学校で繋がる 9つの恋短編集

松藤かるり

1.俺様王子の敵はクラス替え

 ほんの数週間だけでも空白が生じれば、人は変わってしまうのだとわかった。通う場所が中学から高校に変わるだけで、人は変わる。


「おはよう、ちゃん」

「おはよう」


 着る制服が変わって通う場所が変わって、どうなるかなと不安を抱いていた高校生活は次第に不安の影が薄れていった。友達はできたし、クラスの子たちと少しずつ話せるようになった。憧れていたかず高校の吹奏楽部に入部して、部活もなんとか順調。

 高校生活に問題はひとつもありません、と言えたらよかったのに。


 かばんを置いてわたしの席へとやってきた友達と話す。昨日見たテレビとか部活の話をしていたけれど、その話題も頭に入らないぐらい廊下が騒がしい。気が散ってしまって廊下の方を見る。自然と眉間に力がこもってしまった。


「……、登校したんだね」


 わたしがそう言うと、友達も「かもね」と苦笑した。


 わたしと友達。二人して廊下へ視線を送っていると扉が開いた。やってきたのは話題のではなく、隣の席に座る男の子でしのみやくん。お兄ちゃんも数名高校の三年生で生徒会に所属しているので、同じ年ながら高校の事情にちょっとだけ詳しい。

 そんな篠宮くんも、席につくなり苦笑する。話題はもちろん、廊下を騒がせている彼のことで。


「外、すっげーな。相変わらずいちは人気だな」

「はよはよ。今日朝練あったんだ?」

「おう。おかげさまで、朝から体育館が大渋滞」


 友達の質問に答えて、篠宮くんはため息をつく。

 篠宮くんはバスケ部に入部して、今日も朝練があったらしい。かばんの他にぐちゃぐちゃに丸めたジャージを抱えていて、席につくなりそのジャージを丁寧に折りたたむ。慌てて着替えてきた姿が想像できた。


 外を騒がせている話題の彼――一ノ瀬くんもバスケ部だ。


「一年から三年までみんな、一ノ瀬を見にくるんだよ。気が散るって、あれ」

「早起きして王子様を見に行ったって、隣のクラスの子が言ってたよ」

「うわ。一ノ瀬のために早起きしたくねーな。俺ならギリギリまで寝てる」


 友達と篠宮くんが楽しそうに話している間、わたしはまだ廊下の方に視線を向けていた。

 朝のチャイムが鳴る直前まで廊下で喋っているのだろう。一ノ瀬くんは隣のクラスだから、この教室に踏み入ることはなくて。

 聞こえてくるのは『一ノ瀬くん、お昼食べようよ』とか『LIME教えて』といった黄色い声。女子の方が声が大きいから、一ノ瀬くんがどう答えているのか聞こえてくることはない。それが少しだけ気になった。この騒ぎを彼はどう思っているんだろう。

 気になるからといって、わざわざ廊下まで見に行く気にはなれなかった。用事もないのに廊下に出れば、一ノ瀬くんを見に来た取り巻きの一人になってしまうようで。


 前は、こんな騒ぎなんてなかったのに。


「おーい。日都野さん、ご指名だよ」


 誰がわたしを呼び出したのかと教室入り口を見れば、そこにはわたしを待っているらしい女子生徒がいて、上履きの色からして上級生だと思う。相手は、この教室にいるどの生徒が『日都野』かも認識していなかったのかもしれない。目を合わせるなり、慌てたように頭を下げていた。


「……またか」


 ため息を残して嫌々立ち上がる。


 一歩踏み出せば1年の教室に入れるのに、それをせず入り口で待つ。扉のレール部分は境目となっていて、他クラスや上級生たちは境界線越えを躊躇い、こうして外からわたしを呼ぶ。


