第六章・ロミオとジュリエット(その10)

 潮音は暁子と一緒に家に帰ると、さっそく紫の家に泊まるための支度を始めた。寝間着代わりのスウェットスーツや洗面用具などを整えていると、インターホンが鳴った。


 潮音が玄関に出ると、さっそくラフな私服に着替えた暁子が、お泊り会のために必要なもの一式を入れたカバンを手にドアの前に立っていた。しかし暁子は、潮音の姿を見るなり怪訝そうな顔をした。


「潮音、ほんとにそのかっこでいいの?」


 潮音は帰宅したときのまま、学校の制服を着ていた。潮音は荷物を整えるのに手間取っていて、服を着替えるのを忘れていたのだった。とはいえ今から服を着替えるのもめんどくさい気がしたので、潮音は制服のまま紫の家に行くことにした。


 暁子は潮音と連れ立って紫の家に向かう途中で、ふと言葉を漏らした。


「潮音、やっぱり峰山さんみたいなお嬢様タイプの子の家に泊りにいくのは心配なの? なんか落ち着かないように見えるけど」


 暁子に言われて、潮音は少々ぎくりとした。


「え…そんな風に見えるの。たしかに紫の家には何度か行ってるけど、お泊り会とかははじめてだからさ…」


「もっとリラックスしたらいいのに。昔はあたしがあんたの家に泊ったこともあったし、逆にあんたが綾乃お姉ちゃんと一緒にあたしの家に泊りに来たことだってあったじゃない。そのときのあんたはずっと栄介と遊んでたけど」


 暁子は潮音と話している間も、屈託のない笑顔を崩そうとしなかった。


「でも潮音、あまり峰山さんに失礼なことしちゃダメよ。あんたが変なことしないようにちゃんと監視しとくからね」


 潮音がそう言われて困ったような表情をすると、暁子はおどけた顔をした。


「冗談に決まってるでしょ。あたしはあんたと何年つき合ってると思ってるの? あんたは女の子の家に行ったからといって、変なことしたりするようなやつじゃないってことくらい、ちゃんとわかってるよ」


 暁子に言われて、潮音ははぐらかされたような気分になった。



 そうこうしているうちに、潮音と暁子は紫の家の前に着いていた。


「峰山さんの家って、いつ見ても立派できれいよね。こんな家に行くんだったら、もう少しおめかししてきた方が良かったかな」


 暁子が身の周りを見回しながらそのように言うと、潮音は人差し指を唇に当てて暁子を黙らせた。立派な構えの門のところで潮音がインターホンを押すと、程なくして制服から小ぎれいな私服に着替えていた紫が玄関から姿を現した。しかし紫も、潮音が制服を着ているのに目を丸くした。


「潮音も着替えてくりゃ良かったのに」


「いや、荷物まとめるのに時間かかって、着替えてる暇なかったからね…」


「でもまあいいわ。光瑠と琴絵はもう少ししたら来ると連絡が入ったの。それまで家に上がって待っててね」


 潮音が暁子と一緒に紫の家に上がると、さっそく紫の双子の妹である萌葱と浅葱が潮音を元気よく出迎えた。潮音はいつもバレエ教室で萌葱や浅葱と一緒に練習を行っているので、この二人と潮音はすっかり親しい間柄になっていた。


 潮音と暁子は居間に通されてお茶とお菓子を出してもらったが、しばらくすると浅葱がゲームを手にして潮音のところに来た。


「潮音お姉ちゃん、一緒に遊ぼうよ」


 潮音に快活に声をかけるのは、おとなしくて控え目そうに見える萌葱よりも、元気で快活な浅葱の方だった。着ている服も、萌葱はシックでかわいらしい感じのものを着ているのに対して、浅葱の服はむしろアクティブなストリート系のものだった。潮音もさっそく萌葱や浅葱と一緒にゲームに興じたが、その様子を見て暁子や紫は苦笑いを浮べていた。


