2.小悪魔くんは片思いの賞味期限前に

 好きな人がいる。片思いしてる。

 コートに立っている時の、正面を鋭く睨みつけた真剣な顔が好きだった。


 練習前に行われる準備運動のクライマックスは、体力づくりのために体育館の周りを走る『外周』と呼ばれるもので、走り終えた人から体育館に戻ってきて休憩時間に入る。

 女子バスケ部はさっき外周がはじまったところだけど、男子バスケ部はそろそろ戻ってくる頃。タオルを持って待っていると、一人目が戻ってきたところだった。息はあがっていて、苦しそうに肩が上下している。それから体育館の壁にもたれかかって、ずるずると倒れこんだ。


「お疲れさま、ふたざわ


 タオルを手渡すと、苦しげだった瞳が力を取り戻し、こちらを見つめ返す。走っている時とは違う穏やかで、優しい光を湛えていた。


 そして切り替わり、笑顔が弾ける。にこっと擬音でもついていそうなほどわかりやすく、くしゃりと顔を緩ませて二見沢が言った。


西那にしなセンパーイ、たっだいま! タオルあざっす」


 「はー。ふかふかのタオルきもちいいー」とタオルに顔をうずめて喜んでいる姿は、昔飼っていた犬を思い出す。その犬も楽しそうに外を駆け回って家に入る前、お気に入りのふかふかのタオルで何度も足踏みしていた。

 それを思い出してくすくす笑っていると、二見沢が顔をあげた。


「なあにー? センパイ、ニヤニヤしちゃって」

「二見沢って昔飼っていた犬に似てるんだよねー。実は犬だったりする?」

「オレは人間です! ってか犬飼ってたことあるんすね。いがーい!」

「白のもふもふサモエドね。写真あるから今度見る?」

「みるみる。西那センパイ優しいからだーいすきっ」


 と言って、ぴょんと跳ねて抱きついてくる汗だくの塊。ふわりと揺れた二見沢の髪と服越しに伝わる体温に、緊張してしまう。


 誰にでも抱き着いたり手を掴んだり、二見沢の距離感がおかしいってわかっているけれど、心臓はどくどくと急いていて、声が震えた。「二見沢ったら」と呆れたように言いたいのに、うまく言えない。


「まーたが、じゃれついてんぞ」


 そうして話している間に次々と男子部員が戻ってきて、二見沢に声をかける。ふたみん、というのは一部が使う二見沢のあだ名だ。


「ほら、西那マネを離してやれって」

「えー、じゃあ今度は誰にしよっかな」


 部員に言われて、二見沢は唇を尖らせて離れていく。そしてきょろきょろと体育館入り口を見て標的を探していた。その視線は戻ってきたばかりのバスケ部一年生一ノ瀬いちのせで止まる。


「あ、イッチー発見! 抱きつき攻撃をおみまいしてやる! モテる男に攻撃だー!」

「うわっ何するんですか、ふたみん先輩!」


 だだっと駆け出し、一ノ瀬に抱きつく。さっきの私にしたものと同じように。

 嫌がる一ノ瀬とじゃれつく二見沢と。それを見ながら笑っているバスケ部男子部員たちと一緒に、私もくすくすと笑う。


 二見沢は誰にでもああやって接するから、私だけが特別なわけじゃない。ハグなんて他の国じゃ挨拶で、二見沢にとっても挨拶なんだ。

 わかっているけれど、少し前のときめきが残っている。特別なんかじゃないのに特別な気持ちを残していく、二見沢とのやりとり。


 私は二見沢に片思いしている。去年からずっと。


 だけど告白とか、行動を起こしたことはなくて。

 だって好きなんだと相手に知られてしまえば、この関係は終わってしまうかもしれない。名前を呼んでくだらない話をして抱きついたりするような、気楽な関係が壊れてしまうのが怖くて。