 教室というのは不思議なもので。教室の作りなんてどれも一緒なのに、自分の教室だけは心地がいい。匂いが違う。他クラスの教室に入れば居心地の悪さがあるし、それが上級生のクラスとなれば違和感は増す。同じ学校なのにおかしい話。


 わたしも境目を越える。嫌だけど呼び出されてしまえば断れなくて、教室から一歩飛び出して廊下へ。するとわたしを呼び出した先輩がにこりと笑った。


 先輩に促されて人気のない階段の方へ。生徒たちの喧騒が遠ざかってようやく先輩は口を開いた。


「日都野さんは、一ノ瀬くんと同じ中学出身って聞いたの。紹介してもらえない?」

「ただ同じ中学なだけです。紹介とかできません」

「連絡先とか……」

「知りません」


 下級生の教室まで出向いてきた先輩には申し訳ないが、本当に知らないのだから答えられない。


 わたしと一ノ瀬くんの共通点は同じ中学出身であること。わたしたちが通っていた中学からこの高校に進学したのは二人だけ。なのでどうしても、中学時代の話になるとわたしが出てきてしまう。


 でも。

 中学の三年間で、言葉を交わしたのはたった一度だけ。同じクラスになったことは一度もない。中学時代に何をしていたとか彼女はいたとか、好きな食べ物や音楽でさえわからないのに、同じ中学という共通点だけで、一ノ瀬くんの話を聞きにくる。


 中学の時は、こんな風に騒がれていなかった。王子様なんて呼ばれることもなかった。

 同じ場所に通って、同じ日に卒業したくせに。彼はわたしと違うところにいる。中学から高校への数週間の空白で、彼だけが別世界に進んでしまったみたいに。


 わたしが教室に戻ると同時にチャイムが鳴って、クラスメイトたちは自席に戻っていく。廊下の騒ぎも水を打ったように静かなものに変わった。一ノ瀬くんも教室に入ったのかもしれない。


「……はあ」

「日都野さん、疲れた顔してる」


 先生が教室に入るまでの間、わたしの深いため息に気づいた篠宮くんがひそひそと声をかけてきた。


「……ま、疲れるよな。これじゃあ」


 篠宮くんの言う『これ』が示すのは、一ノ瀬くんについて聞き出したい女子に呼び出されるだけじゃない。もう一つ、わたしが疲れる大きな理由があって。

 篠宮くんの手はブレザーのポケットに消える。数名高校独特の臙脂えんじ色のブレザーは、ごそごそと動き、それから折りたたまれた白い紙がちらりと見えた。臙脂色に白色は目立つ。


「……うわぁ」


 今日も、か。

 ルーズリーフを乱雑に折っただけ、中身はまだ見てないけど想像がつく。慌てて書いたような汚い走り書きの字があるはず。

 嫌々ながらも受け取り、がっくりと肩を落とす。その様子を見ていた篠宮くんが苦笑した。


「ま、頑張れよ。俺は黙ってるけど」

「助けてくれる気はないんだ……」

「俺は自分のことでいっぱいいっぱいなの。お前らのことまで首つっこみたくねーし」

「手紙を届けているだけで共犯者」

「むしろ被害者だろ。毎回めんどくせーんだよこれ」


 これ以上話すことはないとばかりに篠宮くんは前を向いてしまった。仕方なくわたしは手紙を開く。


『昼休み 裏庭 いちごミルク、やきそばパン』


 差出人の名前はないけれど想像がつく。このやりとりも入学してから何度目だろう。この手紙を書いた本人はここに名前を書くのが嫌だったらしく、わたしと同じクラスの篠宮くんに手紙を託した。篠宮くんもある程度の事情を知っているようで、手紙を渡す時はこそこそと隠れて渡している。

 さてどうして隠れてこそこそと手紙を出さなければならないのか。それもこれも最近話題の生徒一ノ瀬くんが書いているのだ。他の人に見られては困るから差出人の名前は書かないし、直接渡さず他の人を使う。


