第二章・花火大会(その1)

(おことわり)神戸市ではコロナ禍の前の2019年までは毎年8月上旬に花火大会を開催していましたが、2023年以降は花火大会の開催は10月に変更になりました。しかし本作中では、8月中に花火大会を行うものとして話を進めます。



 七月も終りに近づいたある日、潮音が週二回通っているバレエ教室に出向くと、峰山紫は熱心にバレエの練習に取り組んでいた。紫は八月に予定されているバレエの合宿を控えて、練習にもより熱を入れているようだった。潮音は汗をかきながら一心に練習に取り組む紫の真剣な眼差しを見ていると、おいそれと声をかけるのも憚られた。


 それでも潮音がバレエの練習着に着替えてレッスンルームに入り練習を始めると、バレエ教室を主宰している森末聡子からしばしば叱責の声が飛んだ。


 ようやく練習が一段落したときには、潮音は汗だくになって肩で息をしていた。しかし紫は潮音よりもっとハードな練習をこなしたにもかかわらず、バレエ教室に通っている小学生以下の子どもたちに無邪気な笑顔を向けていた。


「みんなは夏休みはどんなことをしてるのかな」


 そして子どもたちも明るく元気な声で、紫に夏休み中何をしたかなどの話題を我先にと話していた。潮音は紫がバレエ教室の子どもたちからも絶大な信頼を得ていると感じる一方で、紫が練習のときに見せる真剣で厳しい表情と、今子どもたちに見せている無邪気で屈託のない笑顔とのギャップにあらためて戸惑っていた。


「今度の土曜日、港のところで花火大会があるけれども、それに行く子はいないのかな」


 紫が明るい声で子どもたちに声をかけると、子どもたちの何人かは自分も花火大会に行くと嬉しそうに答えた。それを聞いて潮音は、自分もせっかくモニカから浴衣をもらったのだから、花火大会に行けたら楽しいだろうなと考えていた。


 子どもたちが歓声をあげながらレッスン室から引き上げると、紫はようやく潮音に目を向けた。


「潮音もなかなか頑張ってるじゃない」


「いや、紫に比べたらまだまだだよ。結果もろくに出せてないのに、『頑張った』なんて言っても言い訳にもならないよ」


「そんなに思いつめることもないのに」


「ほんとに紫はすごいよ…バレエもこれだけ一生懸命練習して上手なのに、それでありながら勉強もちゃんとやって学年でトップクラスの成績を取るんだから。さっきだってあれだけ教室の小さな子たちをうまく世話してたし。それに比べりゃオレなんて何やってるんだろうと思っちゃうんだけど」


 潮音はそう言いながら、バレエの練習着のまま伸びをしてため息をついた。紫はそれを見て、笑顔で潮音に答えた。


「そうやって自分を無理に人と比べることなんかないよ。そんなこと言ったら、私なんかよりずっとバレエがうまい人なんていくらでもいるし、年下の子たちにバレエを教えるのだってまだまだだしね」


 そこで紫は、潮音にこの夏に参加する予定のバレエの合宿のスケジュール表を見せた。それを見て潮音は、思わず素っ頓狂な声をあげた。


「これ、五日間ずっとバレエの練習ばっかりじゃないか。自分がこんなバレエの練習ばっかりやったらへばっちゃうよ」


「でもこの合宿は、外国からも一流のバレエダンサーがコーチに来るから充実してるよ。でもこの合宿行く前に、今度の週末に一緒に花火大会に行かない? 潮音だって水泳部にも入って、いろいろ頑張ってるのはわかるけど、たまには心身をリラックスさせることだって必要だからね」


 紫が笑みを浮べながら提案すると、潮音はいささか気恥ずかしい気分になった。


「紫ってちゃんと浴衣持ってるの?」


「ええ、もちろんよ」


 潮音は紫だったら、あでやかな色や柄の浴衣だって、何の不自然さもなくきちんと華麗に着こなしてしまうのだろうなと想像していた。そのとき潮音は、口からふと言葉を漏らしていた。


