第43話 イノシシ
藪の中から、音の元が襲撃してきた。
茶色い毛並み、口元から突き出た白い牙はひしゃげたフォークの様。人間ではありえないほどがっしりとしていて丸みを帯びた体格。鼻の先から臀部までは150センチほどだろうか、大きめのイノシシだった。
「マリグネですの?」
アプフェルが魔法杖を構えながら油断なく尋ねる。
「さすがに、これだけだとわからない」
マリグネと通常の獣の相違点は、人間の攻撃は魔法しか通じないか、人を見ればすぐに襲いかかるか、体のどこかに金色の体毛が混じっているか。細かい点は他にもあるけれど、主にこの三点だ。
身を伏せているので腹の部分が見えず、マリグネかどうかがわからない。
「マリグネでなくても、野生の獣は、下手に刺激したら、襲いかかってくる。この大きさの獣を、無理に相手するのは、避けたい」
今にも剣で襲いかかりそうだったローデリヒをツィトローネが止めた。
「し、しないよ。騎士の名にかけて」
むしろ不安になるんだけど。
このやりとりの間にも僕たちはイノシシと対峙している。
迂闊に背中を見せて逃げれば驚いて襲ってくることもあるし、それにマリグネかどうかを見極めるためでもあった。通常の獣なら驚いて攻撃してくることはあっても、こちらが背を向けずに対峙していれば去っていくはず。
こちらは四人だし、騎士の家系で明らかに強者のオーラを放つローデリヒもいる。
人が獣を恐れるように、獣もまた人を恐れる。
下手に手出しをしなければ、危うきに近寄らずで去っていくはずだ。
だが、目の前のイノシシは引き下がらなかった。
黒い瞳を僕たちに向け、荒々しく息を吐きながら威嚇するように構えている。
「これでは、埒が明きませんわね」
「マリグネであれ獣であれ、文字通り僕たちに明らかに牙を向こうとしている」
アプフェルとローデリヒの言葉で、ツィトローネも腹をくくったのが伝わってくる。
僕も、決断するべきなのだろう。
「うん。倒そう」
自然とその言葉が出て、何の後悔もためらいもなかった。
ズィーベンと戦ったときも生き残ったし、ラ―べと戦ったときも勝てた。
今回もきっとなんとかなるだろう、そんな風に思った。
木々の隙間から見える狭い空が少し暗くなり、森の中を湿った空気が満たしていく。
同時にイノシシが叫び声をあげ、突っ込んできた。
以前見かけたイノシシと同程度の動きだ。森で急に出くわした人間に驚いて襲ってきた、と考えることもできる。
マリグネじゃないんだろうか?
「僕に任せてくれたまえ!」
ローデリヒが淡い金色の光を帯びた剣を構え、イノシシに向かいあう。
カービング・ソードを使っていることからして、一気に一刀両断にする気だろう。
彼の流派は正眼の構えからの中心線を取ることを重視する流派だ。猪突猛進とも揶揄されるイノシシの突進は真っ直ぐだから、空から襲うラ―べと違って相性がいいと感じたのだろう。
しかし僕は、直観的に危うさを感じた。
「待って!」
イノシシは、ローデリヒが剣を振り下ろした瞬間に前脚の蹄を地面に喰い込ませて急停止する。目標を失った淡い金色の剣は空を切ったのみで、必殺を確信していたのか鍛えぬいたローデリヒの体幹がわずかに前へ崩れた。
「あぶ、ない」
斜め後ろに控えていたツィトローネの呟きが聞こえた時には、既に斜め前からイノシシはローデリヒに迫っていた。
その際、左わき腹に金色の毛並みが混じっているのが見える。
アプフェルが急いで魔法を完成させようとするが、イノシシの突進の方が早い。
成人男性の二倍はある体重から繰り出される衝撃が、ローデリヒを襲おうとしていた。
「舐めるな!」
だがローデリヒは振り下ろした剣を素早く振り上げ、下からイノシシの喉元を捉えようとする。
ローデリヒの剣先はイノシシの鼻先をかすめたが、イノシシはさらに深く身を沈めて切り上げを避けた。突進しながら身を沈めたので、勢いが弱まることはない。
そのまま、イノシシの白い牙がローデリヒの左太股を捉えた。
何かがひしゃげるような音と共にローデリヒの体が吹き飛ばされ、下草の生えた地面をバウンドしながら転がって言った。
「ローデリヒ!」
僕はストーン・ゴーレムを創りだしてイノシシの前に立たせてから、彼に駆け寄る。
「大丈夫、だ」
ローデリヒは仰向けの姿勢から、素早く起き上がった。見たところ出血もなく、目立った外傷もない。イノシシの牙で突かれたはずの足からも血が出ておらず魔法服さえ破れてはいない。
「これが守ってくれたんだ」
ローデリヒはヒビが入って割れかけた木製の鞘を指して言った。
僕はほっと胸をなでおろす。もし生身でイノシシの突進を受ければ太股の内側の急所を抉られて大怪我をしていただろう。
「さっき突進した時に見えた。金色の毛並みが混じっている。あのイノシシは、マリグネで確定だ」
「イノシシは猪突猛進なのは迷信だと聞いていたが、まさかあれほどに素早く方向を変えるとは予想外だった」
「わたくしもですわ。あんなに俊敏なイノシシは、見たことがありませんわよ」
ローデリヒは軽傷を負ったというのに、闘志にいささかの衰えも見せず剣を構え直した。
だが、アプフェルの冷静な声がそれを遮る。
「とりあえず、動かれると厄介ですわね。アイシクル・エングレイビング」
アプフェルがイノシシの足を凍てつかせる。四肢全てが地面に連結したため、イノシシが体をねじろうと、頭部を波浪のごとく振ろうと、氷の彫刻で地面に縫いつけられた四肢は微動だにしなかった。
牙で氷を壊そうとしたが、アプフェルはそれすらも凍らせた。
「ツィト、取り敢えず燃やしてしまいましょう」
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