 正直言って、面倒だ。

 イライラする。楽しいはずの高校生活、どうして振り回されなきゃいけないんだ。わたしに関わる面倒なものすべて、一ノ瀬くんが絡んでいる。


***


 昼休みになるとささっと教室を抜け出す。購買でやきそばパンと紙パックのいちごミルクを買い、靴を履き替えて裏庭へ。

 昼食はお弁当なのでみんな思い思いの場所で食べている。でも裏庭は人気がなく、特に裏庭の古い倉庫なんて存在さえ知らない生徒がほとんど。鍵がかかっているけれど古い鍵だからヘアピンを使えば開けられるのだと一ノ瀬くんが言っていた。そういう事情で先生たちのチェックも甘い。生徒たちがこの鍵を簡単に外しているなんて想像もしていないようだ。

 わたしが着く頃には鍵が外れていた。ということは中で待っているのだろう。


 はっきり言って嫌だ。教室に帰りたい。

 しかしできずに来てしまったのは、中でお待ちの王子様が不機嫌になるからである。不機嫌の矛先がわたしに向くならばいいけれど、それが篠宮くんにも飛び火するから申し訳ない。手紙を運んでくれる篠宮くんのためにも呼び出しを無視するわけにはいかなかった。


「……おまたせしました」


 扉を開けると埃と土の混ざった匂いが鼻につく。どう考えても居心地悪いだろう汚い倉庫で、穴が開いた跳び箱の上に座っているのは一ノ瀬くんだった。


「遅い」

「これでも購買から走ってきたんだよ」

「購買から、ってことはもちろん買ってきたんだろ?」


 早くブツを出せ、と急かすように空いた手が向けられる。購買で買ってきたものを渡せば、あらかじめ用意していたのだろうやきそばパンといちごミルクの代金が返ってきた。


 目鼻立ちがくっきりとしていて、目じりは少し垂れ気味。くっきりと浮かんだ涙袋とそのたれ目がよく合っていて、甘め王子様だと女子たちが褒めていた顔つきは、いちごミルクにデレデレとしている。


「美味しいんだよなこれ。助かる」

「自分で買いにいけばいいのに」

「やだよ。買ってるところを他のやつに見られてみろ、翌日からやきそばパンのプレゼント攻撃だ。飯ぐらいのんびりさせてくれって」


 空気が悪いどころか長時間いれば具合が悪くなってしまいそうな倉庫で、一ノ瀬くんは楽しそうにやきそばパンを食べている。王子様だと崇めていた女子たちが見れば失神してしまいそうな環境の食事だ。

 わたしの視線に気づいたらしい一ノ瀬くんが訝しげに言う。


「なんだよ」

「相変わらず、すごい場所で食べてるなって……」

「それ毎回言うな。早く慣れろよ」

「無理だよ。どうして教室で食べないの?」


 そう聞くと、一ノ瀬くんは唇を尖らせてしまった。そういえば初めて呼び出された時もこの会話をしていた気がする。その内容を思い出すと同時に、その時と同じことを一ノ瀬くんが答えた。


「教室だと人が多いから疲れるんだよ」

「一ノ瀬くん人気だもんね」

「バスケ部だからだろ、たぶん」

「わたしのクラスのバスケ部はそんなに人気ないと思うけど」

「篠宮は別枠。あいつはあれで、色々と厄介なことに巻き込まれてんの」


 一ノ瀬くん曰く、この場所は篠宮くんから教えてもらったらしい。教室にいると周りが騒がしくて休めず、一人になれる場所を探していたそうだ。きっと篠宮くんも、三年生にいるお兄ちゃんから教えてもらったんだろう。いわゆる、一部生徒に語り継がれる穴場だった。


