第1話
目が覚めると、幼女がまたがっていた。
それ以上でも、それ以下でもない。詩人でも作家でもない俺にとって、目に映る状況を端的に言い表せる言葉などほかに思い浮かばなかった。目を疑いたくなるような光景。
春の夜。
それが、すべての始まりの夜だった。
ふわり。
突如室内に入り込んでくる風。停滞していた部屋の空気が動く。そのせいで、俺は強制的に覚醒へと導かれた。
「うん……?」
あれ、窓ちゃんと閉めたはずなのにな……。
まあいいか。起きて閉めにいくのも面倒だし、このまま寝てしまおう。
「……ふむ。ここじゃな」
再び安眠の世界へと戻ろうとする俺の耳に、まるで幼い子どものような舌っ足らずな声が聞こえてきた。……子どもの声? 夢、だろうか……。
「こやつか。……眠っておるようじゃし、今の内じゃな」
次に聞こえてきた声が少しばかり大きくなったのと同時に、お腹の上に少しばかりの重みが。布団が丸まって腹に乗っかてしまったのか?
「……さて。おぬしの願い、かなえてやろう」
今度は夢の中で誰かが俺に話しかけてきたのか? そんな風に思ったその瞬間、ほとんど閉じたまぶたの向こうに眩しくも淡い光が見えた……気がした。柔らかに差し込んでくる、朝日にも似た、やさしい山吹色の光。
「ん?」
たまらず、目をすべて開く。
次の瞬間。
「うぬ?」
目が合った。目を疑った。いや、これは夢だろ、間違いなく。
俺の目を覚まさせた光はすでになかった。その代わりに、開かれたカーテンと窓からもたらされる月の光が部屋の中を照らす。そうして少しばかり明るくなった俺の視界の先には――。
幼女がいた。
繰り返す。幼女が俺の上に乗っかっていた。
「……は?」
思わず口をぽかんと開けたままの状態になる。
なにがどうなってるんだ? 誰だこの子?
月明かりと、目が暗がりに馴れていくおかげでその容姿が徐々に鮮明になっていく。まず目についたのが、日本人にはまずありえないような銀髪。それを後頭部でまとめている黄金色のかんざし。着ているのは白い着物……に見えるが、着物にしては肩が大きく開いて露出されており、丈も太もものあたりまでしかない。そして腰の部分には赤い帯が着物を支えている。
俺が起きたことに驚いたのか、きれいな翡翠色の瞳をした目が大きく開いている。
年は……小学校の低学年といったところだろうか。少なくとも見た目だけで判断するならそれくらいに見える。
マウントポジションをとっているそんな幼女を見て、まだ半分寝ている頭で必死に考える。真夜中、幼女、着物……。
そんな単語たちから連想されるものといえば――。
「ゆ、幽霊っ!?」
マジかよ。まさか本当にいるなんて。というか俺の前に現れるなんて。でも俺幽霊に化けて出てこられるようなことをした覚えはないぞ? それとも何かの祟りか? 呪いか?
ヤバいヤバい! えーと、えーと、こういうときは……そうか!
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ……」
必死に手をこすり合わせて思いついたお経をひたすら唱える。ぎゅっと目を閉じて脳内でも強く念じる。俺ナムアミダブツしか知らないぞ。その続きなんてわからん。
俺が一心不乱にお経(合ってるかどうかわからないが)をぶつぶつ唱えていると、目の前からため息が出てくるのが聞こえた。
「まったく、このわしに向かって幽霊呼ばわりとは。じつにぶれいな人間じゃ。しかも経なんぞ唱えおって」
「え……?」
ゆっくりと目を開けると、不満げに腕組みをしてこちらを見下ろしてくる幼女。彼女はちょんとした小さな鼻を鳴らしながら、
「せっかくわしが来てやったのじゃぞ? 諸手を挙げて喜ばんか」
「は、はあ……」
生返事をしたあと、彼女の下半身を見る。太ももから先へ、視線を移す。靴下をはいておらず、幼さの残る柔らかな指がはっきりと見える。
足は……ある。ということは、幽霊じゃないのか。
「それ……よっと。これがおぬしの部屋か」
もぞもぞと動き、幼女は床へと下り立つ。そして珍しそうに俺の部屋をキョロキョロと見回し始めた。
「……」
なんなんだ、一体……。
まだ夢でも見ているのだろうか。
「さむっ」
再び部屋に入り込んできた風に身体を縮こまらせる。そうか、窓が開いていたんだっけ。
ベッドから下り窓枠に手を掛ける。いくら四月になるといっても、夜はまだ寒い。さっきはめんどうだったけど、もう目が覚めてしまったし、閉めておくとしよう。
「ん?」
すると、奇妙な……いや、見慣れないものが目に入った。窓枠の手前、木製の枠の上に小さな赤い下駄が一足、丁寧に置かれていた。
これはあの子のもの、だよなあ。サイズもそれっぽいし。
ということはつまり……。
「ねえ君?」
「うぬ? わしか?」
「うん。君、この辺に住んでる子?」
