番外編・ふしぎの国のキャサリン(その1)
夏休みに入ってすぐのある日、キャサリンはホームステイしている祖父の家で旅行の荷物を整えていた。その表情は笑顔ではちきれそうだった。
キャサリンが母親の祖国である日本に留学してから四か月ほどの間、慌ただしく過ぎていく日常の中で、キャサリンの目にはそこに映る日本の文物があらためて新鮮に映った。キャサリンの祖父にあたる武藤俊輔と祖母にあたる武藤絹代もキャサリンをかわいがり、休日にはキャサリンを京都や奈良にある神社や寺院、博物館などに案内したりもしたが、それによってキャサリンは日本のもっといろんなところに行きたいと思うようになった。
そして学校が夏休みになると、八月にキャサリンが一時帰国するので、俊輔はその前の七月中にキャサリンをどこか日本らしい情緒のあるところに連れて行くことを決めて宿の予約を取った。キャサリンはネットで旅先の観光サイトを見ながら、そこに載っている写真の情景に胸をふくらませていた。
旅行の当日になると、外を真夏の強い日差しが照らしつけていた。キャサリンは俊輔と絹代と一緒に最寄りの駅から電車に乗って、新大阪駅で新幹線に乗り継いだ。すでに七十歳を過ぎた俊輔と絹代も、孫娘のキャサリンがキャリーバッグを手にして嬉しそうな顔をしているのを見ると、自然と顔をほころばせていた。
すでに学校が夏休みになっていることもあって、新幹線のホームには大きな荷物やお土産の紙袋を手にした、旅行客や帰省客の姿もちらほら見られた。キャサリンたちが乗り込んだ新幹線が新大阪を発車して京都を過ぎると、いつしか車窓は市街地が途切れて真夏の青々と茂った田園が広がり、ときどき小さな神社や寺も車窓を通り過ぎるようになった。このような日本の田園風景を目にするだけで、キャサリンの旅心はいやおうなしに高まっていった。やがて新幹線が関ヶ原にさしかかると、ここは昔天下分け目の戦いがあったところだという俊輔の説明を、キャサリンも興味深げに聞いていた。キャサリンも寺島琴絵などから話を聞かされて、「歴女」といわれるくらいに日本の歴史にも興味を持っているようだった。
キャサリンたちは新幹線を名古屋で降りると、そこで高山方面に行く特急ひだに乗り換えた。俊輔が列車を乗り換える合間に駅弁を買い求めると、キャサリンはイギリスの鉄道の駅でこのような駅弁は売っていないと言って珍しそうな顔をした。
キャサリンが座席に腰かけてしばらくたつと、列車が座席とは逆向きに名古屋駅を発車したのにキャサリンは驚いたが、岐阜駅で列車が向きを変えたのにキャサリンはほっとした。
キャサリンが駅弁を口にしているうちに列車はやがて山中にさしかかり、車窓一面に青々と木が茂った夏の山の景色が広がると、車内にまで山の澄んだ空気が漂ってきそうな気がした。さらに線路に沿った川は狭まって渓流となり、澄んだ水が夏の強い日差しを浴びてキラキラと輝きながら、川面に転がる岩をうがって流れるようになった。日本に来てから神戸のような都会の風景以外あまり見たことがなかったキャサリンはただ、その車窓に目を奪われていた。さらに山間の小さな駅のまわりにもこじんまりとした集落があるのを見て、キャサリンは以前に見た日本のアニメのヒロインは、ちょうどこのような山村で暮していたことを思い出すと、この山村の人たちはどのような暮らしをしているのだろうと考えていた。やがて列車が温泉地として知られる下呂を過ぎ、分水嶺のトンネルを抜けて高山盆地に入ると、キャサリンたちは高山を過ぎた飛騨古川で列車を降りた。
キャサリンが飛騨古川に行くことを希望したのは、そこがキャサリンが以前に見た日本のアニメの舞台になったからだった。駅前にアニメにも登場した図書館があるのにキャサリンは目を丸くしたが、飛騨古川は白壁の古い家並みが並ぶ落ち着いた町で、街中の水路を鯉が悠々と泳ぐ姿を見て、キャサリンは思わず声をあげた。
「この魚、すごくかわいいですね」
その声を聞いて、俊輔は笑顔を浮べた。
「イギリスにこのような錦鯉はいないだろう」
「この魚、ニシキゴイというのですね。日本では五月になると、子どもの成長を願ってこの鯉をかたどった鯉のぼりという旗のようなものをあげると母から聞きました」
キャサリンの言葉に、俊輔と絹代も納得したようだった。
さらにアニメの舞台にもなった古い神社を訪れると、キャサリンはアニメ映画そのものの神社の森厳な雰囲気にひときわ感銘を受けていた。俊輔と絹代は、キャサリンの元気さにただ圧倒されているようだった。
そして三人が今晩の宿泊地である高山に向かい、高山の観光のメインである古い街並みを訪ねると、通りは外国人を含む多くの観光客でにぎわっていた。しかしそれでも、高山は山の空気がほのかに漂ってくるような町だった。土産物屋の店先に並ぶ、色とりどりの猿ぼぼや漆器なども、キャサリンの目を楽しませたが、そこでキャサリンは酒屋の軒先に吊り下げられた、茶色い球体に目を向けた。キャサリンが俊輔にあれは何かと尋ねると、俊輔はこれは杉玉といって杉の葉で作られており、新酒ができたことや熟成の具合を示すために酒蔵の軒先に下げるものだと説明した。
そして一行は歩くのに疲れると、古民家を改装した喫茶店で一息つくことにした。キャサリンはさっそく、和風味のスイーツを注文してそれを満喫した。
「やはりキャサリンは甘いものに目がないみたいね」
俊輔と絹代もスイーツを味わうキャサリンの顔を笑顔で眺めていた。
そしてキャサリンたちが喫茶店を後にすると、夏の日も西に傾きかけて空は明るさを失いつつあり、涼しい風がそよぐようになっていた。キャサリンが古い街並みをのんびりと歩いていると、ふと橋の上で町中を流れる川の清流に目を止めた。キャサリンはその澄んだ川面を眺めながら、ロンドンにいる家族や友人たちのことを思い出して、みんなにもこの日本の情景を見せたいと思っていた。
一行が高山市内のホテルでチェックインを済ませると、日暮れとともに高山の町は静まり返った。俊輔と絹代はキャサリンを市内の料理店に案内すると、俊輔が飛騨の地酒を味わう傍らで、キャサリンは飛騨牛をはじめとする日本食に舌鼓を打った。料理店の従業員たちも外国人観光客の姿はもはや珍しくないとは見えて、キャサリンと簡単ながら英語で会話を交わした。キャサリンが自分の母は日本人で、祖父母と一緒に日本を旅行している旨を伝えると、従業員もその話をもの珍しそうに聞いていた。
キャサリンがホテルに戻って浴場で旅の汗を落し、浴衣に着替えて客室に戻ると、俊輔と絹代もキャサリンの浴衣姿をかわいいと褒めた。キャサリンは照れ笑いを浮べると、さっそくロンドンの家族や友達に、今日訪れた飛騨古川や高山の情景の写真をスマホで送信し、その後もホテルの客室の窓から見えるほの暗い山の稜線をじっと眺めていた。
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