第七章・再会(その5)・第二部完
高校水泳の県大会が終り六月も末になると期末テストが迫ってくるので、潮音はまずその準備に追われて水泳どころではなくなった。期末テストで赤点を取ると夏休みに強制的に補習に参加させられるとあっては、潮音も気を入れて勉強するしかなかった。
そして七月に入って期末テストも終ると、潮音は例によって下から数えた方が近いような成績だったとはいえ、なんとか赤点を取ることは免れたのには胸を撫でおろした。
そこでさっそく潮音は、期末テストが終ってすぐの週末は空いているかと玲花にうかがいを立てたが、玲花は日ごろ練習で忙しい浩三もこの日一日くらいならなんとかなるだろうから、なんとか浩三とかけあってみると返事をした。その翌日には、玲花が潮音に、その日曜日なら浩三も潮音の家の近くにある市営のスポーツセンターに行けそうだと返事があった。潮音は浩三と一緒にプールで泳ぐことができることを喜びはしたものの、せっかく浩三が寮生活であまり外出も自由にできない中でわざわざ自分のために時間と手間を割いてくれたのだから、潮音の前であまり無様な真似はできないということをひしひしと感じ取っていた。
潮音が浩三と一緒にプールに行くことに決めた日曜日は、前日の晩まで雨が降っていて空には灰色の雲が垂れこめ空気も湿気を含んでいた。とはいえ雲の隙間からかすかに漏れる光は明るく、梅雨明けも間近だということを感じさせた。
潮音と浩三はスポーツセンターの前で待合せたものの、潮音を前にすると浩三は複雑そうな表情をしていた。浩三は中学生のときにはこのスポーツセンターで練習に明け暮れていただけに、久しぶりにこの場を訪れたことには懐かしさを覚えてはいたものの、それだけに潮音が女子の姿で自分の前に現れたことに対して、浩三はやはり動揺を隠せないようだった。そのような潮音の姿を見て、潮音は思わず語調を強めていた。
「椎名…やっぱりオレと一緒に泳ぐことに対して不安があるのかよ。…そんなこといちいち気にしていたら、水泳の選手にはなれないぞ」
潮音に言われても、浩三は唇を噛みしめたままだった。潮音は浩三にこれ以上強い態度に出ても、浩三の心を開くことはできない、ここは言葉よりも行動でことを進めるしかないと考えて口をつぐんだ。
潮音と浩三はそれぞれ別々に更衣室に入ると、潮音は余計なことを考えないようにしてさっさと用意していた競泳用の水着に着替えた。
潮音が長く伸びた髪をなんとか結わえてスイミングキャップの中に収め、プールサイドに出ると、浩三はすでに水着に着替えてそこで待っていた。しかし浩三は潮音の水着姿を目の前にして、明らかに顔を赤らめて目のやり場に困っていた。潮音はやはり、あれだけ気丈に力強く振舞っていた浩三も、女性に対してはナイーブなのだと思わずにはいられなかった。
「まさか今、エッチなこと考えてるんじゃないだろうな。こんな時はバリバリ泳いで、そんなこと忘れちまいなよ」
そして潮音が自ら積極的にプールに入って泳ぎ始めると、浩三も戸惑いながらもそれに従った。
潮音はたしかに、浩三に自分の水着姿を見られることには精神的に抵抗があったことも事実だった。しかし潮音は必死で水をかいているうちに、そのような不安も消え失せて、純粋に中学校で水泳の練習に打ち込んでいたときの感触を思い出していた。
──たとえ浩三がどのような目で自分を見ていたって構わない。これが今のオレ自身のありのままの姿なのだから。
潮音がプールサイドに上がって休憩を取ろうとすると、浩三はすでにプールサイドに上がって潮音の泳ぎを見ていた。そこで浩三は潮音の顔を見るなり口を開いた。
「藤坂…泳いどるうちにずいぶん引き締まったええ顔になったやん。やはりこういうところ見とると、昔と変ってへんな」
その浩三の言葉に、潮音は一気に顔をほころばせた。
「椎名…お前もだよ。この前県大会でお前が泳いでるところを見たときには、お前はなんか強豪校で泳いでいることへのプレッシャーに押しつぶされていて、何のために泳いでいるのかを見失っているように見えたんだ。でも今日お前が泳いでいるところを見て、お前は中学で泳いでいたときのことを少しでも思い出せたんじゃないかと思ったよ」
潮音に言われて、浩三はしばらく気恥ずかしそうな顔をしていたが、そこで浩三は一気に厳しくした。
「でも藤坂、今のそのお前の泳ぎ方では全然あかんわ。今日はみっちりしごくから覚悟しときや」
浩三の言葉を聞いて、潮音は身震いがした。
「お手柔らかに頼むよ」
それからしばらくの間、潮音の泳ぎに対して浩三の厳しいアドバイスが入った。
練習が一段落したときには潮音は疲れ切って肩で息をしていたが、それでもその表情は充実していた。
「ふう、もうヘトヘトだよ…。でも椎名のアドバイスがあったおかげで、前よりフォームも良くなって速く泳げるようになったような気がする。たしかにしんどかったけど、それでも今はなぜか気持ちいいんだ」
