第2話

 アリサのことを警察に相談すると決めたものの、中々実行に移すことはできなかった。

 その理由はただ単に、時間がなかったから。このところ残業が続いて忙しく、警察に行く暇なんてとても作れない。

 幸い、今日は早く切り上げることができて、時間はあるのだけど……。


「せっかく早く終わったんだから、公子とゆっくり過ごしたいな」


 電車を降りて夜道を歩きながら、公子のことを思う。

 会社を出る時に連絡したけど、公子は既にマンションに来ていて、俺の帰りを待ってくれているはずだ。


 仕事が忙しいということは、公子と会う時間も無かったと言うこと。だから今日くらいは、一緒に夕飯を食べたかった。


 俺も公子も、もう三十手前。そろそろ真剣に結婚を考えなきゃいけない時期だ。

 歩みの遅い交際を続けてきたけれど、結婚する気はもちろんある。公子だってそれを望んでいるはずだ。今度の休みに、宝石店に行って指輪でも……。


「久留米さん」


 不意に後ろから名前を呼ばれて、立ち止まる。

 名前と言っても、本当の名前じゃない。ブログで使っているハンドルネームだ。リアルで久留米なんて呼ばれることはまずないのだけれど、それでもつい反応して、足を止めてしまう。


 しかし、俺をその名前で呼ぶだなんて、いったい誰だ?

 嫌な予感がして恐る恐る振り返ると、そこには黒くて長い髪をした、俺と同年代くらいの女が立っていた。


 女に見覚えはない。たぶん初対面のはず。だけど、不安にも似た直感があった。


「お前……アリサか?」

「ふふ、当たり前じゃない。久しぶりに会えて嬉しいわ」


 幸せそうに笑みを浮かべる女。だけど俺にはその笑顔が、酷く不気味に思えた。と言うか久しぶりって……お前と会ったことなんて、無いはずだぞ。


「本当にアリサなんだな。だったらハッキリ言っておくけど、もう変なメールを送るのは止めてくれ。こっちは迷惑してるんだ」


 酷い言い方だけど、これくらい言っておかないと。

 しかしどうやらまだ、考えが甘かったらしい。アリサは少しも動じる事無く、相変わらず笑ったままだ。


「ええ、分かってるわ。そうやって守ってくれているのでしょう。アナタに付きまとっているストーカーが、私に危害を加えないように」

「ストーカー? 何を言ってるんだ、それは君の事だろう」


 アリサの言ってる事が、まるで理解できない。すると彼女は、驚くべき事を口にする。


「心配しなくても大丈夫よ。あの公子って言うストーカー女は、私が始末しておいたから」

「なっ!?」


 血の気が引いた。

 こいつ、公子の事まで知っているのか。しかもストーカーだって? 

 まさかとは思うけど、もしかしたらアリサの中では、自分が俺の彼女で、公子がストーカーにでもなっているのか? 酷い妄想癖を持っているコイツなら、十分あり得る。

 待て、だとしたら……。


「お、おい。始末したって、いったいどう言うことだ?」

「それがね。あの女、アナタのマンションに勝手に上がり込んでいたのよ。私頭に来ちゃって、これ以上久留米さんを困らせるなんて許せないもの。だから……」

「————ッ! 公子!」


 アリサの話を最後まで聞かずに、気がつけば走り出していた。

 ……公子は、無事なのか?


 無我夢中でマンションへと帰った俺は勢いよく玄関を開けると、靴も脱がずに中に入る。公子がどうなったか、一秒でも早く確かめたかった。


 だけどリビングに入って、鼻につくその臭いを嗅いで、床に横たわっているソレを目の当たりにして、愕然とする。


「あ……ああっ……」


 そこにあったのは倒れている公子の姿。うつ伏せになっていたから顔は見えないけど、間違いない。

 そしてそんな公子の背中には包丁が突き刺さっていて周りには、真っ赤な血が広がっていた。


 そんな。どうして……どうしてこんなことに……。

 呆然としたまま、変わり果てた公子から目を放せずにいると、不意に背後に気配を感じた。


「さあ、これで邪魔者はいなくなったわ。食事にしましょうか」

「お前、よくも公子を……がっ!?」


 振り向いた瞬間、全身に激しい衝撃が走った。

 ガクリと膝をついた瞬間、視界に入ってきたのは、スタンガンを持ったアリサの姿。そして俺の意識は、少しずつ遠退いていく。


「待っててね、すぐに準備するから。ふふふ、目を覚ましたら、とびきりの御馳走を二人で食べましょう」


 幸せそうなアリサの声が、まとわりつくように頭に響いて。俺は眠りへと落ちていった……。

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