行きますか、先輩!」

「ああ、こっからが本番だ。手筈通りにな」

 ソラは頷き、曲がり角から飛び出した。

 俺もすぐに続く。

 並んで駆けると、こちらに背を向けて歩いている二人の敵が振り返った。

 それを見計らい、ソラが銃を取り出して撃つ。敵二人に対し、それぞれ二発ずつの牽制弾を発射した。弾道が派手に白く光る。

「うわっ! なんだ!?」

 一人が驚く。続けてもう一人も開口する。

「なっ……南校!」

 いい反応だ。奇襲をしかけた甲斐があるってもんだ。お前らの方が俺たちを探していたんだろうがと突っ込みたくもなるところだが、いやしかし、突然背後からレーザーまがいの銃弾が飛んでこれば、多少声が上ずるのも当然か。敵ではあるが、豆粒程度の同情はくれてやろう。

 俺は安い同情を抱きつつも、遠慮なく拳を構えて急加速し、振りかぶって全力で殴りかかった。狙いはまとめて敵二人……ではなくて、ちょうどその真ん中だ。

 攻撃はかわされる。敵はそれぞれ左右に避け、俺のパンチが空振りのように地面の朽木を粉砕する。

 しかし、それでいい。想定通りだ。敵へのダメージはないが、これで廊下の中心に突破スペースが確保された。

 すかさず後ろから走り込んできたソラが、俺の背を踏み台にして前方に飛び上がり、縦に翻りながら敵への雨のような射撃を行う。下から見上げると、まるでサーカスショーのようなアクロバット。サマーソルトキックばりの空中反転だ。いくら装飾服のサポートがあっても、慣れていないとなかなかできることではない。身軽でそういった動きに慣れているソラならではだ。

 その間、俺はすぐにまた踏み出し、つま先に力を込めて前進を図る。ソラの着地点に回り込み、通り抜けざまに背中でしっかりと受け止めた。

「やっはー先輩ナイスキャッチ! かっこいー!」

 ソラは俺にしがみつきながら、後方へ向かって発砲を続ける。

 突破、成功だ。

「舌噛むぞ。黙って撃てっての」

 ソラに憎まれ口を叩く反面、実は内心、狙い通りに事が運んで安堵している俺。顔はにやけて、片手では静かにガッツポーズをした。

 そしてそのまま、ソラを背負いながら全速力で走る。

「あとは走り抜けるだけですね! 期待してます!」

「あ、てめえ。最後まで俺に担がれてる気だな」

「いいじゃないですかー。その分ちゃんと、敵の足止めしますから」

 確かに、ソラの射撃は追ってくる敵の妨害に役に立つ。二人一体となって逃げるこの形なら前方と後方が一度に確認できるし、案外ベストかもしれない。たとえるのならまるで戦車のよう。俺がタイヤで、ソラが砲台だ。

 追ってくる敵と鬼ごっこをしながら、とにかく必死で美術室へと向かう。

 道中でそれ以上の敵と遭遇しなかったのは天恵だろう。戦闘音に気付いた敵は多いだろうが、俺たちの全速力の移動もあってか、そう簡単には位置も捕捉されない。曲がり角を折れ、階段を上り、目的地に近づく。そしてついに、美術室の扉に至るまで、右折一つを残すのみとなった。

 当然、二人の追手は俺たちの後ろをぴったりとついてきている。振り切ることはできていない。

「さてさて先輩、ついにもうすぐご到着ですが」

「んだな。ようやくみんなのところに帰ってきたな」

「ええ、もれなく敵二人もご招待なわけですが」

「はは。まあ、たぶん大丈夫だって」

 廊下を曲がったあと、俺はソラを担いだまま、閉まっている美術室の扉に勢い良く突っ込んだ。体当たりによって外れた扉は衝撃音と共に跳ね飛び、盛大に俺たちの帰還を主張する。

 そして俺は力尽きて床にヘッドスライディング。背中にソラを担いでいたこともあってバランスを取りきれず、腹と顎をいっぺんに激しく擦った。

「ちょ、なになに!? いきなり何!?」

 もつれて飛び入ってきた俺たちを見て驚いたのか、すぐに声がかかる。おそらくアリア先輩だろう。勢いが止まってから顔だけを持ち上げて確認すると、目の前には先輩の足先が見えた。ソラが邪魔で、顔まで見上げることができないが、それでも俺はとにかく叫ぶ。

