第六章・ロミオとジュリエット(その1)

 十月も半ばを過ぎると、月末に行われる文化祭に向けて松風女子学園の空気もますます盛り上がりを見せていた。放課後も校内には最後の練習に余念のない吹奏楽部やバンドの楽器の音や、合唱部のコーラスの音色が鳴り響き、会場の設営の準備もいよいよ本格的に始まりつつあった。


 潮音たちの所属する高等部一年桜組も、文化祭で行う「ロミオとジュリエット」の劇の準備がいよいよ佳境に入りつつあった。劇に出演する潮音たちはますます練習に力を入れる一方で、音響や照明、衣裳や道具の準備も着々と進められていた。


 本番を一週間前に控えて、通しの練習が終ると、汗だくになって息もはずんでいる潮音に紫が飲み物のペットボトルを差し出した。


「なかなか頑張ってるじゃない。これを飲んで、水分補給もちゃんとやっておくのよ」


 潮音は紫から手渡されたペットボトルに口をつけると、紫の方を見返した。


「紫はやっぱりすごいよ。一緒に練習やってきたのに息も全然上がってないじゃん。それだけ紫はバレエをやってきて舞台で踊るのに慣れてるのかな…」


 潮音に言われると、紫は首を横に振った。


「潮音、文化祭の劇は上手に演技をすることよりも、みんなで一緒になって目標に取り組むことが大切じゃないかしら。潮音も一か月前に比べてだいぶ上達したし、クラスのみんなだってずいぶん乗り気になってきたじゃない」


「なんとか演技ができるようになったのは、紫にしごかれたおかげだよ。でも紫は、私にジュリエットの役をやってみたらと勧めたよね。あのときはほんとに、私だったらジュリエットの役をやれると思ってたわけ?」


「もっと自信持ちなよ。あんたはそうやって何事に対しても一生懸命取り組んできたからこそ、クラスのみんなだってあんたのこと認めてくれたんだと思うよ。もう潮音は桜組の副委員長なんだから、もっとしっかりしないとね」


「それ言ったら紫は生徒会の副会長だろ。そうなると生徒会の仕事だってもっと大変になるじゃないか」


 紫がたしなめるように言うのを、潮音は少しいやそうな表情で聞いていた。



 ここで話は少しさかのぼるが、十月に入ってすぐに、年度下期の生徒会長とクラス委員長の選挙が行われた。そこでは生徒会長は二年の松崎千晶の留任となり、上期で副会長だった椿絵里香は、文化祭の執行委員長を引き続き担当することになった。


 生徒会の副会長には、一年の紫と榎並愛里紗の二人が選ばれた。潮音は互いに対抗意識を持っているこの二人同士がうまくやっていけるのか、不安を感じる気持ちも多少はあったが、そんなことを自分がクヨクヨ悩んでも仕方ないので、なんとかこの二人を信用するしかないと思い直すことにした。さらに吹屋光瑠は生徒会の体育担当委員に選ばれ、桜組以外のクラスからも一年生から生徒会の役員が次々に決まっていった。


 同時に実施された各クラスの委員長選挙では、上期の吹屋光瑠に代って桜組の委員長に立候補する生徒がなかなか現れなかったので、そこで寺島琴絵が自ら手を上げた。内向的でおとなしい性格のように見える琴絵が委員長に名乗り出たことを最初は意外に思う生徒も少なくなかったが、博識で学校の成績も優秀であり、いざというときにはクラスのまとめ役になってきた琴絵が委員長になることに対して、桜組内でほとんど異存はなかった。


 続いて桜組の副委員長を決める番になったが、琴絵が委員長に名乗り出たのを見て潮音も何かじっとしてはいられないような気持になっていた。そこで潮音は、自ら副委員長に手をあげていた。潮音がこれまで体育祭の応援団に取り組んだり、校内でもめ事が起きたときにはその解決に奔走したりする様子を桜組のみんなも目にしてきたので、副委員長のうちの一人はすんなり潮音に決まった。


 しかし二人目の副委員長には、最初なかなか立候補する者が現れなかった。そこでクラス内がざわつき始めた頃になって、ようやく立候補の手をあげたのは長束恭子だった。潮音はよりによって恭子が副委員長に手をあげるなんてと思ったが、ほかに副委員長に立候補する生徒もいなかったので、二人目の副委員長はその場で恭子に決まった。


 ホームルームが一段落すると、桜組の生徒の中にはさっそく新たに副委員長になった潮音に声をかけに来る生徒もいたが、暁子はそれをどこか戸惑い気味の表情で少し離れたところから眺めていた。



 潮音と紫が話をしているところに、呼び止める声がした。声の主は、先に潮音と並んで桜組の副委員長に就任した長束恭子だった。恭子は自らもジュリエットの乳母の役で劇に出演しており、先ほどまで潮音たちと一緒に劇の練習をしていたのだった。


