第六章・ロミオとジュリエット(その12)
翌朝潮音が目を覚ますと、窓の外には穏やかな秋の朝日が照らしつけていた。潮音が布団の中で時間を確認するとまだ早朝で、隣の布団で寝ている暁子もしばらく目を覚ましそうになかったので、潮音がもうひと眠りするかと思って二度寝しようとすると、隣の部屋から物音が聞こえてきた。
そこで潮音が布団から起上って隣の部屋をのぞいてみると、紫が軽くストレッチをやっていた。紫も潮音がいることに気がついて、潮音に顔を向けた。
「「潮音…ちゃんと眠れたの? 無理して起きてこなくてもいいのよ」
「ああ。それより紫って、いつも学校来る前にこのストレッチやってるの?」
「そうよ。毎朝の日課だからね。バレエやろうと思ったら、こうやって体の柔軟性を高めておかないとね」
そこで潮音は、紫がバレエで巧みな演技を見せるだけでなく、均整の取れた体形を保っていられるのも、このようにしてストイックに自分を律し、日々の努力を怠らない向上心の賜物なのだと実感していた。
「毎朝ちゃんと早起きしてこれやって、その後学校の勉強や生徒会活動もしっかりやってるんだから、やっぱり紫はすごいよ」
そのように話す潮音の口調は、いつしかため息混じりになっていた。
「慣れれば大したことないよ。潮音だって明日からでも毎朝ストレッチやってみない?」
そこから潮音は、紫と一緒にストレッチと柔軟体操をやることになった。そうしているうちにみんなも起きてきたが、暁子は潮音を見て、紫ほどではないにしても潮音の体が柔軟なことに驚いていた。
「潮音…やっぱりすごいじゃん。ちゃんとバレエの練習やってるだけのことはあるよ」
「いや、紫にさんざんしごかれているおかげだよ」
潮音がこう言ったときには、紫も少し苦笑気味だった。
そこで萌葱と浅葱が、紫に朝食の準備が整ったことを知らせに来た。紫たちにとってこの日は文化祭の代休だったが、萌葱と浅葱はちゃんと学校があるのだった。そこでも萌葱と浅葱は、明るく元気いっぱいな様子でみんなを呼びに来たので、その場の空気が活気づいたような感じがした。
潮音たちが食堂に入ると、台所では紫の母親の幸枝が作った朝食の準備がすっかり整っていた。大企業の役員で忙しい紫の父親は、すでに朝食を済ませて家を後にしていた。
潮音たちがみんなで朝食を取っている間も、萌葱と浅葱はきょろきょろしながらこの場に集まっているみんなの顔を見ていた。この二人にとっては、同じバレエ教室に通っている潮音はまだしも、紫のクラスメイトたちが家に来たことが珍しいようだった。そのあどけない様子を見て、光瑠が声をあげた。
「やっぱり紫の妹ってかわいいじゃない」
光瑠に「かわいい」と言われて、萌葱と浅葱は照れくさそうにしていた。そこで紫は、少々むっつりしながら言った。
「そうでもないよ。二人ともちっちゃな頃はずいぶんやんちゃで、私もさんざん手を焼かされたんだから」
そこで光瑠は紫に答えた。
「いいじゃん。うちもお兄ちゃんが二人いて、三人きょうだいで女は私だけだから、すっかり男っぽくなっちゃってさ」
そこで紫が口を挟んだ。
「光瑠はこう見えて、結構かわいいもの好きでキャラクター商品だって集めているのに」
紫が取りすましたような口調で言うと、光瑠は思わず赤面してしまった。
「悪い? 好きでやってるんだからいいでしょ」
潮音はこの一連のやりとりを見ていて、光瑠ももう少し落ち着けばいいのにと思った。
朝食が一段落し、萌葱と浅葱がランドセルを背負って小学校に向かうと、紫は潮音たちみんなを集めて提案をした。
「今日は振替休日で学校休みだから、みんなでどっか行かない?」
その紫の提案には、首を横に振る者などいなかった。そこで紫は、みんなの前にいくつかの紙片を持ち出した。
「県立美術館で今印象派の展覧会をやってるんだけど、その招待券をもらってるんだ。この機会だからみんなで見にいかない?」
そこで一番乗り気になったのは琴絵だった。琴絵は顔をほころばせて、さっそく身を乗り出してきた。
「いいねえ。私、この展覧会に行きたかったけど、これまでずっと文化祭の準備で忙しかったからね」