「すいません! あとのフォロー頼みます!」

 それとほぼ同時、入り口の方から気配がし、追手の敵二人が侵入してくるのがわかった。

「ッ!」

 アリア先輩の雰囲気が変わる。直後、俺の視界に槍の切っ先が映ったかと思うと、先輩の両足と一緒に消えた。

 頭上と背後の両方で、金属の打たれるような快音が響く。白い霧が波紋のように揺れ、その衝撃を伝える。

 俺はソラに乗っかられたまま、なんとか腹這いで視界の方向を変えた。

 すると既に敵の一人が、部屋の隅で光に包まれていた。その胸のペンダントは、真っ二つに割れて破損している。

 もう一人は入口のそばで痛みに耐えながら尻餅をついていたが、ぎこちなく立ち上がってすぐに扉から出ていった。

「しまった、一人逃した! ミュウミュウ追って!」

 アリア先輩の指示が聞こえる。

 しかし俺は、そこでもう一度叫んだ。

「待てミュー! 行かなくていい」

 ミューは駆け出そうと身を乗り出していたが、俺の制止に反応して入口で踏み止まった。

 そうして数秒の沈黙が流れる。美術室は一気に静まり返った。

「……ソラ、そろそろどけよ」

「……え? あ……はい」

 ソラはすっかり惚けていたようだ。俺が言うと、とりあえずいそいそと床へと降りた。

 俺は立ち上がり、改めて皆に告げる。その言葉は少々軽々しく、今の静寂には不釣り合いだった。

「あ、ども。ただいま」

 周りを見渡すと、ソラはまだ半分くらいわけもわからぬようで腰を抜かしている。ルナもフラッグの横に突っ立っている。状況の処理ができていないのはソラと同様のようだ。アリア先輩は、目の前で大振りの槍を携えている。さきほどの咄嗟の迎撃に武器を使ってくれたのだろう。それからミューは、少し離れた入口から、じっとこちらを見据えていた。

 実際、この中で一番怖いのはミューだと思った。ものすごく、睨んでいる。もちろん、彼女の視線の意味はよくわかった。なぜ敵を連れて戻ってきたのか。敵に陣地を知られたぞと。そう咎められているのが明白だった。

「ただいまって……レイ、あのね」

 アリア先輩がこめかみを抑える。

「いや、いやいや。わかってますよ。もちろんわかってます。驚かせてすみません。それから、咄嗟の対応、ありがとうございます」

「それはいいけど。いや、よくはないけど……」

 言葉からは、困惑の様子が見て取れた。

 そこにすかさず割り込むように、ミューが鋭く俺に尋ねる。

「なぜ止めたの」

「なぜって?」

「さっきのやつは、ここが私たちの陣地だってことを仲間に知らせに行くわ。その前に追って仕留めなきゃ。それくらいわかるでしょう」

「ああ、そういうことか。わかるよ。でもいいんだ。一人で追うのは危険だし、それに……あいつは追わなくていい」

 俺の返答に対し、ミューは口を閉ざした。こいつは何を言っているんだと、訝しげな雰囲気を漂わせながら。

「レイ」

 アリア先輩が、俺の正面からゆっくりと歩いて近づいてくる。

「リタイアせずに戻ってきたのは嬉しい限りだね。けど、これからどうするつもりなの?私だって、口うるさくミュウミュウと同じことを言いたくはないよ。でも……」

 これからどうするのか。それはつまり、この状況からどうやって勝ちを目指すのか、ということだ。アリア先輩の声は厳しい。

 しかし俺は、それを考えられるだけで嬉しいと思った。敵に追われながら美術室へと戻ってきてしまって、実際にはここでフラッグを守れるかどうかもわからなかった。しっかりと敵を追い返せるかどうかもわからなかった。当たり前の可能性として、さきほどの追手二人に勝負を決められていたということもあり得たわけだ。それは、俺とソラがとった行動に、必然的に付随するリスクだった。

 だからアリア先輩には、非常に感謝したい。そして今からの時間は俺たちにとって、勝利の女神からの選別にも感じられる。

「作戦があります」

 俺は力強く告げる。アリア先輩と、そして周囲の三人に向かって。

「敵の陣地は体育館です。今からそこに、五人全員で攻め込もうと思います。ゲームの初めに、アリア先輩は言いましたよね。敵陣の位置がわかっていて、自陣の位置を知られていない状況がベストだって。今がまさに、その時じゃないですか」

 今まさに、敵陣が体育館であることを、南校チームの全員が知った。西校チームはまだ、ここに俺たちのフラッグがあることを知らない。逃げ去った敵がその情報を仲間に伝えるまでの短い間だけ、そんな理想的な戦況が保たれる。

「五人全員でって……その場合、ここを守る人がいなくなるよ。君とソラが逃げ帰ってきたとき、いくらかは確実に敵を集めてきてしまったはずだけど。それについては?」

「俺たちが逃げ帰ってきた経路と、ここから体育館へ向かう経路は、途中まで重なっています。だから、俺たちが集めた敵は、道中で全員倒していく!」

 右手の拳を目の前に掲げ、俺は意気を込める。声を張る。ミューがこちらを睨み「何それ、無理に決まってるじゃない」的な視線で睨んでいるが、無視して続ける。

「止めようとして向かってくる敵も、全部なぎ払う! 俺たちが有利なのは今、この時だけ! 自陣が知られてジリ貧になる前に、勝負を決めましょう!」

 しんとした室内に俺が必死に声を放ると、アリア先輩が神妙な面持ちで言った。

「……随分と、強気にでるね」

「強気に、でますよ。だって、俺がソラと偵察をしてきて見つけたのは、敵の陣地だけじゃないんですから」

 俺はそう答えると、皆の前で端末を取り出し、アカウント専用の武器データが入っているフォルダにアクセスした。パスワードが要求されることは既にわかっている。ゲーム開始時にこれが発覚して悩んでいたことは、まだ記憶に新しい。

