ラストビューイング

ふじゆう

プロローグ

「本当に申し訳ない。俺が不甲斐ないばっかりに・・・お前に甘える形になってしまって・・・」

 白髪の頭頂部を見せ、鴨川製鉄所の創設者である鴨川社長が、深々と頭を下げている。

「いや、だから、頭を上げて下さい。自分で決めた事ですから。本当に気にしないで下さい。鴨川社長には、感謝しかないです」

 鴨川社長の腕の辺りにソッと触れ、何とか頭を上げてもらう為、俺は必死で笑みを浮かべている。

「・・・そろそろなのか?」

「え? あ、まあ。そうですね。もう十分です。これも全ては、鴨川社長のお陰です。本当に、ありがとうございました」

 鴨川社長より、低く頭を下げた。鴨川社長には、本当に感謝しかない。高校を卒業し、鴨川製鉄所に入社して、三十年程お世話になってきた。

 十年前、自暴自棄になっていた俺を、救ってくれた二人の内の一人だ。

「有川・・・お前、本当に・・・」

 ゆっくりと、顔を上げた鴨川社長が、眉を下げて言いかけた時に、突然社長室の扉が乱暴に開かれた。

「社長! 有川さんがリストラって、どういう事ですか!?」

 眉間に皺を寄せて、ズカズカと入ってきたのは、入社二年目の知念だ。どうして、新人に毛が生えた程度の彼が、堂々と社長室に入って来られるのか不思議だ。知念は、直属の部下という訳ではないが、毎度の事ながら、彼には驚かされる。

「他に辞めるべき奴は、沢山いるでしょう!? なんなら、俺が辞めたって良い! どうして、有川さんが首を切られなきゃいけないんですか!? 納得できません!」

 おいおい、お前が口を出せる問題ではないぞ。最後の最後まで、ハラハラさせられっぱなしだけど、今では良い思い出だ。俺は、社長への挨拶もそこそこに、知念の腕を掴んで社長室を後にした。

「ありがとうな、知念。でも、俺は納得しているんだ。早期退社の意向を俺から伝えたんだからな」

 廊下の隅まで知念を引っ張っていき、彼を宥めている。知念は、鼻息を荒くして、今にも社長室へと殴り込みに行きそうだ。良い意味でも、悪い意味でも、実直で裏表のない素直な男だ。思った事を何でも口にしてしまうのが、玉に瑕なのだけど、今まで可愛がってきた。

「その年で次のあては、あるんですか? 有川さん独身ですよね? 孤独死とか洒落になりませんよ?」

 ドキリとした。なかなかに辛辣な事を言うものだ。硬直しかけた頬を強引に持ち上げ、笑みを見せた。

「あてがあるから、辞めるんだよ。独り身なのは、ほっとけ」

 嘘を付いた。正確には、本当の事を言っているのだが、彼の言う『あて』とは、再就職の事なのだろう。

右手の指で、左手の薬指を触った。

「別れた奥さんに、未練があるんですか?」

 は? 突然、こいつは、何を言っているんだ? 話が突拍子もない方向へと飛んでいき、ただ困惑する。

「だって、ほら。今も左手の薬指に触ってるじゃないですか? 有川さん自分で気づいてないんですか? よく、左手の薬指を触ったり、眺めたりしていますよ? だから、そうなのかと思って」

 知念に言われ、手元を見てみると、確かに触っていて、慌てて手を背後に隠した。

「ただの癖だよ。十年も前に分かれたかみさんに、未練なんかある訳ないだろう? そこまで、女々しくないぞ」

「そうですか・・・ご飯は、ちゃんと食べて下さいよ。有川さん、顔が疲れてます。風邪とか、引いてませんか?」

「ああ、大丈夫だよ。引継ぎ業務で、少々疲れただけだ。しばらく、ゆっくりするよ」

 その後、知念とは、様々な話をした。ほとんどが、知念がやらかした奇妙奇天烈な、行動の数々の思い出話だ。付き合いは、一年ほどだが、親子ほど年の離れた後輩を、目にかけてきた。知念は、送別会と称して飲みに誘ってくれたが、どうしても外せない用事があるからと、丁重に断った。社長や同僚たちも送別会を企画してくれていたのだが、それも全て断った。想いを無下にしてしまったのは、非常に心苦しかったけれど、仕方のない事だ。彼等には、十分過ぎる程良くしてもらった。

 変な遺恨を残したくないし、飛ぶ鳥跡を濁さずだ。

 自宅へと帰る道のりで、ふと前の妻と娘の事を思い出した。知念が、思い出させてくれたようだ。しかし、当時の想いは棚上げしたとしても、今では本当に未練も愛着もない。小さかった娘も、もう高校生くらいだろうか? あれから、一度も会っていないし、連絡も取っていない。しかし、それで良かったのだと、今では思う。お互いの為にもだ。

 こうして、穏やかな気持ちで過去を振り返られるのは、鴨川社長と家で待つ妻のお陰だ。鴨川社長や知念を含めた誰にも、妻の事は話していない。内縁の妻というものだ。内密の妻でもある。

 鴨川社長には、本当に良くしてもらった。十年前に、自暴自棄になって、全ての活力が失せ、仕事を無断欠席していた時に、自宅までやってきて、救い出してくれた。事情を説明すると、親身になって話を聞いてくれたのだ。大の大人二人が、ひざを突き合わせて、互いに涙を零していた。思い返すと、恥ずかしい事この上ないが、あの時はとても嬉しかった。鴨川製鉄所の経営が、苦しくなってきていたのは、知っていた。だから、俺は自ら退職する事を決めた。辞表をなかなか受け取ってもらえなかったけれど、何とか説得に応じてくれた。

 最後に恩返しができて、本当に良かった。気持ちを受け取ってもらえて、今では晴れ晴れしている。鴨川社長は、第二の親も同然だ。そう思うと、心苦しくもある。

 やはり、親不孝なのかもしれないけど、こればかりは、どうしようもない。努力や根性では、どうにもならないのだ。

 そして、妻にも、感謝している。感謝してもしきれない程に。今こうして、いられるのも妻のお陰だ。生きる活力や日々の幸福を与えてくれた。

 マンションに辿り着き、自宅の玄関扉の取手を握ったところで、体が固まってしまった。

 妻を悲しませてしまうからだ。

 でも、ちゃんと、説明しなければならない。

 俺の想いを、真っ直ぐに伝えなければならない。

 俺の我儘を受け入れてもらえるだろうか?

 様々な想いが交錯し、金縛りにあったように、体が動かない。すると、自然と笑みが零れてきて、体の硬直が解れてきた。

 妻との出会いを思い出したのだ。

 十年近く、共に暮らしてきた妻に―――

 俺は、初めて告白する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る