第七章・再会(その4)

 高校水泳の県大会に浩三の応援に行くとは言ったものの、潮音はいささか気が重かった。中学の水泳部で浩三と共に練習を行っていた自分が、浩三に声援を送るだけの女子高生になっているという現実には、潮音自身これでいいのかと思わずにはいられなかった。


 しかし潮音が浩三のことを考えていると、いやおうなしに潮音の心の中にもう一人の少年の姿が浮んできた。湯川昇だった。潮音は元気でたくましい熱血タイプの浩三とは対照的な、クールで理性的な反面気は優しい昇のことを思い浮べるたびに、心がざわつくのを感じていた。


──オレはすでに椎名とは別の道を歩き出してしまった以上、椎名との関係は昔のままではいられない。そんなことくらいはわかってる。しかしそれだったら、椎名と…そして湯川君ともどうやってつきあっていけばいいのだろうか。


 そのとき潮音ははっきり、あの再会した日に浩三は自分を「女」として認識していたことを感じていた。さらに昇だって、潮音が女子であるということに対して、何の疑念も持っていないに違いない。そう考えると、潮音は自分が浩三や昇を欺いているような、後ろめたさを覚えるしかなかった。潮音はクローゼットの中から女子用の水着を取り出して、ふとため息をついた。


──今のオレがこの水着で椎名の前に出たら、あいつはどんな顔するかな…。


 そう考えると、潮音は思わず身を引きそうになった。潮音は自分が女子として扱われることにも慣れてきたとはいえ、浩三に自分の水着姿を見せる勇気はなかった。


──でも今のオレが女だからといって、椎名や湯川君に甘えるような真似はしたくない。オレはオレのままで、自然にあの二人に接していきたい。


 そう思い直すと、潮音は水着をクローゼットにしまった。



 それから数日後に、そのような疑問を心に抱いたまま、潮音は週に二回通っているバレエ教室に向かった。しかし潮音はこの日は練習着に着替えてバレエのレッスンを行っても、いまいち集中することができなかった。そのような潮音の心の動揺は周囲にも丸わかりだったようで、バレエ教室でコーチを行っている森末先生は潮音に、気分がすぐれないようなら今日は練習に参加せずに見学するように言った。


 その日練習に参加していた流風も潮音のことは気になっていたようで、この日のレッスンが終るとすぐに潮音に何か不安や悩みでもあるのかと尋ねた。そこで潮音は、自分と浩三の関係や、浩三が南稜の水泳部でスランプに陥っていること、そして直後に水泳の大会を控えていることを流風に全て打ち明けた。


 流風は潮音の話を黙って聞き終えた後で、潮音にそっと話しかけた。


「応援に行けばいいんじゃない? その椎名君だっけ、彼だって潮音ちゃんがどんな形であれ元気でやっているのが一番嬉しいはずだと思うよ」


 しかしここで、潮音は首を横に振った。


「…いや、自分が気になっているのはそんなことじゃないんだ。これまで一緒に水泳の練習をやっていた椎名が、どんどん自分の手の届かないところへと行っちゃいそうな気がして…。それに比べりゃ自分は何やってるんだろうって思ってるんだ」


 すると流風は、にっこりと笑顔を浮べながら潮音を諭すように言った。


「そんなときは焦ったってどうにもならないよ。こういうときこそ、落ち着いて自分は何がやりたいかよく考えてみりゃいいじゃん。もういっぺん水泳をやってみたいなら、選手になって大会に出るとかそんなこと考えないで、自分の好きなようにやってみればいいじゃない」


「でもバレエだってやってるし、松風は勉強だって大変なのに、水泳部まで手が回らないよ…」


「だからそうやってあまり気を重く持たないで、自分のペースでやりたいことをやってみりゃいいじゃん。バレエがやりたくなったら、森末先生も紫ちゃんも、そして私もいつでも歓迎してあげるよ」


「ありがとう…流風姉ちゃん。話してて少し気が楽になったよ」


 そのときの潮音の表情からは、多少なりともわだかまりが消えて少しすっきりしたように見えた。



 やがて高校水泳の県大会の当日の日曜日が来た。会場には潮音だけでなく、暁子と優菜も連れ添っていた。


「やっぱり暁子や優菜も椎名のことが気になるのかよ」


「うん…あんたが椎名君のこと気にしてるの見てると、あたしまで心配になるからさ…」


「ほんとに暁子って世話焼きだな。そこが暁子のいいとこだけど」


 どこか不安そうな暁子に比べて、優菜は元気そうな表情をしていた。


「私はいちおう今でも水泳部員やからな。うちの水泳部は、とてもこんな大会出られるだけの実力なんかないけど」


 潮音たちは観覧席に腰を下ろすと、県内から選りすぐった強豪校の選手たちの競技に思わず見入っていた。


「やっぱこういう大会に出る選手って、みんなすごいわあ。女子の選手かて、みんな筋肉モリモリやん。表情からして違うで」


 優菜の感慨を潮音は黙ったまま聞いていたが、潮音も内心では彼女たちには自分が逆立ちしたって勝てそうにないと感じていた。しかしそれでも、女子の選手たちが熾烈な競争を繰り広げているのを見ていると、潮音も自分が中学の水泳部で練習していた頃を思い出して、胸が熱くなるのを感じていた。