 片思いの結末はハッピーエンドだけじゃない、報われないものだってある。だめだった時が怖いから動けずに、片思いはずるずると続いていた。

 って、永遠にずるずると続くものならいいけど。食べ物に賞味期限があるように、片思いにも期限というものがあって。


「集合! 二年生はこっちに集まってくれー」

「はいはーい。二見沢、いっきまーす」

「ちょ、ふたみん先輩、引っ張らないでください! 俺は一年ですって!」

「イッチーも巻きこみ! 引きずってくぞ」

「うげ。首が締まりそうっす……」


 じゃれ合っているうちに休憩時間は終わって、二見沢も走っていく。


 私もそろそろ仕事をしなきゃ。去年までバスケ部マネージャーは私だけだったけど今年は大豊作。一年生のマネージャーが増えたから、仕事を覚えていってもらわないと。


「西那先輩、次は何準備します?」

「じゃあ次は……」


 二見沢は高校二年生、私は高校三年生。同じ場所に通えるのは一年間。

 この片思いの賞味期限は、あと一年しか残ってない。


***


「……で、今日も変わらず進展なしかあ」


 昼休み。不満そうな顔でお昼ごはんのハムサンドを食べているのは、友達のとうカナデ。ほおばったハムサンドを飲みこんだ後、両手を大きく広げて言う。


「もっとこう、ばーん! どーん! と進まないもんかねぇ。もじもじしてて見てられないよ」

「そう言われてもさー……」

「いっそのこと『ふたみん』って呼んでみたらどう? 語尾にハートマークつける感じで。あとニナも『ふたみん大好き』って言って抱きついてみるとか」


 それができたら片思いをこじらせていないって。心中でツッコミしつつお茶を飲む。購買で買った紙パックのウーロン茶が最近のお気に入りだ。

 ニナというのは私のあだ名。名字が西那なのでニナって呼ばれている。


「カナデちゃん、無茶言っちゃだめよ。ニナちゃんだって部活とか学年の違いとか色々あるんだし」


 助け船を出してくれたのはもう一人の友達ことあや

 綾乃と私はマネージャー仲間という共通点がある。私はバスケ部、綾乃は野球部のマネージャーだ。数名高校の野球部は今年こそは悲願の甲子園なんて息巻いているので、マネージャーも忙しいみたい。


 そんな綾乃が参入してきたことでカナデの目が光る。


「やっぱ『甲子園に連れていく』なんて約束してもらった子は違うねぇ……」

「ちょ、ちょっとカナデちゃん!?」

「いいよねぇ、青春。相手はあの九重ここのえでしょ? 何考えてんのかわからない無口男でも青春に染まるんだなぁ……で、もう付き合ったの?」

「付き合ったりとかそういうのは……今は大会もあるし……っていうか私たちそんなのじゃ」

「くー! 両片思いってやつ!? ドラマじゃん、青春じゃん。あーあ羨ましい」


 綾乃をからかって満足したのかカナデは机に突っ伏してぼやく。


 そんなカナデは恋多き乙女だ。オシャレが好きな子なので、部活に入るよりもアルバイトをして、可愛い服を一枚でも多く買いたいとよく話している。飽き性なところがあるのでバイト先はころころと変わり、『今度のバイトで彼氏を見つける』なんて宣言はよく聞く。