「篠宮くんが、ここを使えばいいのに」

「あいつは昼休み、他のやつと飯食ってるから」

「そうなんだ? 知らなかった。いつも教室にいないから、誰と食べてるんだろうって気になってたけど」

「……たぶん、上級生のとこだろ」


 会話を重ねれば重ねるほど、一ノ瀬くんの機嫌が悪くなっていく。そのうちにむすっとしてそっぽを向いてしまった。


 こうなると話しかけても面倒なので、不機嫌を無視してわたしもお弁当を開く。淀んだ倉庫の空気は、室内いるうちに気にならなくなってきた。空気が清浄になったというより、慣れてきただけかもしれない。



 穴の開いた跳び箱に一ノ瀬くんが座っていて、わたしは畳んだぼろのマットにもたれかかって座る。同じ中学という共通点だけ。いつも他のクラスで、中学時代に言葉を交わしたのはたった一度だけ。そんなわたしたちが、この狭い倉庫に二人でいることはなんとも奇妙なものだった。


 中学時代だって、会話とカウントしていいのか迷うぐらいにあっさりしたやりとりだった。

 あれは中学二年生だったか、放課後残って日直仕事であるクラス日誌を書いていた時、教室には誰もいなくてぽつんと一人。そこで開きっぱなしの教室の扉から覗きこんでいたのが一ノ瀬くんだった。もう一人の日直がバスケ部の男子だったから、友達を探してわたしのクラスに来ていたのかもしれない。でもその男子は体調不良で帰っていた。

 黒板を見た後、一ノ瀬くんはわたしに訊いた。


『なあ。このクラスの日直って一人?』


 それが、わたしと一ノ瀬くんの唯一の会話だった。

 しかも至近距離で話したわけじゃない。一ノ瀬くんとわたしはクラスが違うから、彼の上履きは扉のレール境界線を越えられず、わたしたちの間には見えない壁があった。入り込めない他クラスの壁があった。


 まともな会話などそれしかなかったのに。そんなわたしがここにいていいのだろうか。人が多いからここに逃げてきているはずなのに、わたしがいたら気は休まらないと思うけれど。


***


 休み時間は女子からの呼び出し。昼休みは一ノ瀬くんからの呼び出し。こうなれば気の休まる時はなく。


「はあ」


 翌日の朝。憂鬱さを吐き出して机に突っ伏すと、朝練を終えて教室に戻ってきた篠宮くんが笑った。


「今日も朝から疲れてんな。おっさんか?」

「女子におっさんはやめて」

「しゃきっとしないとモテないぞ」

「モテなくていいよ。彼氏とかそういうの、よくわからないし」


 今の自分に余裕がないということもあるけれど、恋愛沙汰はいまいちよくわからない。中学の頃からどの子が好きなんて話はあったし、彼氏ができた友達だっている。わたしが所属する吹奏楽部でも、先輩たちの部活内恋愛は話題になっていて。例えば、トランペットの先輩が同じパートの子と付き合うも別れてしまって気まずさから退部したとか。

 じゃあわたしは、というと。ピンとこない。


 首を傾げるわたしに篠宮くんは「うーん……」と困りぎみな反応をして、それからポケットに手を入れる。

 あ、この展開。その動作は思い当たるものしかなくて、頭が痛くなる。また一ノ瀬くんからの手紙だ。


 しかしどうも篠宮くんの表情はすっきりしない。黒板の隅を眺めて、何やら悩んでいる様子だった。


「いつも通り預かってきたけど……すっかり忘れてたわ」

「え? 忘れた?」

「日直。今日、俺たちの日だろ」


 促されて黒板を見れば、そうだった、今日の日直はわたしと篠宮くんだ。

 昼休みは職員室に行って、プリント印刷を手伝ったり、返却ノートの並び替えをしたりと、様々な雑用が押し付けられる。


 おそらく篠宮くんのポケットに入っているのは、一ノ瀬くんからの手紙だろう。その中身は想像がつくから悩んでしまう。


「あいつからの呼び出し手紙預かってきてるけど……これじゃ昼休み無理だな」

「そうだね……」


 ノートを1ページ破って『今日の昼休みはいけません』と書く。名前は書かなくても大丈夫だろう。この内容だけでわたしからの手紙だと気づくはずだ。

 問題は渡す方法だ。わたしはいわゆる昼飯パシリであって、それが昼休みいけないとなれば、一ノ瀬くんはどうやってお昼ごはんを用意するのか。手紙を下駄箱に入れておくことも考えたけれど、昼休みになって手紙に気づいてしまえばお昼ごはんの調達が難しくなる。できればお昼休みに入る前に、この手紙を読んでほしい。