 やがて浩三が出場する自由形の予選の時間になった。潮音は浩三が出場するところを目で追ったが、プールサイドに並んだ選手たちを目の当りにすると、その精悍な顔つきといい鍛えぬいた肉体といい、いずれも浩三ですら一筋縄では太刀打ちできない相手ばかりだということは潮音の目にも明らかだった。潮音はあらためて、中学の水泳部で少し腕を上げた程度で得意になっていた自分は、井の中の蛙に過ぎなかったことを感じずにはいられなかった。


 潮音は飛び込み台に上がった選手たちが揺れるプールの水面を見つめるのを、ただ拳を握りしめて固唾を飲みながら見守っていた。やがてホイッスルが鳴ると、浩三たちは一斉にプールの中へと身を躍らせて一心に水をかき始めた。潮音は浩三の泳ぎを必死に目で追いながら、自らも引き込まれそうになっていた。


 浩三がゴールに戻ってきたのは、トップの選手が悠然とゴールを決めてからだいぶ後だった。浩三がぎりぎり決勝に進める成績だったことに潮音は安堵したが、浩三はまだまだだとでも言いたげな、物足りなさそうな表情をしていた。


 他の競技には浩三と同じ南稜高校の水泳部の選手も出場していたが、彼らはいずれも浩三よりも実力が抜きんでているのではと思えるような選手ばかりだった。潮音はそのような実力のある選手たちと一緒に練習したら、浩三が自信をなくすのも無理はないと内心で同情した。


 そしていよいよ、浩三が出場する自由形の決勝の時間が来た。潮音は暁子や優菜と一緒に、祈るようにして浩三の泳ぎを見守ったが、浩三といえども決勝に出場した選手たちには全く歯が立たなかった。浩三は競技を終えてプールサイドに上がってからも、悔しそうに唇を噛みしめていたが、潮音は中学生のときには浩三のこのような表情など目にしたことがなかっただけに、もし自分が浩三の目の前にいたとしても、彼にどのように声をかければいいのかわからなかった。さらに水泳部のマネージャーをつとめている玲花も、心配そうな表情で浩三を見守っていた。


 さらに競技は学校対抗のリレーへと続いたが、そこには南陵高校も出場していたにもかかわらず、浩三は選手に選ばれていなかった。南稜高校のリレーのチームそのものはスムーズに泳ぎを引き継いで、優勝するほどの成績を収めたとはいえ、リレーに出場する選手を見送る浩三の心中はどんなものだろうと潮音は気になっていた。



 大会の会場を後にするときは、暁子や優菜もいささかくたびれたような、神妙な表情をしていた。


「やっぱ県大会にもなるとレベルが違うよね。これでインターハイとかになったらどうなるんだろ」


「それに比べたらうちの高校の水泳部なんてお遊戯みたいなもんやわ。…でも椎名君、中学におった頃は泳ぐのが楽しそうやったのにな。今は見えへんプレッシャーと戦こうとるのがわかって、見てられへんかったで」


 そこで潮音は優菜に答えた。


「そりゃ大会で入賞を目指すのは、『泳ぐのが楽しい』なんて言っていられるような甘い世界ではないことはわかってたつもりだったよ。でも今日生で大会を見て、あらためてどんな厳しいところなのか思い知ったよ」


 そこで暁子が口をはさんだ。


「でも椎名君…自分がどうして泳ぐのかという目標まで見失っていなければいいのだけど…」


 そこで潮音ははっと息をつかされた。潮音の心の中には、「自分がどうして泳ぐのか」という暁子の言葉がいつまでも残っていた。


 潮音は帰宅してから、玲花のSNSにメッセージを送った。


『今日の大会見に行ったけど…椎名は残念だったね。でもあれだけレベルの高い大会見てると、椎名がどれだけ大変だったかと思うよ』


 それに対して玲花は、そっけない返事をするのみだった。玲花ですら、浩三をどのように励ますべきなのか戸惑っているようだった。


『応援に来てくれてありがとう』


『椎名にはまずはゆっくり休んで、次に備えるように言ってくれ。それに結果がどうであろうと、尾上さんには椎名のことを支えていてほしいんだ』


『なんでそんなこと言うん? 藤坂さんかて椎名君のこと応援したらええやん』


 そこで潮音は、ためらいがちにSNSに返信した。


『そりゃ昔だったら、一緒にプールで泳げば多少のいやなことなんか忘れられたかもしれないよ…。でも今までこわかったんだ。水着を着た今の自分の姿を椎名に見られるのが』


『藤坂さん…あまり無理せんといてよ』


『でも今日の椎名の姿を見ていて、自分も覚悟が決ったんだ。椎名があれだけ頑張ってるのに、自分ばかりが逃げていられないってね。だからいっぺん、椎名と一緒に泳いでみたいと思ったんだ。そうすりゃ椎名も中学のときのこと思い出して、少しは自信取り戻すかもしれないと思ったんだ』


 潮音が返信で大胆な提案をしたのには、玲花も腰を抜かしたようだった。


『藤坂さん…ほんまにそれでええの? だいいちどこのプールで泳ぐんよ』


『中学のときによく行っていた市営のスポーツセンターでどうかな。椎名も一日くらい外出の許可が下りないだろうか。これから期末テストだから、七月になって期末テストが過ぎてからになると思うけど』


『椎名君には一応話してみるけど…くれぐれも無理せんといてよ』


 潮音は玲花とのチャットを終らせてからも、内心では不安が消えなかった。しかし潮音は、ここまで来た以上後には退けないと半ば強引にも思い込むことで、その不安を打ち消そうとした。

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