「のんびりしてられないんだよぉ……だってもうすぐ夏じゃん? 秋は受験勉強だし、冬は登校日少ないし。高校生でいられるのってあと少ししかなーい……」

「そうね――ニナちゃんも頑張らないと。二見沢くんと一緒にいられるのって今だけだよ。片思いもできなくなっちゃう」


 頑張れってのは二見沢との距離を縮めろという意味であって、その意味が伝わっているから私は頭を抱える。

 どうしたもんやら。はあ、とため息を吐いた時、教室の入り口で騒がしい声が聞こえた。


「ちーっす! バスケ部の連絡でーっす! 西那センパイと篠宮しのみやセンパイいますかー?」


 振り返れば、そこにいたのは二見沢だ。話をすればなんとやらというやつ。

 目が合うと二見沢はずかずかと教室に入ってくる。上級生の教室でも容赦はない。


「あー、美味しそうな唐揚げ食べてる。いいなー」


 一直線にこちらへやってきて、ぐいっと私の肩に顎を乗せる。視線は机上のお弁当に向けられているんだろう。

 そのやりとりを眺めていたカナデは「騒がしいヤツきた……」とため息をついているし、綾乃は苦笑していた。


「ひとつ食べる? お腹いっぱいだからいいよ」

「ラッキー! 西那センパイって優しいからだーいすきっ」

「はいはい。じゃあ一つどうぞ」


 二見沢は喜んで唐揚げをつまんでいる。それを食べ終えてようやく本題に入った。


「んで、連絡なんですけど。今日は体育館じゃなくて部室に集合になるそうです」

「わかったよ。教えてくれてありがとう。他の人たちにも伝えた?」

「三年生は……あとは篠宮センパイだけっすねー」


 そう言って二見沢くんは教室を見渡すけれど、バスケ部三年の篠宮はどこにもいない。


「篠宮くんは、弟さんたちとご飯食べてるんじゃないかな? いつもお昼休みは教室にいないのよ」


 きょろきょろと探している二見沢に言ったのは綾乃だ。


「なーるほど! 教えてくれてありがとうございます。で、センパイの名前は?」

「私は野球部マネージャーの久瀬綾乃です。よろしくね」

「久瀬センパイだね、かーわいい名前! オレ、優しいセンパイだーいすきっ」


 いつもの流れに進んでハグ……となりそうなところで、私が止める。


「こらこら。綾乃に抱きついちゃだめだって。こわーい野球部の人たちにボコられるよ」

「それは困る! じゃ、オレは篠宮センパイ探してきまーす」


 そう言って二見沢が綾乃から離れたので安心する。

 放っておいたら綾乃にも抱きついていたんだろう。コミュ力があるというよりも人懐っこさが限界値まで達してフリーハグ男になっている気がする。


 他の人にじゃれついているところを見るのは毎日のことで。それが先輩後輩男女関係なく、時には先生だってターゲットになっているぐらい。だから見慣れているけれど。


 こじらせた片思いは、寂しいなあと呟いていた。私にしか聞こえない、心のずっと奥の方で。




 部活が終わって体育館はがらんと静かになる。

 部員たちは今頃更衣室で着替えているのだろう。私たちマネージャーも後片付けをして帰るだけだ。


「西那先輩、用事あるので先に帰りますね」

「うん。お疲れさま。また明日ね」


 一年生マネージャーたちを見送って、最後の確認。ウォーターサーバーも片付けたし、洗濯物を干すのもばっちり。部活動日誌は書き終わっているから、私もすぐに帰れそう。


 そして体育館の隅に置いてある荷物を取ろうとした時、ぽんぽん、とボールの弾む音が聞こえた。


「あっれー、西那センパイまだ残ってたんだ」


 音の方を見れば、そこにいたのは二見沢くんだった。ジャージから制服に着替えてはいるものの、バスケットボールを持っている。


「どうしたの、忘れ物?」

「ちょっと練習しよっかなーと思って。あ、部長と顧問の許可はもらってるんで安心してくださーい」


 軽い調子で言った後、制服のジャケットを脱ぐ。ネクタイも外して、ジャケットの上に放り投げた。


 こうして二見沢が居残り練習をするのは珍しいことじゃない。何度も、彼は体育館に戻ってきて練習している。


「手伝おうか?」


 私が声をかけると二見沢は首を横に振った。


「センパイったらやさしー! でもオレのことは気にしないで帰ってだいじょーぶ!」


 そう言って、二見沢はゴールを睨む。普段と違う真剣な瞳。


 数度ボールを弾ませて集中力を高め、するりと放つ。

 バスケットゴールの真横、いわゆる0度の角度。ゴールリングからは遠く、その位置から放ったシュートが入れば3点入る。スリーポイントシュートというやつだ。


 けれど、二見沢が放ったシュートはリングをぐるりと回って落ちた。

 それでも諦めない。ボールを拾って再び同じ位置からシュート。それを何度も何度も繰り返す。


 二見沢のことを好きになったのは、バスケットボールと真摯に向き合っているこの姿を知ってしまったから。普段との違いに驚いて、好きになっていた。

 だから応援したくて、二見沢の元に向かう。


「私、動画取るよ。シュートフォームの確認できるでしょ」

「それめちゃくちゃ助かる。あざまーす」


 こちらに向けて話す時はふわりとした笑顔で、でもボールを持ったら変わる。

 スマートフォンの液晶には二見沢がつま先から頭のてっぺんまで映りこんでいて、きっとこの動画は消せないと思った。


「オレの好きな選手が、この位置からスリー打つの得意でさ。めっちゃ格好いいんだよー」


 私にとって、格好いいのは二見沢だよ。

 そう伝えられたら、楽なのに。


 放ったシュートはリングに弾かれて、落ちた。


***


 賞味期限はあと一年を切っている。わかってはいるけれど、なかなか動くことは難しい。


 その日は春なのに少し暑くて、放課後になってもなかなか温度は下がらなかった。部活はあるけれど、今日までに提出しないといけないグループワークのプリントがあって、私は教室に残っていた。


