第六章・ロミオとジュリエット(その15)・第三部完
潮音たちは喫茶店を後にして、海べりの公園を歩き出していた。秋の空は真っ青に晴れ上がり、穏やかな木漏れ日が散歩道を照らしつけていた。散歩道の敷石の上には、早くも変色して木からこぼれ落ちた木の葉がいくつか舞っていて、季節は着実に冬へと向かっていることを感じさせた。
潮音が海べりの散歩道を少し歩いてみると、頬をなでるかすかな潮風に心地良さを感じていた。海の方向に目を向けると、対岸の人工島の倉庫群や、海辺を走る高速道路が運河を渡る橋も一望できた。
潮音の隣を歩いていたのは光瑠だった。光瑠は紫の家で服を着替えさせられて以来、ずっといささか照れくさそうな表情を崩さなかったが、美術館で絵を見ているうちに多少はふっ切れたようだった。潮音は光瑠が学校で周囲の生徒たちに対しても気さくで凛々しく振舞っている、いつも通りの様子に戻ったのを見て、少し安堵した。
そこで光瑠は、潮音に海に面したベンチに腰を下ろすように勧めた。潮音がいささか緊張気味にベンチに腰を下ろすと、光瑠もそれに並ぶようにベンチに腰掛けて、潮音の方を向き直して声をかけた。
「そんなに固くならなくてもいいのに。私は藤坂さんとずっと話がしたかったんだ」
潮音は校内でも自分よりずっと人望を集めている光瑠が、屈託のない様子で自分に声をかけてくるのに戸惑わずにはいられなかった。そこでさっそく、潮音は光瑠に話しかけた。
「あの、吹屋さんは入学式の日に、私が緊張していたところに真っ先に声をかけてくれたよね。私はあのとき、松風でちゃんとやっていけるのか不安でしょうがなかったけど、吹屋さんが気さくに接してくれたおかげで、なんとかこの学校にもなじめるような気がしたんだ」
「あのときの藤坂さんは、見るからにおどおどしていて不安そうだったからね。でもそれにはあんな事情があったなんて知らなかったよ」
「変に同情してくれなくたっていいよ。私はたしかに男から女になったわけだけど、だからといってこの学校でも変に引け目を感じたりすることなく、ずっと『自分は自分でいたい』と思いながらここまでやってきたんだ。でも私なんかまだまだだよ。今度の劇だってみんなが協力してくれてやっとできたし、今日だって自分は絵のことなんか全然わかんないのに、松風のみんなは絵だって詳しいからさ…」
そこで潮音のはにかんだ態度を断ち切るように、光瑠はきっぱりと言った。
「だからこそ藤坂さんは自分が正しいと思うことにははっきり正しいと言ってきたし、いやなことからも目を背けたりせずに体当たりでぶつかってきたわけね」
その光瑠の言葉に、潮音は照れくさそうな表情をした。
「そこまで言ったらオーバーだけどね。私なんてただ自分のやりたいように、わがままにやってきただけだよ」
「そこが藤坂さんのいいところじゃない。紫も藤坂さんのそういうところがわかっていたからこそ、今度の劇でも藤坂さんにジュリエットの役をやるように勧めたんじゃないかな」
「でもだったら何で私がジュリエットなんだろう」
「藤坂さんがロミオの役をやったら、藤坂さんが『松風の王子様』になっちゃうでしょ?」
光瑠が笑顔を浮べるのを見て、潮音は気恥ずかしそうな表情をした。
「何言ってるんだよ。オレはそんなつもりないのに」
「そういうところで自分のこと『オレ』とか言うあたり、やはり男の子だったころのくせが抜けてないのね」
潮音はここで、しまったとでも言わんばかりの表情で口をつぐんだ。
「私の前じゃ気にしなくてもいいよ。でもおかたい学校の先生の前じゃ『オレ』なんて言わないほうがいいかもしれないね」
しかしそこで光瑠は、伸びをしながら言った。
「でも私だってちょっとは気持ちわかるよ。私はお兄ちゃんが二人いて、三人きょうだいの中で女は私一人だったから、遊ぶときはお人形遊びとかするよりお兄ちゃんとバカ騒ぎする方が多かったからね」
「その気持ちはわかるよ。私だって姉ちゃんがいるけど、姉ちゃんとはケンカばかりしてたもんね」
「私がバスケを始めたのだってお兄ちゃんの影響なんだ。服だってちっちゃな頃からボーイッシュな服ばかり着てたし」
「吹屋さんってもしかして自分はかわいいものとか似合わないとか思ってない? そんなことなんか気にせず、自分の好きな風にすればいいじゃない。今日みたいな服着たって、吹屋さんには十分似合ってるよ」
「だから私は、藤坂さんのことがちょっとうらやましいんだ。藤坂さんは自分の考えをはっきり口にして、その通りに行動できるのだから。これもやっぱり、藤坂さんが女の子になっても、それを乗り越えることができたからなのかな…」
潮音は校内では明るい性格でリーダーシップを発揮し、生徒からも多大な信頼を得ていた光瑠の口からこのような不安げな言葉が発せられるのを聞いて、意外に思わずにはいられなかった。
