第4話 信念とお金

 光陰矢の如し、とはよく言ったもので、2年生に進級してから早くも1か月が経った。春の終わりと、夏の到来の両方を感じることができる五月。


「すっかり遅くなっちまったな……」


 先生に呼び止められ、手伝いをさせられていたらかなり時間が経ってしまっていた。日直だからってこき使うのはやまえてほしい。


 こんな時間に学校を出るのは初めてだな……。


 いつの間にか辺りは太陽でオレンジ色に染まっている。辺りは部活動を終えて下校しようとしている生徒の姿が数多くあった。


「っと、あんまりのんびりもしてられない」


 今日はスーパーで卵の特売があったはずだ。これは是非とも買っておかないと。

 ひとりだけの生活とはいえ、食費は最低限に抑えておきたい。じいちゃんは気にするなって笑って仕送りをくれるけど、甘えてばかりいるわけにもいかない。これも将来のための練習だ。節約術は早いうちから磨いていかないと。


 俺は歩くスピードを速め、校門を出る。

 談笑しながら帰途につく生徒たちを追い抜いていく。彼らの手には部活の道具だろう、テニスラケット、竹刀、楽器……。様々な種類の荷物が握られていた。


 何か始めたら、か……。

 俺は2人の言葉を思い出す。

 何かをするのは悪くないと思う。


「でもなあ」


 自分が何をしたいのかが、イマイチよくわからない。

 小さい頃から何かに熱中したという経験もあまりない。習い事をやり続けた、ということもない。言ってしまえば無趣味というやつだ。高校に入ったら何かを始めようか。そう考えていた矢先に、あの出来事だ。それどころではなくなってしまった。


 今自分の中にあるのは、きちんとした人間になって一人前になってお金を稼げるようになろう、という気持ちだけだ。他に優先すべきことが見つからない。

 安定した収入。お金の使い道はきちんと管理。それから……。


 いやいや。

 俺は小さく首を振る。

 数年後の未来のことを考えるより、今は卵を手に入れるために急がねば。今日の夕食はその戦利品の卵でオムライスでも作ることにしよう。


「あれ?」


 そこで俺は前を歩く男女に目が付いた。

 もしかして、秋人……?

 間違いない。男の方は、紛れもなく秋人だった。そして。

 あの女の子は誰だ?

 秋人と並んで歩く女の子に目を向ける。

 どこかで見たことあるような……見たことないような。長い黒髪に、すらりとした細い脚。どう考えてもみゆきではない。

 秋人もみゆき以外の女の子と下校することあるんだなあ。


 考えてみれば当然だ。秋人は生徒会に入って交友関係も広いはず。それならこうして俺の知らない女の子と並んで下校していてもなんら不思議ではない。

 いや。もしかしたら、彼女かもしれない。これまで浮いた話は聞いたことがないが、マジメで清潔感溢れる秋人だ。きっと女子からの人気も高いだろう。ならば彼女という可能性も捨てきれない。


 ……ならここは、そっとしておいてやるとするか。


 明日にでも本人にこっそり聞いてみよう。それにしても、みゆきは知っているのだろうか。いや、アイツに限ってそれはないだろう。恋愛ごとには疎そうだしな。知ったらきっと「ほわああ」とか言って驚くだろうな。

 俺は歩く速度を遅くして静かに、2人から距離を取ろうとする。


 ごゆっくり……。

 心の中でそうつぶやいた時。


「誰か―――――――ッ!!」


 空気が裂けるような悲痛な声が聞こえてきた。


「? ……なんだ?」


 驚いてその場に立ち止まっていると、俺が歩いている道の数メートル先の曲がり角から、男が飛び出してきた。サングラスにマスク、ニット帽といかにも怪しげな格好をしている。


「なんだなんだ」「ドロボウ?」「なに怖い……」


 周りを歩く生徒たちがざわつき始める。


「ひったくりよー! 誰か捕まえて!」


 またしても耳をつんざくような女の人の声。少し遅れてスーツ姿の女の人が角から現れる。

 再び男の方を見れば、男の腕の中には女物のカバンがある。


 ……あれか!


「ッ!」


 気づけば俺は走り出していた。

 網目に沿うようにして、驚いて固まったりしている生徒をかいくぐり、男を追う。


「待てええええ!」

「え、和真?」


 さっきまで距離を取ろうとしていた秋人も追い越し、男との距離を縮めていく。

 男は追っている俺に気づき、こちらをチラチラと見てくる。そして、逃げ切ろうと速度を上げ始めた。


「くそ……」


 男の背中が少し小さくなって、俺は焦る。

 そもそも、なんで俺は走り出したんだろう。どうして諦めることなく走り続けているんだろう。そこまで正義感が強いわけでも、行動力があるわけでもないのに。自分でもこうして一心不乱に追いかけている理由はさっぱりだ。


 でも、頭の中にふと思い浮かんだのだ。

 きっと、あのカバンにはお金などが入っているのだろう。盗られた女の人がきちんと働いて稼いだであろう、お金が。


 許せない。

 それを、盗むなんて。


「うおおおおおおっ!」


 ギアを上げ、全力疾走する。風を切り、空気がぴしぴしと頬に当たる。

 しかし悲しいかな。男との距離がどうしてもこれ以上縮められない。


「くっ……」


 急に走り出したせいでもあるのだろう、足が痛んできた。

 運動部に所属しているわけでも、毎日トレーニングをしているわけでもない俺の身体では、これが限界なのだろうか。

 何か。何でもいい。アイツに近づくための、止められるような手立てはないか。


「はあっ、はあっ、はあっ」


 男も疲労からか、息を切らして激しい息遣いになっているのが聞こえる。

 もう少しだ。もう少しなんだ。


「っく……!」


 俺は手に握り締めたままのカバンを見やる。


 ……これなら!


「うおおっ!」


 カバンを男めがけて、思いっきり投げる。

 まるでフリスビーのように高速回転をしながら、目標に近づいていく。だが、次第に勢いを失い、重力に負けはじめた。

 走りながら、念じる。


 頼む……当たってくれ……!

 すると。


「なっ、なんだぁ!?」


 俺の願いが通じたのか、俺のカバンは男の脚の間へと入り込んだ。そして、男は脚をひっかけて地面に転ぶ。


 チャンス!


「おりゃああああああ!!」


 意を決して、思い切り俺は男に向かって飛びかかる。


「うわああっ」


 なんとか飛びつくことに成功し、男からは情けない悲鳴が出てきた。

 ズサササッ、と音を立てて2人とも道になだれ込む。俺は逃がさないように、腕を離すことなく男にしがみついたままだ。

 倒れた男の腕を捻り、盗んだバッグを取り返す。


「和真! 大丈夫?」


 遅れて秋人が息を切らしながら近づいてくる。


「ああ、なんとかな……」


 うつぶせに倒れる男の上に馬乗りになり、俺は秋人に笑いかけ親指を突き立てた。



 数分後。誰かが通報してくれた警察が到着し、男はお縄になった。

 一応事情聴取ということで、俺は警察署まで同行することに。カバンを盗まれた女性は俺に何度も頭を下げてお礼の言葉をくれた。警察の人から、危ないから次はまず警察を呼ぶようにと釘を刺されたのは少し心外だったけど。


 家に帰れたのは結局、すっかり日が沈みきった夜。


「あ、卵……」


 暗い玄関で、俺の虚しいつぶやきが空気中を漂う。

 その夜、俺の夕食はオムライスからケチャップライスへの変更を余儀なくされた。

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