「はー……夏がきちゃう。彼氏ほしい」

「はいはい。頑張ろ」

「ニナだってさー……がんばらないとさー……」


 ぼやくカナデを宥めてプリントを進める。カナデのやる気はゼロになっているのかまったく進んでいないようだった。


「書かないと終わらないよ」

「だってめんどうだしー……こんなんやらなくてもよくない? 勉強なんかしなくたって大人になれるっつーの」

「私、書き終わったから部活行っちゃうよ?」

「そーれーは困るー。プリント見せてー、助けてー」


 こうしてカナデに付き合っているうちに、時間はどんどんと過ぎていって。居残りから解放されたのは、とっくに部活の始まっている頃だった。

 部活に遅れることは伝わっていると思うけど、私以外のバスケ部マネージャーは一年生だから不安になる。駆け足で体育館へ向かった。


 体育館について、女子更衣室を目指す。動きやすいジャージの方が楽だから、まずは着替えよう――と思っていたけれど。


「――そういうところ、あざとくて嫌いなんだよな」

「わかるわかる」


 ぼそぼそ、と聞こえてきたのは男子の声。水飲み場の影で男子たちが話しているらしい。

 聞いてはいけない会話だと悟って、とっさに身を隠した。掃除用具入れの影に座りこむ。


 今日体育館を使っているのはバスケットボール部だけ。ということは男子バスケ部員、ここで話しているってことは休憩時間なのかも。

 声から察するに二見沢じゃない。三年の篠宮でも一年の篠宮弟でも一ノ瀬でもない。おそらく二年生だと思うけど誰だろう。気になって聞き耳を立ててしまう。


「みんなに好かれようとしてるのバレバレじゃん? 女子バスケにもいい顔してるし」

「八方美人だから、二見沢は」


 出てきた名前に、心臓がどくりと大きく騒いだ。私のことではないのに、なぜか胸が苦しくて嫌な汗が出る。

 この人たちは二見沢の悪口を言っているんだ。状況を理解すればするほど苛立っていく。


「三年を差し置いて二見沢がスタメンっての許せねー」

「あいつが先輩の気持ち汲むなんてできないっしょ、目立ちたがり屋だから」

「顧問と仲いいからさ、仲良し選出あるんじゃね?」

「ありそー。こないだ顧問に抱きついてたの見た。おっさん相手によくやるよ」


 彼らは、スターティングメンバーに二見沢が選ばれたことで不満を抱いているようだった。

 男子バスケ部は人数が多いから全員が表にたてるわけじゃない。ベンチに入れない子だっている。選出基準は年齢じゃなくて実力だから。


 それに私は知っている。

 二見沢が選ばれたのは八方美人だからでも運でもない。彼の努力があったからこそ。


 元から足は速いけれど、入部したての頃はスタミナがなくて外周も辛そうだった。体力づくりをして走りこんで、今じゃ男子部員の外周で最初に帰ってくるぐらい体力がついた。

 それだけじゃない。練習は休まないし、積極的に居残り練習もする。バスケ部全体で見れば身長が低い方だから、体格差あっても戦えるようになりたいと言って、遠くからでも打つことのできるスリーポイントシュートを武器に選んだ。そのためにプロバスケの試合を見て研究してる。