 しかしソラとの偵察を経て、今の俺にはもう、このパスワードの見当がついていた。俺はためらわずに操作を続け、パスワードの入力を試みる。

『ginkgotree』

 意味はもちろん、銀杏の樹。我が姉優璃が、高校時代にこよなく愛し、大切に思った宝物の名前。

 アプリケーションはその文字列を静かに飲み込む。再要求はされなかった。

 やがて俺の右手に光が集まる。小さな粒子のような輝きは、すぐに太く長い得物の形を成し、音もなく眼前に顕現する。そして光が散ったあとで俺が握っていたのは、鋭く極めて重厚な、つるぎであった。剣先を地にめり込ませ、迫力満点で、振れば絶大な威力を約束する、赤い大剣だ。

 皆はその一連の光景を、黙って見ていた。そしてなおも数秒の沈黙を経て、高らかな笑い声が忽然と上がる。

「はっはは! あっはははははは! なるほど! なるほどね!」

 アリア先輩だ。アリア先輩が、いきなり目の前で腹を抱えながら笑い出したのだ。

「ちょ、先ぱ――」

「いや、いやいや。悪い悪い。馬鹿にしたつもりはないんだ。ただね、驚いたんだよ。君が、あまりに無茶な提案をしてきたから」

 先輩はそう言ってひとしきり笑うと、やがて落ち着いて、また続ける。

「……でも、すぐに思い出したよ。君が、あのリフィア先輩の弟だってことをさ。やっぱり……うん、似てるね。五人で特攻。まさにリフィア先輩の言い出しそうな作戦だ」

 まあ、それってたぶん、作戦とは言わないんだろうけどね、と付け足しながら。

 優璃と似ている。そんなことを言われたら、普段の俺ならば、とりあえず反論をするところである。でも今回は、今回だけは、不思議と気にはならなかった。ああ、やっぱりそう思われるんだな、なんて感じてしまった。

「よし。私、それ乗るよ。なんかね、その大きな剣を久しぶりに見たら、二年前を思い出した。とても懐かしいな。私はいつも、先輩の振るその赤い剣に守られていたんだ。結局あの人には、最後まで頼りっきりだった。だから今度は私が、先輩の弟である君を守ろう」

 アリア先輩は、携えた槍を軽々と二回転。自分もくるりと反転し、改めて居住まいを正す。俺に背を向け、美術室の扉を見つめる。

「二年越しの、恩返しをしようじゃないか。ミューに、ソラ、ルナ。頼む……付き合って」

 先輩は俺への宣言と共に、本来は俺がすべきはずのチームへの依頼まで行う。

 ありがたいことに、首を振る者はいなかった。相変わらずミューは何かを言いたげにしていたが、アリア先輩の様子を見て、渋々不満を飲み込んだようだった。

「さあーて。こっからが本当の最終決戦だ! みんなまとめてかかってきな! 私が全部、ねじ伏せてやるから!」

 そう言い放ちながら美術室を飛び出す先輩に続き、俺たち南校チームは一同、大胆にも自陣を放棄。守るべきフラッグの周りに一人の味方も残すことなく、敵陣を目指して駆け出した。

 案の定、既に周囲には何人かの敵が集まっていて、出発の直後に襲撃を食らう。

 しかし嬉々として先頭を行くアリア先輩が、流れるような鮮やかな槍使いで迎え撃った。二人組の敵が数回に分けてパラパラと現れたが、先輩の対応は非常にあっさりとしたもので、前進速度を落とすまでもなく、一振り二振りの攻撃で容易く敵のシンボルペンダントを切り裂いて進む。

 すぐ後ろからそれに続くソラやルナは、もはやさきほどまで惚けていた面影もなく、先輩が活躍を見せるたびに喝采を上げた。

「やーふぃー! アリア先輩いっけー!」

「かっこいー。強ーい」

 俺はさらにその後ろから追いかけつつ見ていて、思わず零さずにはいられなかった。

「……マジで強えな。あんなのありかよ……」

 並走するミューが俺の呟きに答える。

「三年生だから、ここでの立ち回りに慣れているっていうのもあるけど。それでもまあ、あの人の個人的な実力は、他のチームの三年生と比べてもかなり高い方よ」

「かなりっていうか、無茶苦茶だろ。あれ」

「そうね。あの槍を使っていることを差し引いたとしても、確かにアリア先輩の強さは無茶苦茶。あなたのお姉さんの教え方が上手かったのね」

「完全に姉貴の無茶苦茶が伝染ってる」

 この世界で戦うということにおいて、装飾服のサポートの活かし方や武器の扱いが大きなパラメータになるのはわかるし、実感もしている。普段の生活と全く異なる感覚ゆえに難しく、したがって経験の多い三年生が強いのは当然だろう。だがしかし、アリア先輩の実力は、その範疇を明らかに逸脱している。

