第一章・夏への扉(その4)

 学校が夏休みに入ると同時に梅雨明けも宣言され、空は真っ青に晴れ渡り強い日差しが街を照らしつけるようになった。潮音の住む街の眼下に広がる青々とした瀬戸内海も、より輝きを増していった。


 潮音は強制補習こそ免れたものの、一学期の成績を見た親から夏休みも学校の補習を受けるように言われた。それに加えて週二回水泳部の練習、さらにバレエのレッスンが加わると、夏休みといえどもだらけるわけにはいかなかった。潮音は補習とクラブの練習やバレエのレッスンが重なった日などは、酷暑も手伝ってクタクタになって家に帰ってきた。その上に綾乃からは、宿題も計画的にきちんとやらないと夏休みの終りに慌てることになると言われたが、潮音は夜になってまで机に向かう気力は残っていなかった。


 潮音が入った水泳部は、部員の数もさほど多くはなくて活動も活発とは言い難く、実力も南稜のような強豪校とは雲泥の差があったが、むしろ潮音にとっては大会に出場するとかタイムを縮めるといったプレッシャーにとらわれることなく、純粋に運動不足を解消してストレスを発散できる場があることが嬉しかった。


 水泳部の部長をつとめているのは、二年生の江中えなかさゆりだった。さゆりも潮音の水泳の実力を認め、練習を共に行うようになった。


「藤坂さんって中学でも水泳やってたの?」


「はい。中学でも塩原さんと一緒に水泳部に入っていました」


 こう答えたとき、潮音は少なくともウソはついていないと思ったものの、内心でいささかの後ろめたさは抜けなかった。


 潮音がプールで泳いでいるうちに、表情が明るくなっていくのを優菜も感じていた。潮音がプールサイドに上がると、さっそく優菜も嬉しそうに声をかけた。


「潮音、水泳部もなかなか楽しそうやん。潮音が水泳部に入ってくれて良かったよ」


「ああ…今になってやっと気がついたような気がするよ。泳ぐのってこんなに楽しかったんだって。そりゃ椎名みたいに、大会に出てタイムを少しでも縮めようというのなら話は違うかもしれないけど」


 潮音と優菜の話をそばで聞いていたさゆりが、「椎名」という名前に反応した。


「椎名って子はそんなにすごかったの?」


「椎名はうちの中学の水泳部にいた男子なんだけどすごく泳ぐのが速くてね。スポーツ推薦で南稜の水泳部に入りましたよ。南稜の水泳部は練習もめちゃくちゃきつくて大変らしいですけどね」


 さゆりは潮音の口から「南稜」という名前を聞いて、顔色を変えた。


「南稜? すごいじゃない。南稜は今度の高校総体にも出場するんでしょ?」


 さゆりも一応水泳部の部長として、高校の水泳界の動向は一応チェックしているようだった。


「その高校総体に備えて、椎名は今猛特訓の最中ですよ。それに比べたら自分なんか何やってるんだと思っちゃいますけどね」


「上ばかり見てたってしょうがないよ。藤坂さんが無理のない範囲で、自分が納得できるように頑張ればいいよ」


「江中先輩って優しいんですね。でもうちのクラブも、そりゃ高校総体やインターハイなんか無理だけども、こうやってプールで泳いでいるだけじゃなくて、なんか目標になるようなものを見つけた方がいいんじゃないですか」


 潮音に言われて、さゆりは少し考えるようなそぶりをした。

「それなんだけど、うちの水泳部は来週布引に行って合同練習をやる予定なの。ほかの学校と一緒に練習すると自分たちの実力がわかって、それだけでも刺激になるしね」


 潮音は布引女学院の名前を聞いて、流風の通っている高校だと直感した。潮音は流風の話を聞いて、布引女学院はいささかおかたそうなお嬢様学校というイメージを抱いていただけに、布引女学院と合同練習を行ったらどうなるのだろうと考えていた。