 ゲームをしながら、潮音は萌葱と浅葱に尋ねてみた。


「萌葱と浅葱は、紫お姉ちゃんのこと好きなの?」


 その潮音の問いに対して、萌葱と浅葱は二人そろって笑顔で元気よく応えた。


「うん。お姉ちゃんは優しくていつも私たちの面倒見てくれるし、勉強だってわかんないところはちゃんと教えてくれるし、バレエだってすごく上手だし…」


 萌葱と浅葱が屈託のない表情で答えるのには、紫までもが苦笑いを浮べながら聞いていた。


「私だってお姉ちゃんはいるけど、うちのお姉ちゃんは紫お姉ちゃんみたいに優しくないからな。うちのお姉ちゃんなんて、いつもガミガミ口やかましいし、すぐにキーキー怒るし」


 暁子は萌葱や浅葱と仲良さそうに話す潮音を、内心で「調子のいいことばかり言っちゃって」とでも言いたげな表情で、半ば呆れ気味に眺めていた。


 そうしているうちに、光瑠と琴絵もそれぞれの自宅で私服に着替えを済ませて、紫の家に着いていた。琴絵の服はカーディガンにフレアスカートという清楚な感じの装いだったが、光瑠はパンツスタイルながらそれがかえってスタイリッシュに見えた。潮音はこの二人は、私服姿もやはりおしゃれでセンスがいいと感じていた。


 そこで紫の母親の幸枝が、みんなに声をかけた。


「こんなにたくさんの子たちがお風呂に入ったら時間かかるから、みんなで近くにあるスーパー銭湯に行ってきたら? その間に夕ご飯の用意しとくわよ」


 こうなると、潮音の制服姿が周囲の中で浮いで見えたので、紫が潮音を自分の部屋へと連れて行った。紫は潮音に自分の服を好きに選んでいいと言ったが、潮音は長袖のTシャツにデニムのスカートを合わせてその上からパーカーを羽織り、ソックスは学校の制服のものをそのまま履くことにした。


 潮音が着替えを済ませてみんなの前に現れると、紫はさっそく潮音のコーデに目を向けた。


「なかなかいいセンスしてるじゃん。でもスカートにしたんだ」


「悪い?スカートはきたいからそっちにしただけだけど」


「悪いなんて言ってないでしょ」


 そして潮音たちは、紫の家の近くにあるスーパー銭湯に向かうことにした。萌葱と浅葱は、家に残って食事の支度を手伝うことになった。潮音が制服のローファーをはいて外に出ると、秋の日はすっかり暮れようとしていた。



 潮音たちがスーパー銭湯に着いて、服を脱いで浴室に入っても、潮音は紫や光瑠に対して気後れを覚えずにはいられなかった。潮音がモヤモヤした感情を抱えながら、紫が光瑠や琴絵と談笑しているのを背後から眺めていると、暁子が潮音に声をかけた。


「潮音、何ボサーっとしてるのよ。やっぱり峰山さんたちと一緒にお風呂入るのには抵抗あるの?」


 それでもためらい気味の表情を崩そうとしない潮音の背を、暁子はぐいと押した。


「遠慮することないじゃん。今のあんたはどこからどう見ても女の子だよ」


 そう言って暁子が潮音の背を押すと、紫も笑顔で潮音を出迎えた。


「石川さんの言う通りよ。潮音は今度の劇で主演のジュリエットをやったのだから、潮音がいないと始まらないじゃない」


 そこでなんとかして潮音も紫たちと話そうとしたが、鏡の前で体を洗う間も、話題は文化祭の劇のことで持ち切りだった。紫は潮音に対して練習でずいぶん厳しく当たったにもかかわらず、潮音がそれについてきたことを褒めていたが、そのように言われるのは、潮音にとって気恥ずかしい思いがした。


「そんなこと言ったら、紫は私なんかよりずっと厳しいバレエの練習をやってきたんでしょ? それに比べたら私なんか何でもないよ」


 そこで紫が、潮音を諭すように言った。


「でも潮音は、私たちなんか想像もできないくらいつらい思いしたけど、なんとかそこからはい上がって今こうしてこの学校にかよってるわけじゃない。それだけでも十分大したものだと思うよ」