 けれど。引っかかるものがあった。

 お昼ごはんを買いにいくだけなら、別にわたしでなくてもいい。仲の良い女子生徒に頼めばいいだけ。


 あれ。どうして。

 ノートを綺麗に折りたたもうとしていたのに、うまくいかない。角と角を合わせてもぴったりに合わず微妙な隙間。

 力が入っている。指先も、顔も、ぜんぶ。それは何から生じるのかと考えれば、苛立ちだ。知らぬ間に眉間に力をこめ、ノートを睨みつけている。


 休み時間は一ノ瀬くん追っかけからの呼び出し、昼休みは一ノ瀬くんのお昼ごはんパシリ。わたし一ノ瀬くんに振り回されすぎている。

 ただ同じ中学出身というだけで。一緒にご飯を食べていたって仲良く話したりせず、淡々としていて。一緒にいようが、相手の好きなものも嫌いなものもわからない。


「それなら、わたしじゃなくてもいいのに」


 ぽつりと落ちた独り言は、チャイムにかき消された。




 授業を受けていても苛立ちは収まってくれない。折りたたんだ手紙はどうすることもできずにポケットに入れたままだった。


 こうなれば休み時間のうちに一ノ瀬くんに渡しにいこう。そう思い立って教室を出る。


 扉のレール、教室と廊下の境目。境界線を一つ飛び越えれば、廊下は教室と違って空気が動いている。休み時間、廊下を行きかう生徒たちで生じる空気の流れ、風。家の外に出た時と同じようにぴりっと背筋が伸びる。

 そんな風に思えてしまうのは、この境界線を越えるのが他クラスにいる一ノ瀬くんに会いにいくという目的のため。入学して一ノ瀬くんが話題になっても、その姿を見に行こうとしたことはなく。一ノ瀬くんのために他の教室を覗きにいくような、そんなことさえなかった。


 一ノ瀬くんのクラスは扉が開いていた。教室に入らず、中を覗きこむ。

 教室を見渡さなくても、すぐにわかった。窓側の黒板から二番目。臙脂色のブレザーを着た一ノ瀬くんがそこに座っている。

 席の周りに3人ほど女の子が集まっている。わたしの隣で教室を覗きこむ生徒もまた、一ノ瀬くんを見にきているようだった。


「……なんだ」


 女の子に囲まれて、笑っている。


 一ノ瀬くんはあんな風に、楽しそうに笑う人なのだと。わたしは初めて知った。

 何度昼飯を届けたって、一ノ瀬くんはいつも不機嫌で、こんな風に誰かと向き合って笑っているところを見たことがない。同じ中学出身なんて、ただの飾りだ。

 わたしは、一ノ瀬くんのことをぜんぜん知らない。


 それに、一ノ瀬くんが王子様と呼ばれる理由を今日まで知らなかった。教室を飛び出して見に来たことがなかったからわからなかったのだ。

 その席だけきらきらと輝くように。一ノ瀬くんがいるところだけ眩しい。教室の作りが違うとか一ノ瀬くん専用スポットライトがあるとかじゃなくて。そこだけ空気が違う。


 数名高校の制服は臙脂色で、一部の生徒には評判が悪かった。地味だの悪目立ちだのあれこれ言われていて、わたしもこの色はあまり好きじゃない。似合わない色だと思っていた。でも一ノ瀬くんが着れば、臙脂色も変わるんだ。むしろ格好いいじゃないか、この色。