 潮音が水泳部の練習を終えて、優菜と一緒にプールを後にすると、夏の日はまだ高く、むっとするような真夏の熱気が潮音を包んだ。潮音はそのとき、中学校のプールにじりじりとした真夏の太陽が照らしつける中で、浩三と一緒に練習に明け暮れた日々のことを思い出していた。


 そのとき潮音と優菜を呼び止める声があった。暁子だった。


「暁子は手芸部だったの?」


「うん。いろいろ作ってたんだけど、どうもうまくいかなくてね」


 暁子はそう言って少しため息をついた。その表情を見て、優菜がさっそく元気よく声をかけた。


「そんなときはパーッと遊んでいかへん? 日が暮れるまでにはまだ時間あるし」


「それなんだけどね…こないだお母さんに新しい浴衣買ってもらったんだ。この夏くらいこれ着てどっか行ったらどうだってね」


 その暁子の言葉を聞いて、優菜は目を輝かせた。


「アッコの浴衣姿、見てみたいわあ」


 そこで潮音も、少し気まずそうに口を開いた。


「浴衣だったらオレだってこないだ親戚からもらったけど…」


 そこで優菜が口をはさんだ。


「潮音は浴衣の着方わかるん?」


「いざとなったら姉ちゃんに着付けをやってもらえばいいかな」


 そこで暁子が、二人に割って入るように気恥ずかしそうに口を開いた。


「私も浴衣買ってもらっても、着付けなんか全然わかんないからさ…。うちの学校の中等部では、礼法の授業で日本文化を学ぶ一環として、着付けの仕方も習うみたいだけど」


 そこで潮音はスマホで綾乃と連絡を取ると、二人に話してみた。


「姉ちゃんは今日はバイトもないから家にいるけど、浴衣の着付けの仕方を教えてやるってさ。だから暁子と優菜も家から自分の浴衣持ってくるように言ってたけど」


 そこで優菜が嬉しそうに口を開いた。


「ちょうど良かったやん。来週の週末には花火大会があるけど、それにも浴衣着て行けそうやし」


 暁子はややはにかみ気味の表情をしながらも、潮音の提案に従った。



 潮音が自宅に戻る前に、暁子と優菜はいったんそれぞれの家に寄って浴衣を持ってくることにした。潮音が自宅に戻ると、綾乃がニコニコしながら待ち構えていた。


 そこで潮音はいやそうな顔をしながらも自室に入り、先日モニカからもらった浴衣一式を取り出したが、浴衣以外にも帯や腰ひも、伊達締めなどのさまざまな小物があるのに、すっかり戸惑わされてしまった。


 それでもなんとかして浴衣一式をそろえて綾乃の待つ居間に行くと、しばらくして暁子と優菜も自分の浴衣を持って現れた。暁子の浴衣は落ち着いた藍色をベースにしながらも、鮮やかな朝顔の柄が織り込まれていた。優菜の浴衣は、薄紫を基調にした落ち着いた色合いのものだった。


 そこで潮音が着ていた制服を脱いで下着一枚になると、綾乃が浴衣の着方を教え始めた。しかし綾乃はあくまで手順を教えるだけで、着付けそのものは潮音自身の手でやらせたため、潮音はなかなか勝手がわからず、浴衣を着崩れせずにきちんと見ばえよく着られるようにするためには、何度もやり直さなければならなかった。


「一人でこれ着るのは大変だな。ひもとかけっこう締めなきゃいけないし」


 それでもなんとかして潮音が浴衣を着終ると、涼しげな水色を基調にした生地に赤い帯がひときわ映えて見えた。その姿に戸惑いを覚えていたのは、むしろ暁子の方だった。暁子は赤面しながら、少し気恥ずかしそうに口を開いた。


