第三章・エトワール(その2)

 その日の放課後になると、潮音と暁子、美鈴は紫と待ち合わせて、クラブの見学に行くことになった。


 紫が最初に潮音たちを案内したのはテニスコートだった。そこではテニス部の部員たちが練習を行っていたが、その中には長束恭子ながつかきょうこの姿もあった。しかし恭子は紫の姿を見ると、さっそく紫のもとへと駆けてきた。


「峰山さん、今日はどないしたん」


「今日は高等部から入った子たちにクラブの案内をしてるの」


「私は峰山さんとも何回かテニスをやったことがあるけれども、めっちゃうまかったやん。峰山さんもテニス部入ればええのに」


 紫と話しているときの恭子は、どこか上機嫌で嬉しそうな表情をしていた。


「ごめんね恭子。私は生徒会の活動とバレエがあるから学校のクラブには入ってないの」


 そこで潮音は、やや気恥ずかしそうに紫に言った。


「私…テニスのこととか全然知らないけど、峰山さんがテニスやってるとこはちょっと見てみたいな」


 実際に潮音は、紫だったらテニスウェアを着てもよく似合いそうだと内心で思っていた。しかし恭子は、そのような潮音の態度にいささか気づまりな視線を向けていた。


「藤坂さんって高等部から入った割には、峰山さんとえらい仲良さそうやん。今日かてこうやって峰山さんがわざわざクラブの案内するなんて」


 その恭子の言葉を聞いて、潮音は少々むっとしたようだった。


「悪い? 私は峰山さんと小学校のときに一緒のバレエの教室に通っていて、高校で久しぶりに一緒になったからいろいろ話してるだけだけど」


 潮音と恭子の間に少々気まずい空気が流れたので、紫はあわてて場を取り持った。


「恭子もそろそろテニスの練習戻った方がいいんじゃない? これ以上ここにいてテニス部の練習の邪魔しちゃ悪いから、次のクラブに行きましょ」


 恭子がどこか不服そうな表情を浮かべながらもテニス部の練習に戻ると、紫たちもテニスコートを後にした。


 次に紫たちが向かったのは体育館だ。体育館の片隅にある武道室では、潮音たちより一年先輩にあたり、今の高等部で生徒会長をつとめる松崎千晶まつざきちあきが中心になって剣道部が練習を行っていたが、その緊張の糸がぴんと張り詰めた雰囲気を目の当りにすると、潮音たちはおいそれと声をかけるのも憚られた。


 さらに体育館ではバスケットボール部が練習を行っていて、吹屋光瑠ふきやひかるが自らもパスやドリブルの練習をするだけでなく、中等部の生徒たちにきびきびと声がけを行い練習の面倒を見ていた。それを見て、美鈴はふとため息を漏らしていた。


「うちは身長ないからなあ。吹屋さんくらいまではいかんでも、もうちょっと背高かったらバレーボールとかバスケもできとったと思うんやけど」


 それを聞いて紫は、スポーツの得手不得手は身長だけで決まるものではないと美鈴をなだめていたが、潮音は自分自身中学生のときは身長が伸びないことを悩んでいただけに、美鈴の悩みも理解できた。しかし潮音は、その自分自身が女になると周囲の少女たちと比べてもそこまで背が低くないことに対して、いささか複雑な思いを抱かずにはいられなかった。


「でも吹屋さんって中等部の子の面倒もちゃんと見おるやん。これじゃあ学校の中で信頼されるはずやで」


 その一方で体育館の半分では、体操部が練習を行っていた。しかしその体操部の部員たちの中では、平均台で競技の練習を行っている、青を基調にしたレオタードを身にまとった一人の少女が、ひときわ際立った存在感を放っていた。その少女こそ、潮音が昼休みにカフェテリアで出会った榎並愛里紗えなみありさだった。


 潮音はいつしか、平均台の上で華麗に演技を行う愛里紗の姿から目を離すことができなくなっていた。レオタードは愛里紗の均整の取れたプロポーションを余すところなく強調していたが、さらにそこから伸びた贅肉のないすらりとした手足、全身がバネになったかのような軽やかで繊細な、しなやかな動き…しかし潮音が何よりも心を引きつけられたのは、練習を行っている最中の愛里紗の真剣なまなざしと、きりりと引き締まった表情だった。


 愛里紗が一通り練習を終えて平均台から降りると、潮音は思わず拍手をしていた。愛里紗もそれに気がつくと、潮音たちに顔を向けた。


「あら。今日昼休みにカフェテリアにいた子たちね。さっそく体操部の練習を見に来てくれたのかしら」


 愛里紗は最初こそ潮音に微笑みかけたものの、その傍らに紫の姿を見ると、少し顔色を変えた。


「峰山さんも一緒だったの」


「うちのクラスの高等部から入った子たちに、クラブの案内をしてたのよ。榎並さんこそ相変らず体操の練習に精が出るじゃない」


「峰山さんと一緒と言うのがちょっとひっかかるけど、興味があるならいつでも体験入部に来ればいいわ。でも体操は練習も厳しいわよ。ちょっと油断をしたら大ケガをするような危険なスポーツだからね」