「吹屋さんってもっと自分に自信持てば、どんな服着たって似合うようになるってば。もともと男だった私が、今じゃこうやってスカートはいてるくらいだもの」
「それなんだけど…藤坂さんはたしかに四月に学校入ったばかりの頃はちょっとぎこちないところがあるかなって思ったんだ。でも今じゃ藤坂さんって、スカートだってちゃんと履きこなしてるし、この夏の花火大会のときには浴衣だってちゃんと着てきたし」
「何べんも言わせるなよ。女の服着たって自分は自分。そう思えるようになったら、むしろおしゃれができるようになって楽しいと思えるようになったよ」
その潮音の言葉を聞いたとき、光瑠はしばらく黙った後で、あらためて潮音を向き直して言った。
「実は私も、ロミオの役を引受けはしたものの、内心ではかなり不安もあったんだ。でも藤坂さんと一緒に劇をやっているうちにちゃんと劇を成功させようという気になっていったよ。今日だってこうやって藤坂さんと話をして、かえって気が楽になったし。これからもよろしくね」
そして光瑠は公園のベンチから立ち上がると、あらためて潮音の手をしっかりと握ってみせた。潮音は最初こそ光瑠の態度に戸惑っていたものの、光瑠がふっ切れたような明るい表情をしているのを見て、自分もいつしか笑顔になっていた。そこに紫たちも現れて、秋の日も西に傾きつつあったので、公園の入口で解散することにした。
電車に乗って帰宅する間、暁子は冷やかし気味に潮音に言った。
「潮音は劇に出たことで、吹屋さんとも仲良くなれたみたいね。それだけでも劇に出て良かったじゃない。でも吹屋さんは学校でも人気あるから、特に中等部の子が焼きもち焼いたりしないかな」
「バカなこと言うなよ、暁子」
電車の中でもふざけ合う潮音と暁子を、帰る方角が同じ紫は、ニコニコしながら眺めていた。
文化祭の代休が終って学校にいつも通りの日常が戻ってくると、ロミオの役を演じた光瑠やヒースクリフの役を演じた愛里紗に対してだけでなく、潮音を見る生徒たちの目は明らかに変っていた。昼休みのカフェテリアで、潮音が暁子と一緒に昼食を取っているときも、周りの生徒たちはみんな潮音に注目を向けていた。潮音がそのような周囲の空気に戸惑っていると、暁子がはっきりと口を開いた。
「潮音ももうちょっとぴしっとしな。学校のみんなは吹屋さんと一緒に文化祭の劇をちゃんとやり遂げたことで、潮音のこと認めてくれたんだよ」
「そうかなあ…自分がなんとか劇をやれたのは峰山さんや吹屋さんがしっかりサポートしてくれたからで、自分は大したことなんかやってないよ」
「だから潮音はもっと自信持ってしっかりしなって。でも…そろそろ潮音が女の子になっちゃってから、ちょうど一年だよね。あのときはほんとに潮音がどうなるか心配するばかりで、今みたいに潮音がこの学校に女子として通っているなんて想像すらできなかったよ」
そこで暁子は、途端に神妙な表情になった。
「ああ…たしかにそうだな。でもこのオレがなんとかして学校に通うことができているのは、この一年暁子がそばにいて、いろいろオレのこと支えてくれたおかげだよ。ほんとに暁子がいなかったら、今ごろオレなんかどうなっていたかわかんないよ」
「よしてよ…今じゃむしろあたしの方こそ、あんたに教えられることばかりだよ。あんたはこの一年でだいぶ成長したのに」
「成長なんて、そんなつもりはないけどね。そりゃ自分がもし女になってなかったら、どこの高校行って、どんなことしてたのかなんてわかんないけど、ともかく今はそんなことなんか考えないで、自分ができることを一つ一つちゃんとやっていくしかないよ」
そうしているうちにも、中等部の生徒が何人か潮音に熱い視線を向けていた。生徒たちは小声でこのように話していた。
「あの人、文化祭の劇でジュリエットの役で出てた藤坂さんじゃない?」
「バスケ部の吹屋さんが演じたロミオもかっこよかったけど、ジュリエットもすごかったよね」
潮音はそれを聞いて照れくさい気分になったが、そこで暁子が潮音にそっと声をかけた。
「潮音もずいぶん人気じゃん。だったら変にクヨクヨしてないで、もっと元気に愛想よくしてなきゃね」
暁子に肩を叩かれて、潮音は中等部の生徒たちの方を向き直すと笑顔を浮べてみせた。暁子はその様子を眺めながら、ふと息をついてどこか感慨深そうな表情をしていた。
(第三部・完)
(作者あとがき)
「裸足の人魚」第三部はここで完結です。第三部は夏休みと文化祭が中心になりましたが、なんとかここまでたどりつくことができました。
続く第四部は、クリスマスやお正月などのイベントが待っていますが、どうするかいろいろ思案中です。へばらずに書き続けていきたいと思います。
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