「紫も潮音も、おしゃべりもこのくらいまでにして、早く帰る支度した方がええよ」


 そこで紫は思い出したように言った。


「私はちょっと生徒会室に寄っていくわ。恭子と潮音で先に帰る支度しといてよ」


 潮音と恭子は着替えと帰り支度を済ませると、二人で一緒に桜組の教室で紫を待つことにした。


「紫も大変そうやな。これから生徒会の活動で忙しくなるのに」


「それでちゃんと勉強もやっていい成績取るし、バレエの練習もやってるんだから、やっぱり紫はすごいよ」


「私も中等部から紫と一緒におったけど、その潮音の気持ちはようわかるよ。あの子はやっぱり特別やわ。だけど、高等部になってあんたが入ってきてから、あの子はあんたに対して、今までこの学校のほかの子には誰も見せへんかった表情をするようになったんや」


 恭子の表情を見て、潮音は恭子に事情を話した方がいいと思った。


「実は私…小学校のとき紫と一緒のバレエの教室に通ってたんだ。小学校は別だったけど、その頃から紫のバレエの才能は教室の中でも群を抜いていたし、発表会ではいちばんたくさんの拍手をもらっていた。自分は小学校を卒業する前にバレエをやめちゃったけど、まさかここで紫と再会するなんて思わなかったよ」


「そうやったんか…紫は紫で、勉強にもバレエにもプレッシャーを感じとるのかもしれへんな。あの子はそういうとこ、あまり人前に見せるような子とちゃうけど。だからこそあの子は、昔から知っとるあんたと一緒にいるとほっとする、素の自分をさらけ出せると思っとるようなところはあるんやろか」


 ここで潮音は、自分は恭子には高校に入る直前まで男だったことを明かしていなかったことに気がついた。しかし潮音は、今恭子にこのことを打ち明けたところで、余計に話がややこしくなるだけだと思ったので、この場は黙っておくことにした。


「恭子からそんなこと言われるとはね。四月に私が学校入った頃は、私が紫と一緒にいると焼きもち焼いてたくせに」


 潮音が皮肉っぽい口調で話すと、恭子はいやそうな顔をした。


「ほんま鈍感やな、あんたって。あたしかて中等部から松風におったけど、正直に言うてうちの学校にあんたみたいな子はおらんかったよ。あたしやほかのみんなに対しても言いたいことは遠慮せんとはっきり言うし、そのためやったら泥をかぶることかて恐れずに自分の決めたことには体当たりでぶつかっていこうとする。ま、それは裏を返すと意地っ張りで空気読めへんってことやけど、ともかくあんたが高等部から入って来うへんかったら、あたしたちはもっと内輪だけでちまちままとまって、言いたいことも自由に言えへんような空気になっとったんとちゃうかな」


 潮音は入学から間もない頃は自分といがみ合っていた恭子からここまで言われて、いささか気恥ずかしくなった。


「長束さんからそんな褒められ方される覚えなんかないけどな。私はただ自分のやりたいようにやってるだけだよ」


「それがええんよ。学校の中で変に空気に染まらへんと自分のやりたいことやれるなんてあんたくらいやで。それにあたしのことはこれからは『長束さん』やなくて『恭子』と呼んでええよ」


 ここで潮音は、恭子もいつしか自分のことを「潮音」と呼ぶようになっていたことに気がついた。


「でも恭子が副委員長に立候補するなんて思わなかったよ」


「それもあんたと会ったからかもしれへんな。あんたには負けてられへん、さらに紫のサポートばかりやなくてもっと自分からいろんなことがしてみたいと思うようになったんや。それは委員長になった寺島さんかてそうやないかな。あの子は中等部から引っ込み思案で目立たへんかったし、とても自分から委員長になるような子やなかったけど、最近になってだいぶ明るくなったと思うよ。それも高等部になってから、あんたと知り合ったことも理由やないかな。あんたは寺島さんとも仲ようしとったやん」


 恭子の語り口に、潮音はますます顔を赤らめた。


「寺島さんがほんとに自分のせいで委員長に立候補したのかは知らないけど…『負けてられへん』なんて、恭子だってほんとに意地っ張りなんだから。とにかくケンカしたくなったらいつでも相手になってやるからな。どんどんかかってこいよ」


「そのときはお手柔らかに頼むで。でもテニスでは負けへんからな」


 そうやって潮音と恭子が話し込んでいると、桜組の教室に生徒会の用事と帰り支度を終えた紫がやってきた。


「ちょっとあんたたち、まだおしゃべりしてたの? もう下校時間になるわよ。早く帰りなさい」


 たしかに潮音と恭子が話し込んでいる間に、窓の外では早くも秋の陽が暮れそうになっていた。潮音と恭子はあわててそそくさと荷物をまとめると、教室を後にして帰宅の途についた。

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