 俺が呆れて言い捨てると、隣からすぐに反論が飛んだ。

「何言ってるのよ。無茶苦茶はあなたも同じじゃない。捨て身で特攻なんて、本当に作戦とは呼べないわ。それこそ無茶苦茶以外の、何物でもない」

「お前まで言うかよ」

「誰だって言うわよ。私だったら絶対にしないわ。こんなこと。あなたにも無茶苦茶が伝染ってるんじゃないの? お姉さんから」

 ミューは、語気こそ荒げず冷静に話すけれども、いつもと比べて口数が多い。そのことに俺は気づいていた。もちろん不満なのだろうし、別に今更、隠すつもりもなさそうだ。あと、少し嫌味っぽい。

 俺は言葉を探して言い返そうとしたが、それよりも早く彼女の、はあ、という溜息が聞こえた。

「でもね、あなたのその無茶苦茶な提案に、アリア先輩は乗っちゃったじゃない。ああなった先輩は、私が何を言ったところで無駄なのよ」

「ミューって、アリア先輩には結構甘いよな」

「違うわ。諦めているだけ。それに今回は、あなたのやり方に協力するっていう約束もある。これが最善とは思えないけれど、あなたが選ぶ方法なら、私はちゃんと従うわ。だからこうして、私は今、走っているわけ」

 やれやれ、とでも言いたげな雰囲気だった。半信半疑ではあるが、しっかりと結果を見届けてやろう、といった感じだ。それは以前に彼女が言った、俺を試させて欲しいという言葉に起因しているのだと思う。

 だからこそ、彼女がこれからの戦いで手を抜くことはない。俺にはわかった。

「ミュー、俺はさ……今走っているこの道が、俺たちの勝利に繋がる最短の道だって、信じてるよ。強く信じて疑わない。そしてミューが求めるものも、きっとこの先にある。お前にも、それを信じて欲しいんだ」

 俺は、礼を言うつもりで彼女に告げた。

 すると前を向いて走っていた彼女は、不意に俺とは反対の方に首を捻って答える。そうね、そうするわ、と。穏やかな声音で。

「ところで……」

「ん?」

 さらにまた、ミューが反対を向いたままで口を開いた。

「格好いい台詞を頂いた直後で尋ねにくいのだけれど……あなたが背負っているソレは、使い物になるのかしら」

「……ああ…………いいところに目をつけましたね、ミューさん」

 いや、うん。本当に、ちょっといいこと言ったあとに、聞いて欲しくはなかったな。

 実は……といっても隠していたわけではないが、俺はさきほどからずっと、あるものを背負って走っている。そのあるものとは、俺が自信満々で顕現させた優璃の大剣だった。隠そうとしても到底隠し切れるはずのない、化け物サイズの大剣だ。

 少しばかり前の話になる。この大剣は登場早々、派手に俺の度肝を抜いた。携えて美術室を出ようとしたときに知ったその重さは、なんと、いやもう本当にどうかしてるってくらい、あり得ないほどのものだったのだ。そして瞬時に身体が悟った。装飾服のサポートを以ってしても、これを自在に振り回すのは、無理だと。

 したがって俺はこいつを担いで駆ける羽目になり、惜しまず必死の全力を費やしているにも関わらず、チームの皆からは遅れ気味で走っている。このため俺たちの突撃フォーメーションは自然と、先頭にアリア先輩、次にソラとルナ、最後に俺とミューが続く形だ。うかうかしているとアリアとの距離が開いて、霧で見なくなってしまう。もしかしてミューが俺の隣を走っているのは、何気に気遣いの表れなのだろうか。

「はっきり言って、荷物にしか見えないんだけど」

 訂正。やはりこいつの言葉には気遣いなど感じられない。

「そんなにはっきり言うなよ……」

 武器は基本的に、音声や身体動作によるショートカットコマンドで取り出すらしい。でないと咄嗟の事態には対応できないからだ。

 しかし今回、俺はこの大剣を初めて使う。姉貴の設定したコマンドなんて知らないし、その確認や変更は、ゲーム中にはできない仕様だ。ゆえに、俺がこの大剣を武器として使うには、事前に携えていなくてはならない。敵に出会ってから、目の前で端末をちまちまいじってなんかいられないのだ。