 二見沢を見てきたから、片思いをしてきたから、私は彼の努力を知っている。


 苛立ちは限界に達して、私は掃除用具入れの影から飛び出して廊下に出た。


「こら! そこの二人!」


 私が叫ぶと、陰口を叩いていた男子部員二人がびくりと肩を震わせて振り返った。


「げ。西那マネじゃん……」

「ぐだぐだ言ってる暇があったら練習! 実力があるからスタメンになれるの。悔しかったら二見沢を超えるぐらいたくさん練習しなさい!」


 よほど人に聞かれたくなかったらしく、私が出てきたことで部員二人は慌てていた。

 すみません、と頭を下げて駆けていく。その姿が体育館に消えてからため息を吐いた。


 二人が消えれば頭は冷静になって、もっと言えることがあったと考えてしまう。二見沢が人知れず努力してきたことだって伝えたかった。


 ジャージに着替えて体育館に入ると、先ほどの二年部員たちは何事もなかったように二見沢と接していた。二見沢もじゃれついて笑っている。

 きっと二見沢は影で何て言われていたのか知らない。でもそれでいい。余計なことを知って彼が集中できなくなる方が嫌だから。




 練習終わって、いつもの片づけ時間。

 今日は私の合流が遅かったから、一年の子たちは先に帰して、片づけを一人でやることにした。中身の残ったウォーターサーバーを片づけて、洗濯物を干す。

 ようやく終わったというところで聞こえてきたのはボールの音だった。まだ、誰か残っている。


「……あ」


 体育館を覗けば、そこにいたのは二見沢だった。今日も居残り練習するのかもしれない。


「お疲れさま。今日も残るんだ?」


 声をかけるとその姿が振り返ってこちらを見る。いつも通り、犬みたいに可愛く笑う二見沢だ。


「おつかれさまでーっす。ちょっと練習しようと思って」

「ちゃんと許可もらった?」

「もっちろん! 部長にはほどほどになって怒られましたけど」

「じゃあ安心だね。動画取る? フォーム確認するなら付き合うよ」


 私が聞くと二見沢は「今日は大丈夫っす」と短く言った。


 一人で集中したいのかもしれない。残念だけど練習の邪魔をしたくない。私も帰る準備をしようと背を向けた時、二見沢が呟いた。


「西那センパイ。今日は……ありがとうございました」


 何のことだろうと振り返れば、ボールは二見沢の手中に収まっている。弾む音はしていない。その瞳はゴールリングではなくこちらを見ていた。


「その……今日の部活中のこと、っすけど」

「あー……もしかして」


 二年部員たちが二見沢の話をしていたこと、だろうか。でもあの場に二見沢はいなかったはずじゃ。


「ちょうど男子更衣室にいたから、あいつらの話聞こえちゃって。あんな風に言われるなんてオレ有名人じゃん?」


 へらへらと軽く笑っているけれど。二見沢の本心はどうなのだろう。


 私なら――私が二見沢だったら。部活仲間からあんな風に言われたら、悲しくなる。こんなに笑っていられない。


「二見沢は……悲しくなかったの?」

「ぜーんぜん大丈夫! 何言われたって気にしなけりゃいいんだし、オレはオレだから好きに言ってくれーって感じ」


 本当にそうならいいけれど。私にはその笑顔がぎこちないもののように感じる。いつもよりも明るく元気な声は、本心を隠すためかもしれない。


 疑うようにじっと見つめていると二見沢はこちらを見て、いつもよりも落ち着いた声で言う。口元は緩めているけれど、どこか切なかった。


「オレのことかばってくれて、ありがとうございました」

「かばうとかじゃないよ。私は二見沢が頑張ってきたこと知ってるから、あんな風に言われて悲しかった、悔しかったの」

「あははー。西那センパイったら女神さまー! だいすきー!」


 その『大好き』は綿あめみたいな軽さで、どこにでもあるもの。よくある甘さの『大好き』なんだってわかってる。毎日聞くじゃないか、その言葉。


 わかっているけれど気が急いた。どれだけ二見沢と一緒にいても真剣に向き合ってもらえない。

 もっと距離を縮めて、仲良くなってから言えばいいって思ってた。でも違う。このままじゃ、距離が縮まるなんてきっとない。


 彼の本心が掴めないことに苛立って。その結果生じたのは、勇気だ。


「私も」


 その短い言葉は、口にすればあっという間に空気に溶けていく。勇気なんていらなかったんだってぐらい簡単に溶けて、二見沢に届く。見開いた瞳はこちらを捉えて、動かない。


「…………え?」

「私も、二見沢が好き」

「は……え、いや……それってオレが言う、遊びみたいなやつじゃなくて……」

「二見沢のとはちょっと違うかも。私は、恋愛の方の『好き』だから」


 一歩踏み出して、その先にあるものを知っていた。この片思いは一方通行で、二見沢にとって私は特別でも何でもない。彼なりの挨拶で『大好き』と言ってしまえるごく普通の関係。

 だからこの片思いは終わる。告げてしまえばやってくる悲しい結末。


 実際に二見沢は戸惑っているようだった。困ったように手中のボールをくるくると回して、言葉を探す。


「……そういう風に考えたことなくって」

「うん、わかってた」

「西那センパイのそういう気持ちも気づいてなかったから……ごめん」


 告白してしまったことを後悔するほど空気が重たくて、両目がじわじわと熱くなった。気を緩めたら泣き出してしまいそうで、だけどここで泣いてしまえば二見沢をもっと困らせるから手を強く握りしめて耐える。