 潮音は紫が話している間も、隣で髪の手入れに余念がなかったが、紫は潮音のストレートな黒髪に見入っていた。


「前から思ってたんだけど、潮音ってきれいな髪してるよね。手入れ大変じゃない?」


「たしかにバッサリ切っちゃった方が楽になるかもしれないと思うこともあるけど…ちょっと事情があって、この髪は切るわけにはいかないんだ」


「石川さんもよく言ってるけど、ほんとにあんたって強情なんだから」


 潮音の言葉には、紫もふとため息を漏らしていた。


「でも紫って、こうして見るとスタイルだっていいし、肌だってツヤツヤだもんな…」


「そんなことないよ。潮音こそもっと自分に自信持ちなよ」


「自分に自信ねえ…」


 そこで潮音は、鏡の前から立ち上がると浴槽につかった。大きな湯舟の中で手足をリラックスさせると、潮音は体のこわばりだけでなく、心の中にたまった緊張までもがほぐされるような気がした。潮音は浴槽の中で劇の練習に明け暮れたここ最近の日々のことを思い出していたが、ようやく肩の荷が下りたと思うと同時に、一抹の寂しさも心の中から抜けなかった。


 スーパー銭湯には薬草風呂や露天風呂などさまざまな種類の風呂があり、潮音だけでなく光瑠や琴絵、暁子もすっかりそれらの風呂でリラックスできたようだった。その間に秋の日もとっぷりと暮れて、夕映えに明石海峡大橋のシルエットが映える頃になってから、みんなで風呂から上がって紫の家まで戻ることにした。



 潮音たちが紫の家に戻ると、台所で紫の母親の幸枝が夕食作りに大わらわで、萌葱と浅葱もそれを手伝っていた。潮音たちも配膳などを手伝って、夕食の準備が整うと、みんなはジュースで乾杯した後で幸枝が作った料理に舌鼓を打った。


「やはり紫のお母さんの料理はおいしいなあ。おかわりしていいかな」


 潮音が料理をぱくつく様子を、暁子は呆れ気味に眺めていた。


「潮音、そんなにがつがつ食べるんじゃないの。もっとお行儀よくしなさい」


 その様子を見て、紫も思わず表情をほころばせていた。


「やはり潮音って石川さんと仲いいのね。こうしてみると、石川さんが潮音のお姉さんみたい」


 その紫の言葉に、潮音と暁子は照れくさそうな顔をした。さらに琴絵と光瑠までもが、その二人のあたふたする様子を笑顔で見守っていた。


 そしてその夕食の場でも、みんなは相変わらず文化祭の劇の話題で盛り上がっていた。萌葱と浅葱も潮音たちが行った劇の話を興味深げに聞いていたが、紫が他の生徒たちと仲良さそうに話しているのを、幸枝も満足そうな表情で眺めていた。


 夕食が一段落すると、萌葱と浅葱がさっそく潮音たちの劇を録画した動画を見たいと言った。そこでみんなで、劇の録画を見ることになったが、萌葱と浅葱もその録画に見入っていた。この二人は、特にロミオを演じる光瑠の凛々しさや、ジュリエットの可憐なドレス姿に見入っているようだった。


 しかしここで、紫が一つの提案をした。


「今度は逆に、光瑠がジュリエット、潮音がロミオの役をやってみない?」


 潮音も光瑠もその提案には一瞬当惑したものの、琴絵までもが楽しみそうな表情で二人を見ていたので、ロミオとジュリエットがバルコニーで出会う場面のセリフを、光瑠がジュリエット、潮音がロミオの立場になって即興でやってみせた。


 この二人の演技を見た紫は、嬉しそうに口を開いた。


「いっそ光瑠がジュリエット、潮音がロミオでも良かったじゃない」


 その紫の言葉には、光瑠と潮音の二人とも当惑したような表情をした。


「いや、私が女の子の役をやるなんて…」


 あわてた様子をしている光瑠を、琴絵と暁子も同感だと言わんばかりの表情で眺めていた。

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