 そこで紫が口を開いた。


「私たちも愛里紗の練習の邪魔しちゃったかしら。そろそろ失礼するわ」


「誰もそんなこと言ってないでしょ。高等部から入ってきた子の前でそんなこと言わないでよ」


 そして愛里紗は少々いやそうな顔をして紫にぷいと背を向けると、体操部の練習に戻っていった。


 潮音が体育館を後にすると、美鈴は潮音に声をかけた。


「あの榎並さんって、なんであんなに峰山さんにつっけんどんな態度取るんやろ。せっかくあんなに体操うまいし、レオタード着たってスタイルええのに。うちはとてもやないけど、あんな体操できへんわ」


 その美鈴の発言を聞いて、紫は少し困ったような表情をした。


「愛里紗は私とは中等部の生徒会長の座を争ったこともあったけど…たしかに体操部の練習もしっかりやりながら、生徒会や文化祭の実行委員の活動だってやってたんだから大したものよ。でも…だからこそ私はあの子には負けたくないの。私もちょっと意地を張っているところがあるかもしれないけど」


 潮音は生徒の間にも、紫を支持するグループと愛里紗を支持しているグループが対立しているという話を小耳に挟んでいたので、あらためてこの学校にはいろいろ難しいところがあるのだなとひしひしと感じていた。しかしその一方で、潮音の心の中からはレオタードを身にまとって平均台の上で演技を行っていた、愛里紗の華麗な姿がいつまでも離れなかった。


 最後に潮音たちが向かったのは校内の温水プールだった。潮音たちはギャラリーからプールの中を見守るだけだったが、そこでは水泳部の部員たちがプールで練習を行っていた。松風女子学園の水泳部は部員の数も多くはなく、活動も決して活発とは言えないようだったが、それでも練習している姿を目の当たりにして、潮音の心の中にも中学校のときの、プールが使える夏の間は学校のプールで練習に明け暮れた日々のことが浮かんできた。潮音はプールの揺れる水面を眺めながら、制服の中で全身に血潮がたぎるのを感じていた。


 そのような潮音の心中を、傍らにいた紫も察したようだった。


「藤坂さん…中学で水泳部に入っていたのよね」


 そこで潮音は黙ってうなづいたが、紫はどこか心配そうな表情をしていた。やがて紫は、その場を取りなすように、潮音たちに声をかけた。


「もう遅くなったし、そろそろ家に帰った方がいいんじゃないかしら。教室に戻って帰る支度をしましょ」


 一年桜組の教室に戻るついでに、潮音たちは礼法室で、華道部が活動を行っているのを少しのぞいていった。そこでは高等部の副生徒会長でもある椿絵里香つばきえりかがおっとりとした態度で潮音たちを迎えた。


「あなたたちは峰山さんの同級生なのね。ゆっくり活動を見ていくといいわ」


 しかし潮音は、絵里香たちがきちんと正座をして背筋もぴんと伸ばし、流れるような所作で茶を立てているのを見ると、とてもこのクラブにはついていけそうにないと思った。潮音は美鈴の横顔をちらりと見たところ、美鈴も同じように感じているようだった。


 潮音たちが一年桜組の教室に戻り、帰り支度を済ませると、紫は美鈴に声をかけた。


「天野さんは先に帰ってくれないかしら。私は藤坂さんと石川さんとちょっとだけ話すことがあるの」


 美鈴がやや気がかりそうな顔をしながら一年桜組の教室を後にすると、さっそく紫は潮音に尋ねた。


「どう? どこか入りたいクラブあった?」


「まだちょっと決められないかな…。私は中学では水泳部にいたから、ちょっと水泳部は気になったけど」


 そこで紫は、少し顔を曇らせながら潮音に言った。


「実を言うと、私が気になったのもそこなの。藤坂さん…ほんとに女子の水着着て水泳とかできるの?」


「それなら心配いらないよ…。女子の水着着てプールで泳いだことはあったけど、そのときはむしろ自分が女になったことも忘れられて楽しかったな」


 その潮音の言葉を聞いて、紫も何かしらほっとしたようだった。


「でもまだ水泳部に入るって決めたわけじゃないよ。高校入ったのを機に、何か新しいこと始めてみたいという気もちょっとあるし」


「焦らずにゆっくりと決めるといいわ。…そうだ。藤坂さんももういっぺん森末先生のところでバレエを始めてみない?」


 紫が笑顔で言うのを聞いて、潮音は一瞬意表を突かれたような表情をした。


「無理にとは言わないけど。でも森末先生だって藤坂さんのことはきっと覚えてるだろうし、教室に行ってきちんと話したら、藤坂さんのことだってきっとわかってくれると思うよ。じゃあ私はちょっと生徒会室に寄ってから帰るから、石川さんと先に帰ってて」


 潮音と暁子が校舎を後にすると、校門では美鈴が待っていた。


「さっき峰山さんは藤坂さんと話があると言うとったけど、何の話やったん?」


「別に大した話じゃないよ」


「どうやら峰山さんはうちらの面倒ちゃんと見てくれて良かったな。どこのクラブ入るかはまだもう少し考えてみたいけど」


 しかしここで、美鈴は声のトーンを変えて言った。


「さっきテニス部行ったときの長束さんの態度、何かムカつかへんかった? 藤坂さんのこと変に嫌っとるような感じしたし。そもそもあの長束さんって、生徒会のメンバーらしいけどいつも峰山さんにベタベタして、なんか高等部から入った子バカにしとるような気がして、どうも好かへんわ」


「あまりそんなことは言わない方がいいよ」


 暁子は美鈴をたしなめたが、潮音も先ほどのテニスコートで恭子が自分に向けた視線が気になっていた。

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