第二章・花火大会(その3)

 そして日が明けて、いよいよ花火大会の当日になった。


 潮音は綾乃の手を借りて、なんとかして浴衣の着つけを行った。潮音は浴衣を着終り、顔にもナチュラルメイクを施され、髪型もその浴衣に似合うように編み上げてもらうと、ようやくその姿を鏡に映してみた。


 潮音がモニカからもらった浴衣は、淡い水色を基調に繊細な花柄が織り込まれ、少し手を動かしてみただけで袖がはらりと揺れて、花柄の模様はあたかもさざ波のようにゆらめいていた。そして編み上げられた髪も、その浴衣によくマッチしていた。


 そこで潮音は、一年前の夏のことを思い出していた。高校入試のことを気にかけながらも、日焼けで真っ黒になりながら夕凪中学のプールで水泳の練習に明け暮れていた日々のことを。潮音の耳の奥には、水泳部員たちの練習のかけ声や、プールにまで響いてきたセミの鳴き声が届いてくるような気がした。潮音はあらためて、その自分がそのたった一年後に、このようなあでやかな浴衣を身にまとって花火大会に参加するようになるという現実を目の当りにして、あらためて運命の不思議さを思わずにはいられなかった。


 そのとき綾乃が潮音に声をかけた。


「潮音…あんたが小っちゃかったころから、花火大会には何度か家族みんなで行ってたよね。あのときは私も流風ちゃんと一緒に子ども用の浴衣を着て行ったりもしてたけど、まさかあんたがこんなきれいな浴衣着て花火大会に行くようになるなんて、夢にも思わなかったよ」


 いつも明るく元気な綾乃も、このときばかりはしんみりとした表情をしていた。そこで潮音は綾乃に尋ねてみた。


「姉ちゃんは花火大会に行かないの?」


「ああ、今日は友達同士でゆっくり楽しんできな。これまで家族と一緒に行ってたのが友達同士で行くようになるなんて、それだけ潮音も自立してきた証拠なのかもね」


 そこで潮音は、意地悪っぽく綾乃に声をかけた。


「姉ちゃんも花火大会に一緒に行く彼氏とかいないのかよ」


「うるさいね。そんなのどうだっていいでしょ」


 この潮音の言葉には、さすがに綾乃もむっとした表情をしていた。その潮音と綾乃のやりとりを、そばで則子がやれやれとでも言いたげな表情で見守っていた。


「二人ともいいかげんにしなさい。それを言うなら潮音も、来年は湯川君を誘ってみたらいいじゃない」


 その則子のあっけらかんとした言葉には、潮音も気まずそうな表情をした。そこで潮音は、昇だったら男物の浴衣だってかっこよく着こなすのではないかと思っていた。潮音は自分が浴衣姿で昇と連れ立って出かけるところを想像して、思わず身を引きそうになった。綾乃と則子も、そのような潮音の姿を呆れたような眼差しで眺めていた。


「あんた、何デレデレしてるのよ。やっぱり湯川君のことが気になっているわけ?」


「そんなことどうだっていいだろ」


 潮音が顔を赤らめていると、インターホンが鳴った。則子が玄関で出迎えると、そこには浴衣をきちんと着こなした暁子と優菜の姿があった。その二人の姿には、則子も目を丸くした。


「あら。二人ともちゃんと浴衣着られたのね。かわいいじゃない」


 則子の言葉に、暁子と優菜は少々気恥ずかしそうな表情を浮べたが、暁子は気を取り直して奥の部屋にいた潮音に声をかけた。


「潮音、準備はかどってる?」


「ああ。姉ちゃんに手伝ってもらったおかげで準備はなんとかなったよ」


 しかし暁子は、浴衣で装った潮音の姿を見て思わず息を飲んだ。さすがに暁子も潮音が女の子の装いをしていることに対して驚きや抵抗はなくなっていたとはいえ、今の潮音の可憐な姿を目の当りにすると、これが自分が今まで見知っていたはずの潮音だとはどうしても受入れられないようだった。


「どうしたんだよ…暁子。どっか変か?」


「いや、その逆だよ…。去年まで男の子だったあんたが、こんなに浴衣着ても似合ってるなんて」


「そんなこと言ったってしょうがないだろ」


 暁子が潮音の姿に動揺する様子を、優菜はただ黙ったまま見守っていた。そこで潮音が暁子や優菜と一緒に家を出ようとすると、綾乃と則子が花火大会の会場は混雑するからいろいろと気をつけるようにと釘をさした。潮音は玄関で浴衣に合わせた下駄をはいたが、鼻緒の辺りが痛くならないかと少々気がかりだった。