「……っ」


 手はポケットの中。俯くと同時に視界の端でブレザーのポケットが歪んだ。ポケットに隠れて手を強く握り締める、一ノ瀬くん宛の手紙はあっけなくぐしゃりと潰れた。


 わたしがいなくたって、誰かがお昼ごはんを届ける。だから、別に行かなくたって。

 踵を返して教室に戻る。わたしの教室は、自分の席は、一ノ瀬くんみたいにきらきら輝いてなんかいなかった。


***


 どんよりとした気分のままお昼休み。慌ててお昼ごはんをかきこみ、職員室に向かう。「日直なんてめんどくせー」とぼやく篠宮くんと共に、先生のお手伝いをして、ホームルームの配布プリントを印刷。

 あの汚い倉庫で過ごさないお昼休みは快適だったけれど、あまり気持ちは晴れなくて。廊下の窓に何度も視線を移したけれど、一ノ瀬くんがいるだろう倉庫はここからじゃ見えない。


 そしてあっという間に、昼休みは終わった。昼休み終了を知らせるチャイムが鳴って、雑用から解放されたわたしと篠宮くんは廊下を歩く。

 次の授業は何だったとか、最近のバスケ部の話とか。そんなことを話しながら廊下を歩いて――わたしたちの教室が見えた時だった。


 教室入り口にいる、臙脂色の男子制服。中学の時よりも背が伸びてすらりとしたそのシルエットが教室から廊下へと視線を移していく。

 そこだけ、きらきらと輝いていた。

 目を合わせる前からその人物が一ノ瀬くんであると気づいて、甘く垂れた瞳が廊下にいるわたしを捉えた瞬間、こみあげた甘酸っぱい感情に息を呑んだ。


 目が合って、叫ぶまでの。その時間だけスローモーションのようで、わたしだけ時間の流れがコマ送りになったのかと思った。


「……日都野!」


 名を叫ばれて、動き出す。

 隣を歩く篠宮くんも廊下にいる生徒も、みんなが一ノ瀬くんに注目していた。


 その視線を浴びても一ノ瀬くんは動じず、つかつかとこちらへ歩み寄る。見上げた表情はわかりやすいほど不機嫌だった。これが倉庫内なら、触らぬ神にたたりなしと無言で昼食を進めるような、危険度高めの不機嫌っぷり。


「来い」

「は、はい!? でも授業が」

「サボれ。いいから」


 一ノ瀬くんはわたしの腕を掴むと、有無を言わさず歩き出す。手を引いて歩くといえば格好いいけれど、実際は引きずられているようなものだ。わたしより歩幅の大きい一ノ瀬くんについていこうとすると自然と早歩きになる。



 上履きから靴に履き替えるぐらいは許してほしいものを腕は掴まれたまま、ようやく解放されたのはいつもの倉庫前だった。鍵は外れていることから、昼休みここにきていたんだろう。

 下駄箱のあたりでチャイムは鳴っていて、とっくに授業は始まっている。まさか授業をサボることになるなんて。あとで職員室に行って謝らなければ、きっと怒られるだろう。


 サボりの言い訳を考えているわたしと違って、一ノ瀬くんはどこか落ち着いていた。不機嫌さはあるものの、倉庫について和らいだ気がする。

 跳び箱にもたれかかって座りこむ。それから、じっとわたしを見上げた。


「昼、待ってたんだけど」

「ごめん。日直の仕事があったの」


 日直、という言葉にその眉がぴくりと動く。一度込められた力はゆるゆると失われて、諦めのような疲労のような、ともかく深いため息を吐いて、一ノ瀬くんは言った。


「知らなかった。教えてくれればよかったのに」

「伝えようと……思ったんだけど、」


 そこで休み時間のことを思い出して、声が弱まっていく。『昼休み行けない』とたった一言を伝えるだけ、手紙を渡すだけで済んだのにできなかった。その時の苛立ちを思い出してしまったから。


