サウンド×ノイズ

絹谷田貫

1

sound 2 [ sund ]


[形](~・er, ~・est)




1 〈論理・判断などが〉適切な,思慮分別のある,隠健な,〈人が〉(…について)正統的な,意見が適切な((on ...))


2 〈身体・精神などが〉健全な,健康な. ⇒HEALTHY[類語]


3 〈物が〉いたんでいない,腐っていない,完全な




A sound mind in a sound body.




((ことわざ)) 健康な身体に健全な精神(が宿らんことを).






  ***


 建物のすぐそばの銀南の木がひどく寒そうに見えたので、僕も思わずそういう顔になっていたのかもしれない。


 内見に来たアパートの前でパーカーの前をぎゅっと合わせていると、大家のお爺さんが訝しげにこちらを見た。実際は秋の入り口で、それほど寒くもないのだから、十分厚着をしているように見える学生が突然こんなしぐさをすれば、確かになんとはなしに奇妙だろう。


「冷えるかぃ?」

「いえ」

「エアコンぁ――、付いてねぇからね。冷え性なら他所にした方がいいよ」


 大家さんがそんなこと言っていいんだろうか。「風邪引いたらいかんよ」と言う大家さんの隣で、建物を見上げる。エアコンがついてないだけあってなんとも家賃は安かった。


 何かに取り残されて、静かにじっとしている建物と、木。


 僕はその、庭に一本銀杏の生えたアパートに入居することに決めた。


 大学では知り合いが変な時期に引っ越すもんだといいながら、何人か手伝いを申し出てくれたが、狭い部屋に何人も人を呼んで一緒に動き回るなんてぞっとしないこと、とてもではないが僕にはできない。


 それにそもそも荷物がないのだ――僕の私物と言えば衣服と大学の教材ぐらいで、前の住処は冷蔵庫からベッドまで備え付けだったので、それらは少しずつ揃えていくことになる。僕は結局大きなボストンバックを一つ、知り合いの一人から借りるだけで済ませてしまった。「スナフキンみたいなやつだ」と笑われたのだが、それはそれで、悪い気分ではなかった。


 引っ越したその日の夜を、僕はすこし色の剥げた畳に何枚も厚着をして丸まって寝た。妙な形の石ころにでもなった気分で。


 静かな時間に溜息が漏れた。


 満足げに。


 翌日、ご近所さんに挨拶にいった。僕は(大変幸運なことに)二階の角部屋をとることができていたので、隣と下とに洗剤でも配ればいい。お隣は朝夕ベルをならしたが返事がなかったので、置き手紙と一緒に玄関先においておいたが、真下の部屋の住人とはすぐに会うことができた。健康という概念を人の形にこね繰ったみたいに生気に満ち溢れた男で「オジマサミツ、玉の緒の緒に地面の地、政治が光るで政光」と名乗った。


「よろしく」と、緒地は頭をかきながら言う。

「やっぱりこの辺だと学生が多いんですね」


 と、緒地が同い年程度に見えたので、僕はどこか安心しながら言った。他人のことはよくわからないが、年が近ければ近いなりに、少なくとも離れているよりかは分かりやすいだろう。


「ま、土地柄な。安アパートは学生の巣窟って決まってるさ」

「204も?」


 留守にしていたお隣について聞く。


「人が住んでるのかい。あそこ」

「大家さんにはそう聞きましたけど」

「物音一つしないぜ」


 緒地がいかにも不気味そうに肩をすくめる。


 僕は自分の頭を上げて、そちらにあるだろう204号室をみつめた。


「騒がしいよりはましなのぁ確かだな」

「それはもう」


 この上なく、同意するところだ。


「あんたも騒がしい風には見えないからな」


と、いうと緒地は笑って、続けた。


「飲ませるとやかまし屋になるのかむっつりだまるか、見てみたいな。なんか食ってけよ」


 人懐っこく誘われて、僕はしばらく頬を掻いたあと、結局誘われるがまま緒地の部屋に上がり込んだ。緒地は人とのコミュニケーションが特に上手な性質なんだろう。僕はこういうことを頑張らないといけない。


 僕にとって騒がしくない程度に歓談することのできる、緒地の多分無意識の手加減に感心しているうちに、その日は過ぎた。


 緒地と仲良くなるのにそれほど時間はかからなかった。一ヶ月もすれば、僕の口調から敬語が消えるのは簡単で、僕は彼の部屋の合鍵の隠し場所まで教えてもらった。きっと彼は誰かと親交をもつのに時間がかかったことなど無いに違いない。僕はといえば恥ずかしながら根暗を図解してみたような人間だから、こう言う人付き合いには新鮮なものが多々あった。そう緒地に伝えると、「挨拶に来た足で酒のんで帰ったやつのどこが根暗だ」とからかわれる。


「君の方から誘ったんだ。いつもあの調子で女の子でもつれ込んでるんだろう? 」

「どの道、そんな憎まれ口が叩けるんだから上出来さ」

「僕の根暗ってのはそういうのじゃないんだ」


 安い酒を紙パックのカフェオレで薄めた(割った、とかそんな上等なものではない)ひどい飲み物を飲んで、僕は重ねる。


「そういうのじゃないんだ」


 窓の外で相変わらず銀杏が寒そうにして、木枯らしもないのに葉を散らす。それを横目に眺める僕のグラスに、緒地はもう一杯酒を注いだ。

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