「だってさ、センパイは『ふたみん』って呼んでくれなかったじゃん。いつも『二見沢』って呼んでたから予想外っていうか……好きとかそういうの、ないと思ってたし……」


 これ以上二見沢の前にいるのが辛くて、背を向ける。


「練習の邪魔してごめん。私、帰るね」


 やっぱりだめだった。きっと明日から二見沢との関係はぎこちなくなる。前みたいに抱きついてきたり好きって言ったり、そういうのもなくなっちゃう。

 言わなきゃよかったと後悔した。でも、言ったからこそ二見沢が向きあってくれた気もして。


 早く帰ろう。これ以上ここにいられない。

 逃げるように歩き出して――瞬間、ボールの弾む音が聞こえた。

 少し遅れて、ぐいと腕を掴まれる。最後に聞こえたのは二見沢の声だった。


「待って」


 体育館に響く、言葉。腕は掴まれているところだけ熱いから、立ち止まるしかなかった。ボールの弾む音は少しずつ小さくなって、そのうちに聞こえなくなる。体育館がしんと静かになれば、緊張して騒がしい心臓の音が聞こえてしまいそうだ。


「オレ、センパイの気持ちうれしかった」


 頭が真っ白になりそうだった。紡がれた声音が優しいものだったから余計に。


「センパイのこと、真剣に考えるから。その気持ちに追いつきたいから待ってて」


 試合終了間際の逆転シュートみたいに。

 見えないボールがゴールリングを通る。揺れるネット。終わると思っていた片思いは終わらずに、もう少しだけ続くのかもしれないと予感させる言葉。


「だから……帰らないで。センパイと話していたい。センパイのこと教えて」


 あれほど泣きそうだと思っていたのに、すっかり涙は消えてしまって。

 彼は微笑んでいた。犬みたいに、懐っこくて可愛い笑顔。


***


 それから数日後の朝練。一年生と二年生がコートでシュート練習しているのを壁にもたれかかって見ていると、男子バスケ部三年生の篠宮が隣に並んだ。


「あいつ、変わったねえ……」

「変わったって、誰が?」

「二見沢のこと。誰彼構わず抱きついたり、好きだの軽口飛ばしたりしなくなった」

「あー、それは確かに。前より落ち着いたかも」


 最近の二見沢は軽率な行動をとらなくなった。女子バスケの子と喋ったりもするけれど、前みたいな距離の近さではなく一歩引いた位置にいる。


「いいことだね、うんうん。二見沢も頑張っているし、これで僕も安心して卒業できる」

「卒業までまだあるでしょ。篠宮弟とか一ノ瀬が寂しがるよ?」

「ああ、そうだったね。一年軍団が残ってた――と噂したら二見沢だ」


 豪快な足音と共にやってきたのは二見沢だった。コートの端の方にいたと思えば大急ぎで駆けてきたらしい。そして。


「西那センパーイ! 疲れたから充電させてー!」


 汗だくの塊が肩にのしかかる。抱きついているというより背中に乗っているというか。

 二見沢の仕草が甘えている犬みたいだったから、飼っていた犬にしていたのと同じように頭を優しくぽんぽんと撫でた。


「よしよし。いい子いい子」

「ワンワン! 西那センパイ、だいすきー! お手とかしちゃう?」

「……こりゃ前言撤回だ。西那相手になると変わらないねえ」


 呆れたように篠宮が言って、歩き出す。

 その姿が少し離れてから、二見沢は抱きつくのをやめて隣に座った。


「急にどうしたの?」

「だってさー、篠宮センパイと楽しそうに話してたじゃん? なんかイラッとしちゃって。割りこんじゃいました」

「二見沢の話をしてたんだよ。頑張ってるって褒めてたよ」

「褒められるのはうれしいけどさー……なーんかモヤモヤする」


 と説明するも二見沢はあまり納得いかないようで、むすっと唇を尖らせていた。むくれた顔もまた可愛くてくすくす笑っていると、拗ねた声で二見沢は言う。


「……今日も、居残り練習しようと思ってるんだけど。センパイも付き合ってくれる?」

「うん。付き合うよ」

「あといつもの呼び方して? そしたらモヤモヤ吹っ飛んで元気になるから」


 コートでは部長が「全員集合」と叫んでいた。けれどまだ二見沢は立ちあがるそぶりを見せなくて。呆れながらもその手を引いて、私は言う。


――ほら、行こう?」


 ふわりと微笑んで、彼は頷いた。


「これならすぐ追いつけそう。つーか、オレの方が追い越しちゃいそう。やばい」

「何ぶつぶつ言ってるの? 部長睨んでるし、急ぐよ」

「はーい。二見沢、いっきまーす!」


 体育館中央、みんなが集まっているところに向かって走る。


 この片思いは賞味期限が切れる前に、別の形に変わる。きっと。

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