 口ごもるも、言葉の続きを急かすように一ノ瀬くんが覗き込む。


「今日の休み時間、俺の教室きてた理由って、それ伝えようとしてたから?」

「気づいてたの?」

「お前が他のクラスに来るのって珍しいじゃん。何か用事あるのかなって思ったら、さっさと帰ってったし」

「声かけられなくてごめんね」

「いいよ。日直なら仕方ない。手紙でやりとりしてた俺も悪かった」


 そう言って、一ノ瀬くんは隣をぽんぽんと叩く。機嫌は相変わらず斜めの方向で、でも急かすようにこちらを見ている。何の合図だろうと待っていると、呆れたように一ノ瀬くんが言った。


「隣、座れば。どうせ授業終わるまで時間あるし」


 そのまま倉庫に突っ立っているのも居心地悪いし、かといって一ノ瀬くんの誘いを断って離れたところに座ればより不機嫌になってしまいそうだ。

 おずおずと隣に座る。嫌なわけではないけれど落ち着かない。隣の方が眩しくて、一ノ瀬くんの方を盗み見ることさえ勇気がいる。

 隣の席に座る篠宮くんよりも近いけれど、電車の座席ほど近くに座っているわけじゃなくて。だというのに、緊張して心臓がうるさい。


 一ノ瀬くんはどうしているのだろう――こっそり盗み見ようとして、それは失敗した。一ノ瀬くんがこちらを見ていて、目が合ってしまったから。気まずさは加速していく。


「あ、あのさ。ずっと聞いてみたいことがあって」


 気まずさはきっと一ノ瀬くんにも伝わっていて、誤魔化すように慌てた声が倉庫に響く。


「日都野って、どうしてこの高校に入ろうと思ったの?」

「『ずっと』気になっていたことって……それ?」

「他にも気になることはあるけど……まあいいや。ここって俺たちの中学から遠いだろ、通学時間もかかるし乗り換えも大変だし。わざわざ数名高校を目指した理由が気になってたんだ」


 歯切れの悪さは気になりつつも、数名高校を目指した理由はあっさりとしていて隠すようなものじゃない。この妙な空気が払拭されればいいと願って、話す。


「数名高校の吹奏楽部って有名だから定期的にショッピングモールで演奏会するでしょ? 中学2年の時にその演奏を聴いたの。男子生徒のトランペットのソロに感動して、わたしも数名高校の吹奏楽部に入ろうって決めたんだ」

「あー、なるほど。お前、前の中学でも吹奏楽部だったもんな。トランペットだろ」

「あれ。よく知ってるね?」

「そりゃ同じ中学だったし」


 同じ中学だからといえ、一度も同じクラスになったことのない同級生の、部活やパートまで覚えるものだろうか。

 どうにも違和感がある。だってわたしたちは、中学時代一度しか喋っていないのに。


「中学で一ノ瀬くんと話したのって一回だけ……だよね。わたしが日直の仕事で残っていた時の」


 もしかしたら記憶違いがあるだろうかと不安になって聞くも、一ノ瀬くんは頷いていた。


「バスケ部のやつが風邪引いて、その分お前が一人で日直の仕事してたやつな」

「うんうん。覚えてる」

「あの時お前のこと知って、すげーなって思った」

「え、ただの日直の仕事なのに?」


 日直なら誰だって経験のあることで一ノ瀬くんだって例外じゃないはず。中学も高校もやることはたいして変わらない。なのに一ノ瀬くんは先ほどよりも低いトーンの声で続ける。


「もう一人の日直がバスケ部のやつだっただろ。あの日朝練があったからあいつと話してた、昼休みだって会った。なのに俺はあいつが風邪引いてたなんて気づかなかった。お前に会った後で部活に出たけど、やっぱり誰も気づいてなかった」