俺はそう訊ねた。どうしてもっと早く気がつかなかったんだ。幽霊とかよりよっぽど現実的じゃないか。
近所の小さい子がイタズラ半分で他所の家に侵入。ありえない話じゃない。
「なっ、なにを言っておるのじゃおぬしは!」
慌てたように返してくる女の子。ははあ、これは図星だな。変なしゃべり方なのも、きっとアニメかなにかの影響なのだろう。
「わしは子どもなどではない!」
「うんうん、今はそういう風な設定なんだね」
牙をむいて反論してくる幼女を、やさしくなだめる。俺もあったなあ、そんな時期。幼なじみとごっこ遊びなんかをやったっけ。まあ、さすがに他人様の家に侵入するほどではなかったが。
「せっていとかではないわ!」
「あはは。でもあんまり聞き分け悪いとお母さんやお父さんに怒ってもらうからねー」
とは言ったものの、困った。この子がどこの家の子なのかなんてわからない。近所に聞いて回ろうにも、今は真夜中だ。ほとんどの人が夢の中だろうし、こんな時間に訪ねるのは非常識極まりない。
「……となると、警察に連絡した方がいいのかなあ」
親御さんが捜索願を出している、なんて可能性もあるわけだし。もしそうなら大事にならないうちに家に帰してあげた方がいい。
「そうと決まれば電話するか」
机の上のスマホを手に取り、電話をかけようとする。すると、いつの間にか目の前に立っていた幼女がふんぞり返っている。なんだコイツ。
「はん! おぬしよ、この状況でけーさつなどを呼べばどうなるかわかっておるのか?」
「どうなるってそりゃあ……」
警察到着。
真夜中の家に男子高校生と幼女が二人っきり。
俺、事情を説明。幼女、意味不明なことを言う。
言ってることが噛み合わない。誘拐を疑われる。
ということは最終的に――。
……俺、逮捕。たいほ。タイーホ。
「……それは、まずいな」
「じゃろ?」
にやりと笑みを向けてくる。家に勝手に入られた俺の方が被害者だということはゆるぎない事実だが、このご時世だ、あらぬ疑いをかけられることもある。さすがにこんなことで警察のお世話になりたくなんかはない。
くそ、ここまで計算づくで部屋に侵入してくるとは、なかなか頭の回る子なのかもしれない。
「しょうがない、朝まで待つしかないか」
夜さえ明ければ、ご近所にも聞いて回れる。この子も満足して帰ってくれるかもしれないし。
「ふむ! ものわかりの悪いやつめ。初めからそうしておればいいものを」
朝まで待つ、という選択を俺の敗北と受け取ったのか、勝ち誇ったように口角をつり上げる。
「はいはいっと」
ため息をつきながら部屋の明かりをつける。こうなったらとことん付き合ってやろうじゃないか。どうせ寝れないだろうし。
「そうと決まったらおぬし、わしをもてなせ! せっかくわしが直々に来てやったのじゃ。それくらいはしてもらわんとな!」
「もてなせって言われても……」
果たして俺の部屋にこの子が気に入るものなんてあるのだろうか。そもそもなんで勝手に侵入してきた人間をもてなさないといけないのか。
「なんじゃ、何も用意がないのか。それくらいはいつも備えておかんか」
「こんな真夜中に人が来るのを想定してる家なんてねえよ」
それもこんな幼女が、だ。
しかし、どうしよう。相手が子ども、それも幼女だとあんまり不機嫌にさせすぎると何をされるかわかったもんじゃないし……。
その時。
ぐううぅ。
口からではなく、腹から直接もてなしの要求が。何を求めているかはこれで明白だ。
「むぅ……」
直前まで上から目線で見上げていた幼女が、顔を少し赤くして小さくなる。そんな年相応の態度に、俺は頬を緩めてほっとする。可愛いところもあるじゃないか。
「あはは……。とりあえず、なにか食べる?」
スイッチを入れて、リビングの明かりをつける。
「ふあああ……」
本当なら今頃ぐっすり眠っていたはずなんだが。どうしてこうなった。
「……」
こうなった元凶である幼女は、裸足をぺたぺたさせながら、俺のあとをついてくる。我が家は別段変ったところなんてないのに、やけに部屋をキョロキョロ眺めている。まるで異世界か外国にでもやって来ているかのような様子だ。
「な、なんじゃこれは……!」
そう言って、部屋に置かれているソファを物珍しそうにじっと見つめる。あ、勢いよく飛び込んだ。仕舞いには「おおー」と感嘆の声を上げながら、ぽーんぽーん、とトランポリンのようにソファの上を楽しんでいる。
「あんまりはしゃぐなよ。埃立つから」
それと服が脱げそうになってるぞ。ただでさえ肩を大きく露出していて丈も短い服装なんだ。色々見えそうになっている。まったく、子どもにこんな服を着せるなんて、親の顔が見てみたい。
……それにしてもソファを珍しがるなんて、変わった子どもだなあ。この子家は純和風だったりするのかな。服装も和風(あまり和の心は感じられないが)だし。
そんなことを考えながら、奥のキッチンへと進む。