「オレがもし女になってなくて、ずっと男のままだったら浴衣姿の紫をエスコートすることだってできたのにな…。でもそもそも女になってなかったら、こうやって紫と再会することだってできなかったわけだけど」


 そこで紫は、急に怪訝そうな顔をした。


「どうしてそんなこと言うのよ。潮音ってもしかして、今でも男に戻りたいとか思うことあるの?」


「さあね。ほんとにそう思ってたら、スカートはいて女子校にも行ってないし、こんなかっこしてバレエなんかやってないよ。こんなことでグダグダ悩んでる暇なんかあったら、その間に何でもいいからやってみるしかないと思ってここまでやってきたんだ。でもこの学校に紫がいなかったら、右も左もわからないこの女子校でここまでやっていけてないと思うよ」


「…あんたのそういうとこは好きよ。そうやってちゃんと毎日なんとかやっていけることこそ、テストでいい点を取ったり、バレエのコンクールで賞を取ったりするより、ずっと難しいのかもしれないね」


 紫が神妙な面持ちになったので、潮音はその場を取り繕おうとするかのようにつとめて明るく口を開いた。


「そんなかたい話はこのくらいにしておかない? せっかく花火大会に行くんだったら、暁子や優菜も誘ってもいいかな? オレだってこないだ暁子や優菜と一緒に浴衣の着つけの練習したからね」


「ええ、もちろんよ。私の方もクラスのいろんな子にもっと声をかけてみるわ。それから石川さんの誕生会に来ていた、南稜に行った潮音の中学のときの友達も誘っていいわよ」


 紫はご機嫌そうな声で答えたが、潮音は内心で、お嬢様然とした紫だからこそ、ギャルのように装っている玲花に内心でどこか憧れているのかもしれないと感じていた。


「それはいいけど…松風にはそういうところに一緒に行くような彼氏がいるような子は誰もいないのかよ」


 潮音があえて意地悪な質問をすると、紫は顔を赤らめた。


「余計なこと言わないでよ。潮音もそろそろ、帰る支度した方がいいんじゃない? それから私の前じゃいいけど、花火大会に行ったら自分のことを『オレ』と言うのは禁止」


 潮音はため息をつきながら帰り支度を済ませて、バレエ教室を後にする間際、紫と一緒に待ち合わせの場所や時間を決めた。しかし潮音は紫と別れて帰途についてから、クラスメイトたちがどのような恰好で花火大会に姿を現すかを楽しみにしている反面で、心の中で別のことが気になっていた。


──紫が花火大会に誘ってくれたのは嬉しいけれども、紫くらいかわいい子になったら、一緒に花火大会に行こうという彼氏の一人くらいいてもいいと思うけどな…。


 しかし潮音は、もし自分が男のままだったとしても、自分が紫の隣にいるという実感は得られなかった。潮音は紫は自分よりもはるかに高い目標を目指していて、住む世界が違いすぎると感じていた。


 そこで潮音は、なぜか浩三や昇のことを思い出していた。潮音は浩三には玲花がいるし、そもそも浩三は高校総体を直前に控えて花火大会どころではないだろうと思ったが、昇くらいのクールな秀才になれば、もしかしたら紫とも釣り合うかもしれないと直感的に感じていた。しかし続いて潮音は、今度はもし自分自身が浴衣で着飾って、昇と一緒に花火大会に行っていたらと想像していた。潮音は思わず、内心で照れくささを覚えるとともに、はっきりと認識していた。


──こんなこと考えるなんて、オレ、女の子として昇と付き合いたいって思い出しているのだろうか。…それってやっぱり、オレは心の中まで女に近づいているということ?


 そこで潮音はこんなことばかりクヨクヨ考えてばかりいたって仕方ないと思い直して、強い西日が照らしつける坂道を、自宅へと向かって駆け出した。


 潮音は帰宅すると、さっそく暁子と優菜、玲花に紫から花火大会に誘われた旨を伝えた。三人ともその潮音の申し出を快諾はしたものの、潮音は内心でこの花火大会はどんなことになるかと一抹の不安も感じずにはいられなかった。

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