「潮音…その浴衣すごく似合ってるじゃん」


 しかし綾乃は、まだ目の前の潮音の姿に満足していないようだった。


「たしかにそうだけど、髪の毛ももうちょっと何とかしてみたらもっと似合うんじゃないかしら」


 そこで潮音が、綾乃の視線を感じてぞくりとしたときにはもう遅かった。綾乃は潮音を鏡台の前に坐らせると、潮音のポニーテールをほどいて長く伸びた黒髪をいじり始めた。


 綾乃が潮音の髪を編み上げてまとめ、潮音のうなじがあらわになると、その落ち着いた髪型は浴衣にますます似合っていた。その姿には、暁子だけでなく優菜までもが思わずため息をついていた。しかし潮音は、自分が男の子だったときには感じたことがなかった胸のときめきを感じて、思わず体をこわばらせていた。


 そこで綾乃は、暁子と優菜の方を向き直して声をかけた。


「さて、次は暁子ちゃんの番かしら」


 浴衣の着付けに戸惑っているのは暁子や優菜も一緒のようだったが、それでも二人が綾乃の手助けを借りながらなんとか浴衣を着終ると、暁子の藍色の浴衣や優菜の薄紫を基調にした浴衣はその二人によく似あっていた。


「これで花火大会とかもバッチリやな」


 優菜が嬉しそうに話す傍らで、潮音は口からふと吐息を漏らしていた。


「これが峰山さんとかだったら、こんな浴衣ももっと自然できれいに着こなしてみせるんだろうけどな。あとキャサリンだって、こないだ浴衣着た写真見せてもらったら、けっこう似合ってたし」


「ほんまキャサリンは、元がかわいいから何着ても似合うよね」


 優菜もニコニコしながら潮音に答えたが、そこで暁子は思わず声をあげていた。


「そんなこと気にしたってしょうがないよ。あんたは人と比べたりしないで、あんたらしくしてりゃいいんだって」


「暁子、じゃあその『あんたらしく』って何なんだよ」


 そこで暁子が口をつぐんでしまうと、綾乃までもが困った表情をした。


「暁子ちゃんもせっかくおしゃれに着替えたんだから、そんな辛気臭い顔しないでよ」


 そしてそのまま三人で浴衣姿で写真を撮ったり、暁子や優菜が高校生活や夏休みの予定などについて綾乃と話したりした後で、夏の日も西に傾いて影が濃くなったので、暁子と優菜はそれぞれの自宅に帰ることにした。しかし潮音はせっかく浴衣を着て髪型もおしゃれに整えたのに、その装いを解いてしまうのはもったいないような気がした。


 暁子と優菜が服を着替え終って浴衣をきちんと畳み、潮音の家を後にすると、潮音は浴衣姿のままで庭の縁側に出てみた。夕焼けに染まった夏の高い空を見上げながら潮音がふと息をついていると、ちょうどそこを湯川昇が通りかかった。潮音はどきりとしたが、昇も潮音の浴衣姿には思わず目を奪われているようだった。


「藤坂さん…すごくかわいいじゃん」


「湯川君はどうしたの」


「僕はこの夏休みも学校の補習や塾の夏期講習があるからね」


「夏休みだというのに勉強大変だね」


 二人でそんなことを話していると、そこに綾乃も姿を現した。


「あら。二人ともずいぶん仲良さそうじゃない」


 そこで綾乃は昇と少し立ち話をしたが、綾乃も尚洋のような進学校で東大の受験を目指すとなると、勉強も大変だなと言っていた。


「湯川君も夏休みだというのに勉強ばかりだと疲れない? 少しは息抜きでもしたら」


 そこで昇は、今見たい映画があると言った。その映画は、話題になっているアクション映画だった。そこで潮音は、自分もその映画は見てみたいと言うと、さっそく綾乃は表情を変えた。


「だったら今度の週末、二人でその映画見てきたら?」


 そこで潮音と昇が戸惑い気味に互いの顔を見合せている間にも、綾乃はさっそく手持ちのスマホで映画館の空席を確認した。


「今度の日曜だったら、まだ二人分の席は空いてるみたいよ」


 そこまできたら、潮音ももはや綾乃に逆らうことはできなかった。潮音と昇が気まずそうな表情をしているそばで、綾乃は笑顔を浮べていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る