「えーっと……」
冷蔵庫を開いて、中を検分する。なにか残ってたりしたっけ。
子どもだからゼリーとかプリンとかお菓子を出せば喜んでくれそうだけど、生憎そういった類のものは入っていなかった。
どうしたものか……。というか俺もなんだか腹が減ってきた。
「おぬし、家族とやらはおらんのか?」
ぽんぽんとソファから音を立てながら、女の子が聞いてくる。
「いるよ。でも父さんは大学教授……えらい先生で、家を空けていることが多いんだよ」
今も学会だとかで家を離れている。行き先が海外で、なにかの調査も兼ねているから帰ってくるのは相当先になると聞いている。
「ふむ……」
俺の返答に満足したのかその話題に飽きてしまったのか、それ以上は聞いてこなかった。
「お」
そんな風に少し会話をしていると、冷蔵庫の中からあるものを発見。あとは……。
「貢ぎ物はまだかー?」
「もうちょっと待ってろって」
炊飯器の中を確認……よし。
残っていたご飯をレンジで温めて、水と塩を用意。これで準備は整った。
発見したあるもの――梅干を埋め込み、ご飯を握る。
そう、俺が作ろうとしているのは日本人のソウルフード、おにぎり。これなら普段スーパーの惣菜料理とかで過ごしている俺でも作れるはず。それにソファを珍しがる着物の和風(?)幼女も満足してくれるだろう。
「あれ?」
不安を感じながら始めた料理(おにぎりを作るくらいが料理といえるのかどうかは疑問だが)だったが、完成品は色合い、形ともに今まで見てきたおにぎりの中で最高ともいえる逸品だった。
ほぼ初めてだったけど、意外とうまくできるものなんだな……。てっきり一回目はぐちゃぐちゃで目も当てられないものになると思っていたのに。
続けて作った二作目、三作目も完璧だった。……我ながら恐ろしい。
もしかして隠れる料理の才能が開花した、とか?
「おい、まだかー?」
「おっと、今もっていくよ」
自分の夜食用も含めて合計五つのおにぎりを皿に乗せ、リビングのテーブルへと運ぶ。
「ほら、好きなだけ食べろ。味は保証しないけどな」
「おお! 握り飯か!」
握り飯って、いつの時代の人間だよ。まあうれしそうにしてるならいいか。
幼女は顔を輝かせながら手近にあったおにぎりをつかみ取り思い切りかぶりつく。そしてもぐもぐと咀嚼。「んー!」梅干しの酸っぱさに顔と口をかわいらしくすぼめてから、
「うまい!」
「そっか。ならよかった」
ぺろりとたいらげると、すぐさま二個目に手を伸ばして食べ始める。
「おいおい、そんなに急がなくても取らない……ってご飯粒ついてるぞ」
「うむ? どこじゃ?」
「ここだよ。……ほら」
幼女の頬についたご飯粒を取ってやる。
「む……。めんぼくない」
しかしこうもいい食べっぷりを見てるとますます腹へってきたな。食べるとするか。
「それにしても美味じゃ! 中にはいっておる梅干もさいこうじゃ! おぬしは料理がうまいのじゃな!」
「はは、ありがとうな」
お気に召していただけたようでなにより。
俺も手前のおにぎりをひとつ取って口に運ぶ。おお、美味い。料理なんて普段しないから絶対ヘタクソだと思ったんだけど……よくわからないもんだな。
しかし、そんな俺の小さな疑念は、次の彼女の言葉でかき消された。
「いやーうまい! 人間の作ったものを食べるのは初めてじゃが、これほどうまいとはな!」
「ん……?」
ちょっと待て。なんだって?
「うぬ?」
「お前……今なんて?」
念のため、聞き返す。
「人間の作った食べ物を食するのは初めてじゃと言ったが……それがどうかしたのか?」
きょとんとした顔で首をかしげてくる幼女。
「いやいや嘘だろ。おにぎりなんて今までいっぱい食べてきただろ?」
「なにをいうか。握り飯を食べたのは今日、おぬしが作ってくれたのが初めてじゃ」
うーん……?
彼女を見る。宝石のような眼からは純粋な輝きが放たれており、この子が嘘をついているとは思いにくい。
「一応聞いておくけど、その……人間が作ったーとかいうのも、なにかの設定なんだよな?」
「おぬしがなにを言っておるのかよくわからぬが、わしはさっきから本当のことしか言っておらぬぞ?」
「……」
悪い冗談だよな? 俺は小さい女の子の話にまんまと乗せられているだけだよな?
「そういえば君、家はどこにあるの?」
先刻答えをもらえなかったことを再び、質問してみる。家がどこかわかればこの幼女の言動の謎も解ける。そう思って訊いてみたが、
「家か。わしの家はの、あっちじゃ」
言って幼女は指をさす。その先は――。
「……壁?」
「阿呆か! もっと先じゃ! わしの家は……」
その先の言葉に、俺はさらに頭が混乱する。
彼女が言った『家』とは。
近所の無人の神社の名前だった。
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