「あのね、レイ。リフィア先輩の剣って、すっごく重くしてあるはずなんだよね」

 俺とミューが後ろで話していると、先頭のアリア先輩から声がかかった。どうやら敵を迎え撃ちながら、こちらの会話も耳に入れていたらしい。

 大剣の加重が響いて俯きがちに走っていた俺は、首を起こしてアリア先輩の方を見る。

「重量がある方が瞬間的な威力も出るし、突破力も上がるから……とか言ってたかな。それで一時期、どんどんどんどん武器を大きく、重くしていた記憶があるよ」

「な、なんすかそれ。いや、既に重いのは十分実感してますが……姉貴は本当に、これを武器として使ってたんですか?」

「使ってたねー。他人の武器を借りることはできないし、直接斬撃を受けたこともないからわからないけれど、リフィア先輩は重い重いって言いながら、でも楽しそうに使ってた。あんまり綺麗に振り回すもんだから、途中からは重いなんて嘘なんじゃないかと思っていたけど……やっぱりそれ、かなり重いんだね」

「重いなんてもんじゃないっすよ。これ担いで走ってるだけで、体重が二倍にも三倍にもなった気分です」

 そもそも俺はこいつを、携えているというよりは、文字通り担いでいる。剣として正しい持ち方をできていない。これを実用的なレベルで使っていたって……頭おかしいだろ。脳みそまで筋肉かよ。

「そっか。まあ……だろうね。そのせいかリフィア先輩の戦い方は、すごく独特だったよ。振り回すとき、いつも自分よりも剣の方に重心があった。担ぎざまに振り下ろしたり、遠心力を利用したり、とにかく全身の力を駆使していた。面積の広い刀身に隠れて、盾代わりに使っていたこともあった。一見するとその重みに振り回されているようで、実はちゃんと得物を使いこなしていたんだ。だから、その剣を使うときの先輩は、まるで剣と手を繋いで踊っているみたいだったよ」

「武器まで無茶苦茶仕様だなんて……俺にはそんな怪力ねえよ……」

「違うよレイ。装飾服から得られる身体的なサポートは、基本的にみんな平等なんだ。適切な判断と工夫さえあれば、その大剣も扱うことができる。リフィア先輩は多くの試行錯誤を経て、自分なりのスタイルを見出したはずなんだ」

 ……適切な判断と工夫、試行錯誤。って、言われたって……。

 それを聞いて俺が再び俯くと、アリア先輩はこちらを振り返り、高らかに笑った。

「あっはっはっは。でもね。ついさっきリフィア先輩の剣を手にした君に、そんなこと言ったって無理だよねー。見ていたらわかるよ。せいぜい一振りくらいが精一杯ってところかな」

 身体の正面を俺へと向けて、すっかり後ろ走りをしながら、先輩が言う。大きく開いた口はやがて閉じられて、今度は穏やかな笑みを口元に浮かべた。

「だから君の仕事は、その一振りだ。それだけでいい。そのために今、私が先頭を走ってる」

「………………」

 跳躍気味に滑走する中で、アリア先輩の視線は、ぶれずに俺を捉えているように思う。

 しかし発言の意図がわからなくて、俺は口を噤んだ。

 先輩が続ける。

「たとえばだけどね。君がそいつを担いで飛び上がってから、重力による勢いを借りて、思いっきり振り下ろすとする。そうしたら、止められる相手なんて絶対いないよ。もちろん、容易くかわされてしまうことはあるかもしれない。避けられてしまったら、そのあと君は重過ぎる武器を構え直すこともできずに、やられてしまうだろう。でもさ、だったら、あとなんてなければいいんだよ。君の渾身の一撃で、動かない相手のフラッグを叩き折ればいい。かわす敵は元より無視。逆に立ちはだかる敵がいたとしても、問答無用で貫通さ。リフィア先輩の大剣には、そういう力があるんだよ」