 潮音たち三人は連れ立って、夏の強い西日が照り返す通りを歩く間も、着慣れない浴衣の着心地に戸惑っていた。


「こうやって着物着ても、上品できれいに歩けるようになれたらええんやけどな。うちの礼法の先生も、女性が社会に出て活躍できるようになるためには、まず立ち居振る舞いにも気をつけなあかんと言うとったし」


 潮音はここで、礼法の授業は自分にとっても少々気づまりだったことを思い出して少し顔を赤らめた。


「花火大会くらい、こんなかたいこと忘れてパーッと楽しもうよ。尾上さんと紫とは、駅前で待合せることになってたよな」


「玲花が高校行ってあんなにはじけたギャルになるとは思わんかったけど、そうなるとますます玲花が今日どんな恰好して来るか楽しみやな」


 潮音たちが駅に着くと、すでに玲花と紫が待っていた。そこで潮音は、親しげに話している玲花と紫の浴衣姿にあらためて息を飲んだ。伸ばした髪を染めてギャル風にした玲花にも、鮮やかな柄の浴衣は似合っているように思えたが、それよりも潮音は紫の浴衣の着こなしに目を奪われていた。紫は潮音と同じ浴衣を着ていても、着こなしもきちんとしているだけでなく、全体にかもし出している気品からして違うのだ。潮音は紫は自分よりもはるかに高いステージに立っていて、その間には越えられない壁があることを、あらためてひしひしと感じずにはいられなかった。


 紫もこのような潮音の心の揺らぎを、表情や身振りから感じ取ったようだった。


「どうしたの? 藤坂さんはなんか落ち着かなさそうにしてるけど」


「いや…尾上さんも峰山さんも浴衣着ても美人だなって…オレとは全然違うよ」


 紫は自信なさげな表情を浮べている潮音に、なだめるように声をかけた。


「そんな恥ずかしくなるようなこと言わないでよ…潮音だってけっこうかわいいじゃん。それから、この浴衣着てたら、自分のことを『オレ』と言うの禁止」


 潮音は一瞬気まずそうな顔をしたものの、そこで気を取り直して紫に言った。


「で、あと誰が来るんだよ」


「キャサリンと光瑠、恭子と琴絵と美鈴も来るって言ってたわ。みんなとは神戸駅で会うことにしてるの。そのときに尾上さんのことも紹介してあげるよ」


 紫に言われて、玲花も顔をほころばせた。


「キャサリンが浴衣着てくるの楽しみやわ」


 優菜は嬉しそうにしていたが、そこで潮音が口を挟んだ。


「こんなに女ばかりでぞろぞろ出かけて、だれか一人くらい彼氏連れて来ようという人いないのかよ」


 その潮音の言葉には、一同がどこかいやそうな表情を浮べながら潮音に目を向けたので、潮音もさすがに口が滑ったかと思って気まずそうな顔をした。


「尾上さんには椎名がいるじゃん」


「椎名君は高校総体の練習で花火どころやないの」


 そこで優菜が、潮音を茶化すように口を開いた。


「潮音こそ最近お隣さんにかっこいい子が引っ越して来たやん」


「だからまだそこまでは行ってないって」


 一同がいささか興味深そうな眼差しを潮音に向けたので、潮音はあわててその優菜の言葉を打ち消した。


 潮音たちが電車に乗り込んでからも、紫と玲花が親しげに話をしているのを、潮音たち三人は意外そうな面持ちで眺めていた。


「峰山さんが尾上さんとけっこう仲良うなるなんて意外だわ」


「うちの学校に玲花みたいなギャルっぽい子はあまりおらんからな。いかにもお嬢様って感じの峰山さんとは対照的やけど、だからこそ自分の持ってないものを持っているところにお互いひかれるんやないかな」


「それになんだかんだ言って、尾上さんは勉強もできて中学ではクラスの委員長もやってたからね」


 そうしているうちに、真っ青に澄んだ夏空には早くも暮色が漂い始め、車窓から見える瀬戸内海も西日を浴びて波間がキラキラと輝いていた。

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