「それはほら、同じクラスだからってやつで」

「どうだろうな。でも俺は、お前ってすごいやつだと思った。いつか同じクラスになってみたいって、その時から――」


 そこまで言って、急に言葉が途切れる。

 気になって隣を見れば、一ノ瀬くんは逃げるようにそっぽを向いているから表情がわからない。耳だけは、いつもより赤い気がした。


 どんな言葉が続くのかと待っていたけれど、一ノ瀬くんはため息をついて肩を落とし「この話はいいや」と打ち切ってしまった。


「ところでお前、よく先輩とか他クラスのやつに呼び出されてるだろ。あれ何?」

「あれは一ノ瀬くんのことを聞きにきてるんだよ。わたしが同じ中学だったから、何か教えてもらえないかって」

「うわ。それ知らなかった」

「一ノ瀬くん大人気だもんね。その呼び出しで休み時間とられるのは、ちょっとイラッとするけど」

「悪い悪い。今度から適当に返せばいいから」


 適当と言われてもなあ、と複雑に思いながらスマートフォンを取り出す。話している間に時間は過ぎて、もうすぐチャイムが鳴る頃だろう。


 一ノ瀬くんと一緒に授業をサボったこの時間も終わってしまう。振り返ればたいした話はしていなくて、どうして数名高校に入ったとか中学時代の話とか。せめて好きなものとか聞けばよかったと考えて、気づく。


「一ノ瀬くんって、どうして数名高校を選んだの?」


 わたしがこの高校を目指した理由は話した、けれど一ノ瀬くんの理由は聞いていない。わたしの家から数名高校は遠いけれど、それは一ノ瀬くんだって同じはずだ。

 バスケットボールのために選んだとしても、家近くにある高校の方がバスケットボール部は強い。同じ中学にいたバスケ部の子たちはそっちを選んでいたけれど。


「それはお前が……」


 答えようとして、隣でするりと影が動く。手だ。一ノ瀬くんの手がこちらに向かってくる。

 何だろうと思いきや――額にこつんと痛みが走った。


 いわゆる。デコピンというやつで。


「いたっ」

「なんか間抜けな面してたから」

「ひどい言い方だね!?」

「悪い悪い」


 いつの間にか不機嫌は消えていて、一ノ瀬くんはからからと笑っている。額を叩いた憎き指先は、怒りを宥めるようにわたしの肩を叩き、それから。


「内緒」

「へ?」

「進学理由は内緒。いつか同じクラスになったら、ちゃんと話すから」

「な、なにそれ……すっごく気になる」

「じゃあ来年の春、同じクラスになれるようお前も祈ってて。それまで昼休みは飯の配達よろしく」


 まだまだ倉庫に通うことになるのだろうと覚悟し、でも不思議とそれは嫌いじゃないと思った。

 埃とカビの匂いがする場所でも別にいい。きらきら輝いている気がする。


「同じクラスになれたら、いいね」


 わたしも、一ノ瀬くんと同じクラスになってみたいと思った。

 進学理由が気になるのはもちろんだけど、同じクラスになったら毎日が楽しくなる気がした。同じ教室、同じ時間。過ごしていきたいと思った。


 紡いだ言葉は弾むように軽くて、一ノ瀬くんは驚いたようにこちらを見た後、嬉しそうな顔をして頷いて――でもそれからがっくりと肩を落とす。


「……はー。倉庫出たら、授業サボり怒られるんだろうな」

「だよねえ」

「ついでに篠宮と日直変わりたい」

「いやいや。一ノ瀬くん違うクラスでしょ」


 チャイムが鳴って、わたしたちは倉庫を出る。これから怒られるのだろうと想像して足取りは重かったけれど、明日の昼休みが楽しみだから大丈夫。

 手紙がこなかったとしてもここに来たい。一ノ瀬くんに会いたいと思った。

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