「言うとくけど南稜の水泳部の地獄の特訓は、こんなもんやないで。男とか女とか、そんなん全然関係あらへんし」
「そりゃお前が音をあげるくらいだもんな。オレがそんなところに入ったって、とてもついていけないことくらいはわかってる。でもお前がこうやって頑張ってるのを見ていると、オレだって負けるわけにはいかない、何かしなきゃいけないって思うんだ」
そこで浩三は、潮音に力強く声をかけた。
「お前は十分頑張ったやないか。オレやったらもし自分が女になってしもったら、そうやってプールで泳ぐどころか、学校にさえ行かれへんかもしれないと思うよ」
「オレだってこうなってみて初めてわかったよ。毎日ちゃんと学校に行って、友達と話したり勉強したりする、今までは当たり前のようにやってきたことが実はどれだけ大変かってことが」
「それはオレかってわかるよ。正直言って、オレはこのまま泳げなくなるかもしれへん、だったら何のためにスポーツ推薦で南稜入ったんやって思うたこともあるんや。実際スポーツ推薦で南稜入っても、練習についていけへんかったりケガしたりしてやめた人なんか大勢おるし」
「そんなときこそ、尾上さんにはしっかりお前のこと支えてほしいって思ってたんだけどね。お前は尾上さんとはどこまで行ったんだ?」
潮音が笑みを浮べると、浩三は慌てたようなそぶりを見せた。
「アホ。オレは水泳部の練習で大変やのに、そんな色恋沙汰なんかに気を取られとる暇なんかあるわけないやろ。第一お前かて尾上さんのこと好きやったんとちゃうか」
「はいはい、そういうことにしておくよ。休憩もそのくらいにして、もうちょっとだけ泳いでいかない?」
そして潮音と浩三はもう少し泳いでプールから上がると、それぞれ更衣室に入って帰り支度を始めた。
潮音がなんとかして髪を乾かし、服を着替え終ってから更衣室を後にすると、浩三はいささか待ちくたびれたようだった。
「待たせてごめん。何べんも言うけど、女の身支度には時間がかかるからさ」
そこで潮音は気まずそうな表情をした。
潮音は学校の寮に戻る浩三を駅まで送っていくことにしたが、駅に向かう道の途中で浩三は潮音に声をかけた。
「藤坂、もういっぺん水泳やってみたらどないなん。潮音の学校にもプールあるんやろ」
そう言われて潮音は、気恥ずかしい気分になった。
「あの…水泳以外にもやってることあるし、勉強だって大変だし…」
「もちろん無理にやれとは言わへんよ。体動かしたくなったり、ストレスたまったりしたときには泳いでみる、そのくらいでええんとちゃうかな。自分のペースでやるのが一番やで」
「椎名にそう言われて安心したよ。特に今日、椎名に『昔と変ってへん』と言われたときには嬉しかったな」
「オレかて藤坂が元気そうで安心したよ。これで夏の大会に向けてがんばれそうや。結果はどないなるかまだわからへんけどな」
そう話したときの浩三の顔は、どこかふっ切れたようだった。潮音はそれを見て安心したような顔をすると、駅の改札口で浩三と別れた。
そして一学期の終業式を目前に控えたある日、潮音は松風女子学園の温水プールで水泳部の練習に参加していた。松風の水泳部は部員もあまり多くなく、活発に活動しているとは言えなかったが、潮音はそれでも学校で泳ぐことができること自体が嬉しかった。潮音には水泳の実力があることは、水泳部の部員たちも認めたようだった。
優菜は潮音が水泳部の練習に参加したのを見て、驚きの声をあげた。
「潮音、水泳やりたいのもわかるけどそんなに無理せんでもええで。バレエもやりながら水泳部にも入るんはきついんとちゃうか。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うし」
「確かにバレエと水泳部のかけもちがきついと思ったらやめるよ。どっちみち高三になったら受験でクラブどころじゃなくなるだろうし。でもバレエも楽しいけど、水泳もあきらめきれないんだ。ちょっと欲張りかな。…それに椎名があんなに頑張ってるの見たら、自分も負けてられない、何かしなきゃいけないって思うし」
そこで優菜はため息をつきながら言った。
「やっぱり潮音って強情やね。うちの水泳部にはあまり無理のない範囲で練習に来ればええよ。あとくれぐれもアッコのことを心配させへんといてね」
そこで潮音は、暁子の勝気な顔を思い出していた。暁子だって高校に入ってから少し元気がなかった時期があったことを思い出して、自分は暁子のためにもくじけずに頑張るしかないと意を新たにしていた。潮音は優菜に笑顔を向けると、両眼にゴーグルをつけて飛び込み台に上がり、揺れるプールの水面をじっと見つめた。
(第二部・完)
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