 すぐ前を走るソラもルナも、隣のミューも、アリア先輩を見つめて聞き入っている。

 そして先輩は、チームの皆に掛け合うようにして、俺以外にも目を配った。

「私はそのフラッグの前まで、君を連れて行くんだ。正確には、私たち、がね」

「……ありがとう、ございます。なんか、露払いみたいなことしてもらって、すいません」

「いいってことさ。私も嬉しいんだ。謝罪はいらない。礼は勝ったあとに聞こう。ね、みんな」

 先輩は笑う。口元をニヒッと引き上げて、快活に。ついでに右手を俺に向かって突き出して、親指を立てた。

 俺は頷き、同じように答える。背中のアーツが重くて少し辛かったが、笑いながら震える左の親指を立てて見せた。

「アリア先輩っ!」

 そこで突如、ソラの叫ぶ声がする。アリア先輩は振り返って前を向き、一瞬で俺たちを取り巻く空気が変わった。

「ははっ! お二人さん、いらっしゃーい!」

 見ると前方から、二人組の敵が向かってきていた。

 アリア先輩は速度を上げてそこに突っ込み、迎え撃つ。そしてまた、目にも留まらぬ閃光のような槍さばきで彼らを払い飛ばした。

 それでもよく見ると、二人とも跳ね飛ばされて体勢を崩してはいるが、シンボルペンダントはしっかりと守り通している。

 すぐにアリア先輩が声を張る。

「みんな、スピードを上げるよ! そろそろ私たちのフラッグの場所はばれてるだろうけど、ここまできたらもう大丈夫。敵は全員、無視して行こう!」

 俺を含め皆は、その指示に瞬間的な戸惑いを見せたものの、速度を上げて先輩に追随した。

 敵陣の体育館と自陣の美術室。この二か所の中間地点を、俺たちは既に超えていたのだ。もう大丈夫というのは、これから先に鉢合わせる敵が、仮にリタイアを免れて美術室を目指したところで、俺たちが勝負を決めるまでには間に合わない、ということだ。俺たちは、この特攻が実れば勝利。実らなければ負けという賭けに出ているのだから、その結末より後の戦況など、一切顧慮する必要はない。

「さあ、敵陣に近づいてきたよ。あの角を曲がれば体育館が見える。準備はい……おっと」

 背中の大剣のせいで俺が一番遅れるけれども、離されないように追いついたところで、先輩が何かに気づいたようだった。

 前を見ると、新たな敵影が目に映る。今度は五人だ。前に三人、後ろから少し離れて二人。二段構えの陣形で向かってくる。

「あーらら。西校さんも露骨だなあ。やっぱこりゃ、完全に情報伝わってるね」

 先輩は独りごつ。

 その推測の中身を求めて、ソラが尋ねた。

「露骨、というと?」

「向かってくるあいつら、みんな三年生だ。容姿に見覚えがある。前を走る三人が特にやり手かな。完全に私たちの特攻を知って、迎え撃つための編成だね」

「つまり、強敵ということですね」

「そーだねえー。さすがにあいつら三人は厄介だねえ。まずいねえ」

 アリア先輩の声音は穏やかだが、言っていることは事実だろう。その証拠に、敵は俺たちとの接触のタイミングを見計らったようで、前衛の三人が一斉にアクションを起こす。おのおの機敏な動作を一つ。さらに手元が一瞬だけ光り、素早く武器を取り出した。

 アリア先輩はくるりと回り、片手の人差し指をピッと立てて言い放つ。

「ま、仕方ないね。みんなごめん。つーわけで私、いっちぬっけたー」

「……えっ!?」

 その言葉に、俺は驚く。

 直後、アリア先輩はまるで子供のお遊戯を抜けるかのように、俺たち四人から離れてしまった。そして直進から逸れた先輩の軌道は一瞬だけ掠れて消え……突然、目前に迫る敵三人の真横から現れる。槍を横一線に構え、体当たりの要領でまとめて彼らを押し退かした。俺たち四人の進路を邪魔させないように。

 アリア先輩の一抜け宣言から、ほんの一秒にも満たない間の出来事だった。

 この視界の効かない霧の中での先輩の駿足は、敵にしてみたらまさに縮地同然だろう。文字通り横槍を食らって、完全に不意打ちとなったようだ。

 やがて、俺たちと先輩の軌道がちょうど直角に交わる。すれ違いざま、小さく囁くように先輩の口が動くのがわかった。先輩にしては珍しく、妙に落ち着いた声だった。

「じゃあみんな……あとは、任せた」

 前進を止め、三人の敵と一緒になって残り、遠ざかってゆく先輩。

 おかげで俺たちは難なく進むことができたが、前方からは敵の第二隊も迫っている。

 間髪入れずに、ソラとルナから次なる宣言が飛び出す。まるで先輩に対する答えを兼ねるかのような宣言が。

「了解しました! では、ここから先はこのソラと!」

「えっと……ルナが!」

「「先輩に倣ってお守りします!」」

 格好をつけるためなのか、二人は元々手にしていた装飾銃を、互いに乾杯のように当て鳴らしてから同時に構えた。白と黒の煌びやかな光線の協奏で迎撃を重ね、やがて加速をして正面から敵にぶつかってゆく。こんな決め台詞と共に。

「では、私はにっ!」

「僕は、さんっ!」

「「ぬーけたっ!」」

 二人はそれぞれ別々の敵に掴みかかり、瞬間的に食い止めはするものの、進路から外れて推進力を失った。

「……っておいっ!」

 お前らまで刺し違えるのかよ! そんなところまで忠実にアリア先輩を見習ってどうするんだ!

