僕の話を聞いていきますか? ああ、ご自由に。

時雨逅太郎

泥濘

 自分が泥濘の中にある。その文章が頭に浮かんだ。

 文章に付随していたのは、くぐもった苦悶の声であった。私は、はて、と首を傾げた。

 泥濘とはどういう意味であっただろうか。

 私は泥濘という漢字から、イメージを直感的に理解していたが、果たしてそれが正しい言葉遣いであるかを疑った。日常生活における会話であれば、言葉など所詮エフワンのように流れて行ってしまうものであるからそこまで気にする必要はないのだが、私はこれを気にせざるを得なかった。私は物書きだから。

 調べると、泥濘とは、私は「でいねい」と呼んでいたが、「ぬかるみ」とも読める、との検索結果が出された。ぬかるみ、ぬかるみ。ああ、そうか。そういえばこれはぬかるみとも読むんであった。いや、むしろぬかるみと呼んだ方が普通である。ああ、そうだった。

 私はそんな風に、久しぶりに思い出した泥濘という漢字、ぬかるみという音の組み合わせにほんのちょっとだけ感動した。だが、次の瞬間には再開を果たしたそれを、脳の押入れの巾着餅のように結ばれたゴミ袋達の隙間に、ぽいっ、と放り投げ、私は今、ぬかるみの中にあるのか、なぜだろう、などと、行く宛てのない思案を始めたのだ。

 私が泥濘にある、というのはきっと私が身動きの取れない哀れで愚鈍な子羊である、ということであろう。子羊には主の救いももたらされず、永遠に泥水を啜ることになる。……泥水を啜ったとき、どんな感じがするか、皆さんはご存じだろうか。ざらざらするのだ。歯ではない。舌? 半分正解だが皆さんの想像する舌の先っちょ、アイスキャンディーを舐め味わう部位ではない。歯と舌の側面がくっつく場所。あそこだ。あそこがざらざらとするのだ。

 こんな余談に意味はないが、でも、泥水を飲んだことはありますか。

 ……私は自らを哀れだと思ったことが幾らでもある。数えきれないほど。救いがない人間だな、この男は、とせせら笑ったり、嘲ったり! しかし、まあそれでも幸福に生きている自分が傲慢だと感じ、恵まれすぎている、などと対のことを考えてしまうのだ。私が単純に躁鬱であると言われればそれまでの自己矛盾というか、一貫性のなさというか。

 私の言いたいことなんて見つけなくていい。私も見つけていない。遊びを、遊びと解さないのならもう早々に立ち去ってくれ。それはあなたの問題だ、私の問題などではない!

 お分かりか。結構。

 そう、なんだったか。泥濘だ。私は泥濘の中にいるらしいが、どうも私はそうは思えないのだ。自分のことを全く救いようのない隔離病棟で生を進めるべきような男であると思っていても、人生を、あー、自らの人生をそんな風に考えたことはないのだ。だから、私は自分の無意識が吐き出した軽い軽い一文が、とんでもないエラーではないか、はたまた大発見なんかではないのかと、だから、こうやって突っかかっているのだ。

 ポップコーンってあるだろう。ポップコーン。あれができるところを見たことはあるか。別にあれができるところはどうでもよくて問題なのは、ポップコーンを作る機械の方だ。そう、あれみたいなものだ。なにがって? あれだよ。脳。脳の話をしているんだ。脳は実に様々な情報をあれこれぽんぽんと吐き出してくる。その様がまるでポップコーンマシーンなのだ。一度始まればこちらの制御など受けず、延々と同じようなものをアウトプットして、その中から天才は閃きというものを得るのだろう。受け流さない、しっかりと観察する、分析する。

 天才の話なんてどうでもいいのであって、問題はポップコーンだ。

 いや、ポップコーンじゃなくて、あの、あれ。

 ぬかるみ。

 そう。で。えーと。あの。なんでしたっけ。覚えてますか。ああ、そうそう。泥濘の中でしたっけ、私がいるのは。でもこれも実質、泥濘みたいなもんですよね、はは。じゃああなたも泥濘の中なわけだ。

ようこそ。これが泥水のざらざらした触感ですよ。そう、舌と歯が触れ合う、そうそこ! ざりっ、ってするでしょ? 細胞が壊れるわけじゃあないけども、あなたの舌の味蕾にミクロ単位の砂が入り込んでいつまでも残ってしまうような、そう、それです。

 ところで私はもう泥濘の中にいないんですね。じゃあこれでおしまいです。



 ……え? ……なんか後味が悪いって?

 いやあ、面白いこと言いますね。当り前じゃないですか。

 だってこれ、泥濘ですから。

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