笑い袋
大葉奈 京庫
第1話
あれは若かりし頃の春の珍事。高校に入学したばかりの彼ら生徒の大半は、借りてきた猫よろしく皆が皆まだ大人しい。それもその筈で、四つの中学校から一つの高校に集まってきた彼らにすれば、何事にも気恥ずかしさや気後れが常につきまとう。そんな奥ゆかしくも清新な青春時代の一ページであった。
先週満開だった校庭の桜の花々は潔く散って姿を消してしまっていたが、長閑な風にそよぐ緑の葉や木の梢が、校舎の窓から降り注ぐ柔らかな日差しに微妙な彩りを添えている。
そんな平安な放課後の教室に、突然けたたましい笑い声が空間を席捲しながら轟いた。正確には教壇の上にポンと置かれた袋の中のテープレコーダーに録音された不思議な音楽が数秒ほど聴こえた後に、同世代と思しき男子一人の熱い大爆笑が大声で約一分ほど流れた。その短い時間には決して一本調子ではなく聴く者の心を躍らせる波と迫力が漲っている。
笑い声は天を貫くほどの甲高い調子から、急転直下一挙に深海の底を這うような低音にも変化した。そんな独特な波を形成しながら笑っている誰かは、物凄い対象と遭遇しているに違いなかった。その対象は正体不明だが、ひょっとするとチャップリンの映画に匹敵するほどの類い稀なドタバタ喜劇なのかもしれない。
だとしても遭遇した者が直ちに感染し抱腹絶倒するこの大笑いは只事ではなかった。これは即興の演劇などではなく単に再生された音声に過ぎなかったが、掃除当番で残っていた者も含めて教室にいた生徒全員はすっかり魅了されてしまい、爆笑の渦に巻き込まれ、そこから抜け出せなくなっている。
男子は身振り手振りし腹を抱え笑い転げる者が多く、殆どの女子は泣き笑いに近い状態で椅子に座ったまま両手で顔を覆い隠し、机に突っ伏していた。しかもいたくこの笑いの装置に感嘆した男子が、執拗に繰り返しこのテープを面白がって再生してしまう。この為、底なし沼のような出口の見えない笑劇へと場は化していった。
「おいおい、なんなんだよ。これ」
「そんなの、笑い袋に決まってるじゃない」
「ちょっと、もうやめてよ。面白すぎるって」
「オシッコ漏れそうなんで、トイレ行く」
流石に大爆笑の波状攻撃に降参する反応を示しはじめた生徒も見受けられはしたが、それでも教室内の全員がまだこの笑劇の渦中を楽しんでいるようでもあった。漫才や落語という台本のある娯楽ではないが、ひどく短い変な音楽と笑い声だけという台詞の無い世界がこれほど迄に馬鹿々々しく可笑しいとは。
その時の彼らはこのまま一生笑い続けるのではないかと、誰もがそう感じていたようだ。何せ笑っている状態がブレーキの効かないダンプカーの如く止まらないのだから。あの時、どのようにして笑劇が終わったのか、それは数十年が過ぎた今となっては定かではない。ただ確かなのは、あのダイナミックな音の結晶が容易に忘れ去られるエピソードではなかったということだ。それが証拠に五年ごとの同窓会ではあの笑いを体験した者が、どこかのタイミングで必ず話のネタに上げてしまうではないか。
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