 アリア先輩と、ソラとルナ。三人の突飛な行動に、俺の頭は混乱した。一度に三人の離脱。これはいくらなんでもまずい。沸騰直前の頭でそう感じ、反射的に身体を反転させてブレーキをかけようとした。

 けれどもそのとき、左腕に引っ張られるような感覚が走り、神経伝達を遮断する。

「何をしているの! 走って!」

 視界の端にミューが映る。彼女が俺の二の腕を掴んでいた。思いの外に強い力で。

 そのせいか、こちらはバランスを崩しそうになる。

 彼女は続けて言い放った。

「あなたまで立ち止まってどうするのよ!」

 ハッとした。意識が動揺から引き戻され、冷静になる。

 ミューの叱咤は正しかったのだ。

 当たり前だ。南校の進撃が、俺たちの最後の賭けが、こんなところで止まっていいはずがない。三人は、限られた戦力の中で全滅を避け、進み続ける手段を選んだのだから。

 俺はすぐに体勢を立て直し、自分を引く彼女の手に勢いを借りて、廊下の角をなんとか曲がった。

 やがて道は校舎の外へと続き、テラスへと差し掛かる。ついに体育館をこの視界で捉える。

 その入り口につながる道を阻む者はいない。敵は、俺たちがこんなところまでくるはずがないと、さきほどの迎撃隊で事足りるはずだと高を括っているのか。それともあるいは偶然か。どちらにせよ、都合の良いことに変わりはない。

 駆けるミューの隣に俺が復帰すると、そっと二の腕から手が離れた。淡々と前を見据える彼女を横目に、俺の胸には少しバツの悪い想いがよぎる。

「………………」

 すると彼女は、わずかだけ首の角度をこちらへ回した。

「謝罪くらいしなさいよ。あと、お礼も勝ったあとに聞くわよ」

「お、お前……」

 アリア先輩と微妙に違う。

「……なんてね。ほら、窓から敵に見つからないように注意して」

 そんな憎まれ口を、彼女は叩く。けれども、今も俺に合わせてぴったりと隣を維持しながら走ってくれているあたり、やはりちゃんとした気遣いが感じられた。一度それに気づいてしまうと、あまり文句は言えないものだった。

 体育館の入り口は、もう目と鼻の先まで迫っている。足が地を蹴るたびに、心臓が跳ね、剣を握る手に力がこもる。

 館内にはもちろん敵がいるはずだ。四人か、五人か。感覚頼みの憶測では、そんな見積もりが浮かんだ。

 さて、どのようにして攻めるか。正直なところ、ここまでかなり大雑把なやり方できてしまったし、あまり細かいことは考えていない。それでも、体育館に突入してからの立ち回りくらいは、思い描いておいた方がよさそうだ。おそらく一瞬で勝負は決まる。

 たとえば、俺とミューが同時に突入して、左右に分散しながら、隙を見てどちらかがフラッグを狙う。これが最もシンプルで、かつオーソドックスなやり方だろう。敵の注意を俺とミューで分割して、フラッグへ手が届く期待値を上げる。シンプル故、ミスも少なく、所要時間も短い。敵側には、咄嗟の判断による対応を強いることができる。相変わらず大雑把だと言われれば返す言葉はないが、悪くない動きだと思う。あまり複雑過ぎても上手くできるか不安だし。

 俺はそう考え、プランをミューに持ちかけようとした。

 しかしそのとき、俺に並走していたミューが、黙って速度を上げて前へと出た。

「お、おい」

 彼女は振り返ることなく言う。

「私が先に中に入って、敵の注意を引きつける。あなたはフラッグだけを狙って」

 どうやら、あまり俺と思考が噛み合っていないようだ。

「ちょっと待った。お前が囮をやるのか?」

「何か問題ある?」

「下手な小細工をするよりも、正面からぶつかる方がいいと思うんだ。二人で同時にフラッグを狙おう。どちらか一方が届けばいいわけだし」

 そもそも囮を用いる場合、敵側がどれだけこちらの戦法にかかってくれるかわからない。囮を前提とした攻め方は、冷静に対応されたら一気に土台から崩れてしまうのだ。

 けれどもミューは、俺の提案を退け、はっきりと告げた。

「いいえ。フラッグを狙うのはあなたよ。担いだ剣の一振りで、相手のフラッグを取る。それがあなたの役目でしょう。そして、それを成功させるのが、私の役目」

 声はミューから発せられて、俺のいない前方へと飛んでいる。そのはずなのに、彼女の主張は俺の鼓膜をよく震わせた。

 ミューが俺を守り、俺が優璃の剣の一振りで敵のフラッグを取る。これは、さきほどアリア先輩がした話。ミューはそこに役目という言葉を混ぜて、再び述べたのだ。

「………………」

 俺は沈黙した。確かにそうかもしれないと思った。

 俺かミューのどちらかがフラッグへ届きさえすれば、南校は勝利する。これは事実だ。しかしその事実以上に、やはりフラッグを狙うべきは俺なのではないだろうか。俺が、この剣で、フラッグを勝ち取るべきではないだろうか。そう感じた。