光瑠も紫から展覧会のパンフレットを示されると、それに見入っていた。
「この絵、すごくきれいじゃん。あたしもモネやルノワールといった、印象派の絵は好きなんだ」
その一方で、潮音と暁子は今まで美術館に行って絵画や彫刻を鑑賞したことなどあまりなかっただけに、その場から取り残されたような疎外感を味わっていた。
そのような潮音と暁子の様子には紫も気がついたらしく、潮音にそっと声をかけた。
「潮音は美術館とかには行かないの?」
潮音は気恥ずかしそうに首を縦に振った。しかしそこでも、紫の態度は落着き払っていた。
「絵のこととかわからないんだったら、ちょっとだったら教えてあげられるよ。第一、バレエをやろうというんだったら、教養と美的センスを磨かなきゃね」
紫にそこまで言われると、潮音も返す言葉がなかった。潮音と暁子もみんなと一緒に、美術館に行くことにした。
こうなるとさっそく、出かける準備をする番だ。潮音は紫から、前日にスーパー銭湯に行くときに着た服を借りることにした。紫もきちんと洗濯して返してくれたらいいと言って、それを快諾した。
潮音がデニムのスカートをはいて身支度を整えようとしていたとき、紫はその次に光瑠のファッションを眺めていた。
「光瑠って私服のときはだいたいこんなかっこしてるの?」
「うん。家にいるときはずっとズボンで、スカートははかないかな。だってあたし、こんなに背が高いし、性格だってガサツだしさ。うちの学校の礼法の授業は、はっきり言って窮屈だったし」
しかしここで、紫の目がキラリと光った。そのときの紫の表情を見て、光瑠がぎくりとしたときにはもう遅かった。さっそく紫は、自室のクローゼットからフリルのついたピンク色のブラウスやら、ふんわりとしたシフォンのスカートやらワンピースやらを持ってきていた。
「あたし…サイズも大柄だし、紫の服なんか合わないよ…」
「わかんないよ。光瑠は昨日、自分もジュリエットの役をちょっとやってみたかったとか言ってたじゃない」
光瑠が紫から着せ替え人形にさせられているのを見て、潮音も自分自身が以前はこのような目にあわされたことを思って、光瑠にご愁傷様と言いたい気分になった。
それでも光瑠が一通り着替えを済ませて、顔にナチュラルメイクを施した姿で現れると、潮音だけでなく琴絵や暁子までもが息を飲んだ。
フリルの飾りのついたピンクのブラウスと、軽やかなシフォンのスカートを身にまとった光瑠には、これまで学校でクールな姉御肌の性格として生徒たちの信望を集めていたいつもの光瑠の面影はなかった。しかしそれでも、光瑠はこのようなフェミニンな装いもそれはそれで似合っているから、気後れすることなどないのにと潮音は感じていた。
「吹屋さん…そういう格好だって似合ってるしかわいいんだから、もっと自信持ってしゃきっとしてればいいのに」
「藤坂さんからそんなこと言われるなんて思っていなかったよ。だいたいどうして藤坂さんって、男の子だったのにそうやってスカートとか普通にはいてるわけ?」
光瑠が皮肉っぽい口調で潮音に言ったので、潮音はそれに答えてみせた。
「男だったからスカートが嫌いなんて、先入観にとらわれすぎだよ。どんな服着たって自分は自分だと思えるようになったら、逆に自由におしゃれができるようになって、目の前の世界が広がったような気がするんだ」
「藤坂さん…、あたし、あんたのそういうとこは好きだよ。だから今までうちの学校でもやってこられたし、文化祭の劇だって成功したんじゃないかな。それにそのデニムスカート、けっこう似合ってるじゃん。」
その光瑠の言葉には、琴絵や暁子も同感だと言わんばかりにうなづいていた。そこで紫はみんなに声をかけた。
「そろそろ行こうか」
そしてみんなは、身支度を整えると紫の家を後にした。潮音が紫の家に着てきた制服は、きちんと畳んだ上で紫が用意した袋に入れて持っていくことになった。
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