 なぜなら、この勝負に賭かっているのは、俺の願いだから。俺と、優璃の願いだから。

「この道は、私たちの勝利へ続く」

 静寂の中、さらにミューが述べる。

「あなたはさっき言ったわね。さすがに最短かどうかは疑問だけれど、でも私は、あなたのその言葉を信じることにする。だからあなたも、私のことを信じなさい」

 大丈夫だから。そう付け加えるミューの声は、とても落ち着いていた。

「……わかった」

 俺は小さく頷いた。異論はない。信じろと言うミューを、俺は信じることにした。

 ミューの速度が上がる。俺を引き離し、やがて一足先に体育館の入り口へとたどり着いた彼女は、勢い良く扉を押し開けて中へと入った。

 交戦開始の音がする。

 数秒だけ遅れて、俺も続いた。

 すぐに注意深く辺りを見渡すと、霧の中にフラッグと、五人の敵、さらにミューの姿を確認することができた。体育館のだだっ広い空間の中心にフラッグがある。ミューは、フラッグからも俺からも離れた、左前方の壁際にいる。そして敵は、奇襲への動揺を見せながらも、二人がミューを仕留めに駆け、三人がフラッグ周りでの防衛に務めていた。

 一応、ミューがいくらかの敵の注意を引くことに成功している。しかし俺がフラッグの方を見据えると、その周りにいる敵からの視線もしっかりと感じた。

 大丈夫だろうか。しっかりとマークされているのだが。

 瞬間、不安になる。奇襲成功のビジョンが見えない。

 それでも、ここまできたら俺の取れる選択は一つしかなかった。

 三人と睨み合いながら、俺は右側から回り込むようにしてフラッグへと走る。

 敵は、一人をその場に残し、二人が迎え撃つように俺へと向かってきた。妥当な判断だ。そりゃあ、仕留めにくるに決まっている。

 さあ、どうするべきか。フラッグをいち早く狙うのなら、向かってくる二人を相手にすることはできない。かわすべきだ。接触は、大いに願い下げである。

 しかし、それが可能なほどの敏捷性を、俺が携えているわけでもない。だとすれば、切り抜けるためには担いだ剣を振る他にないと言える。

 いや、でも待て。それでいいのだろうか。この大剣を振って、なお体躯のバランスを保っていられる自信はない。減速は必至だ。

 敵との接触地点からフラッグへは、依然遠い。さらにその周りには、一人とはいえまだ敵がいる。ゆえに最後の一撃は、そこにとっておくべきではないか。

 どうする。どうすればいい。脳からの神経伝達が逡巡し、身体の中をぐるぐると回る。

 動揺。混迷。焦燥。

 それらが思考暴発のトリガーをぐいぐいと引っ張る。答えが出ない。決断が遅れる。敵は目の前だ。視界が歪んで、フラッグへの距離が何倍にも引き延ばされて見えてしまう。

「ああもう! 決まらねえ!」

 思わず口から本音が散った。

 というかそもそもあれだ。一人で三人相手にフラッグを狙うのが、無理無茶無謀という話ではないか。

 そんな風に、俺がやけになりかけた矢先だった。

 視界の左端にキラリと小さな光を捉える。一瞬のシャープな煌めき。武器の出現に伴う光だ。それが、ミューの姿に重なって見えた。

 そして直後、一筋の明滅が走ったかと思うと、突然俺の背後から衝撃波にも似た風圧と、強い閃光が襲った。風圧で、まるでドーム状の空間が拡大するようにして霧が散り、晴れる。閃光はあまりに多くの光量を生み、目を刺すような、霧とはまた違った白い空間を作り上げた。

 その風と光を、両方とも俺は背中で受け止めた。だから影響は少ない。

 しかし俺と睨みをきかせ合い、相対していた敵の方はそうもいかなかった。まともに正面から食らったはずだ。堪らず皆、その場で立ち止まり、目の前に腕を構えて壁を作る。

 ひとたびそうなってしまえば、俺を仕留めようとしていた二人は、もう恐るるに足らなかった。もはや揃って動かぬ銅像。踏み台も同然だ。

 俺は背中に担いだ大剣の安定を確かめ、脚へと意識を集中させる。そして飛び、彼らが構えた腕を踏み越えてさらに飛び、天井すれすれまで舞い上がる。空中で剣の柄に両手を添え、落下に伴って全身をしならせながら振りかぶった。

 眼下には敵のフラッグ。

 すぐ横に敵が見受けられるが、閃光で目が眩んだのか、俺への対処はおろか前方の確認すらままならぬ様子。

 ああ、邪魔する者はもういない。ついでに霧まで綺麗に晴れた。胸中で騒ぐ緊張を抑え、歓喜を抑え、焦燥を抑え、意識が吹っ飛びそうになるのを限界まで堪えて、俺は今一度、瞬きをする。

 そうして着地と同時、全身で倒れこむようにして、剣を目標に叩きつけた。

 受け身を取ることも忘れ、痛みと共に床に突っ伏し、意識を手放してしまう前。最後に俺が見た景色は、切り倒され光へと変わり、霧散するフラッグの残滓だった。

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