第三章・エトワール(その1)
オリエンテーションから一週間以上が過ぎて四月も半ばを過ぎると、生徒たちも新しい学年の雰囲気になじんで校内も落ち着きを見せてくる。そのようなある日の昼休み、潮音は暁子と優菜、天野美鈴と一緒に、春の陽光のさしこむ校内のカフェテリアでおしゃべりに花を咲かせていた。優菜は美鈴とはクラスが違うにも関わらず、潮音や暁子と同じ中学に通っていたということで、すぐに打ち解けたようだった。
このような場合、話の口火を切るのはたいてい元気で活発な美鈴だったが、その美鈴もその日はいささか疲れ気味のようだった。
「うちの学校ってまだ授業始もうたばかりやけど、やっぱり勉強難しいわ。たしかに中入生は勉強でももう先に行っとるから、うちら高入生はそれに追いつかなあかんけど」
ちなみに松風女子学園では、紫や光瑠のような中等部から入学した生徒を「中入生」、潮音や暁子のような高等部から入学した生徒を「高入生」と呼ぶのが習わしである。
「英語や数学は中入生とは別の授業でやってるけど、授業中に先生に当てられてもちゃんと答えるのは、中入生たちだもんね…。峰山さんや寺島さんなんかやはりすごいよ」
暁子も学校の授業のペースについていくのには、少々苦労しているようだった。潮音もその件についてあまり多くをしゃべろうとはしなかったものの、勉強で大変なのは同じようだった。
そのときの潮音の顔を見て、暁子はふと考えていた。
──潮音は入試の直前にあんなことになって、それでも受験しようとして南陵に落ちて、松風にはなんとか補欠合格みたいな形で入れたんだものね…。そりゃ勉強に苦労するのも仕方ないよ。
そこで優菜も口を開いた。
「あたしらのクラスでは、委員長の
「うちらのクラスの峰山さんもそうやけど、あんな美人で勉強も部活もできるんやから、ほんますごいよね…。そうやって高入生が変に中入生に対して気後れして、仲間ばかりで群れて固まってまうのはようないけど、クラスの副委員長としてはどないすりゃええか困るわ」
美鈴がため息混じりに話すと、潮音が美鈴をなだめるように言った。
「もしかして天野さんって、自分が女の子らしくなくてかわいくないとか思ってない? 全然そんなことないよ。天野さんはその元気さで、クラスを明るくしてるじゃん。副委員長の仕事だって引き受けてちゃんとやってるし」
「藤坂さんかてそう言うとるけど、藤坂さんはそんなきれいな長い髪しおるやん。うちやったらそんな髪絶対手入れできへんわ」
そう言う美鈴の髪は、ボーイッシュで快活そうなショートヘアだった。暁子と優菜は、潮音が美鈴を相手にそのような話をするのを、いささか複雑そうな面持ちで聞いていた。そこで美鈴は、話題を変えることにした。
「ところで石川さんたちは、部活どこに入るか決めたん? あたしは中学でも陸上やっとったから、陸上部に入ってみようかなと思とるんやけど、ダンス部もええなあと思って、ちょっと迷うとるんや」
しかし暁子は、美鈴よりも部活動を選ぶのには戸惑っているようだった。
「それなんだけどね…松風ってけっこう勉強も大変そうだから、あまり練習とかきつくないところがいいかな。おとなしく手芸部にでもしとこうかと思うんだけど。でも天野さんなら、スポーツ得意そうだから陸上部やダンス部入っても大丈夫じゃないの?」
潮音は暁子が手芸部でかわいらしいマスコットなどを作っているところを想像して、思わずほくそ笑んでしまった。そこで美鈴が優菜に顔を向けると、優菜も口を開いた。
「あたしは中学で水泳部におったんやけど、せっかく松風には立派な温水プールもあるから、もういっぺん水泳部入ってもええかなと思とるんやけど…ここやったら一年中泳げるし、夏に日焼けを気にする必要かてあらへんし」
潮音はその優菜の言葉を聞いて、少し考え込んでいた。たしかに優菜の言葉にも一理あったし、潮音も大会に出るとまではいかなくても、水泳を続けてみたいという気も多少はあったものの、ほかにもやれることはないかと少々迷っていた。
「藤坂さんも塩原さんと一緒に中学で水泳部におったんやろ? 水泳部入るかどうかは別として、いっぺん学校のプールで泳いでみいへん? 藤坂さんが泳ぐとこいっぺん見てみたいわあ」
美鈴は屈託のない表情で話していたが、暁子と優菜は潮音の中学のときの事情を知っていただけに、いささか複雑な表情をしていた。
ちょうどそのとき、優菜の背後に人の気配がするのを感じたので、優菜が振り向いてみるとそこにいたのは
「塩原さんから話は聞いたけど、あなたたちは塩原さんと中学が一緒だったみたいね。学校にはもうなじめたかしら」
潮音は愛里紗も、整った顔立ちといいすらりとした立ち姿といい、紫に劣らないくらいの美少女だと感じていた。ただ、どこか明るく柔和な感じのする紫に比べて、愛里紗はややクールで冷たい感じがしたが、それがまた愛里紗の紫とは違う魅力かもしれないと潮音は思っていた。潮音は思わず、緊張気味に愛里紗に向かって声をあげていた。
「あの…榎並さんって体操部に入ってるのでしたよね。いっぺん練習見に行っていいですか?」
潮音はつい、その場の勢いだけで話をしてしまったが、そのような潮音に対しても愛里紗は笑顔で答えた。
「ええ、いつでもいいわよ。でもあなた、ずいぶん緊張してるけどどうしたの? それにもうすぐ予鈴が鳴るから、そろそろ教室に戻った方がいいんじゃないかしら」
愛里紗に怪訝そうな目を向けられて、潮音はますます胸の高鳴りを感じながらその場に固まってしまった。そこでようやく暁子に声をかけられて潮音は教室に戻ることにしたが、その様子を見て愛里紗はかすかに微笑みを浮かべながら言った。
「高入生ってなんかかわいいわね。うぶだけど一生懸命なところが」
その言葉には、暁子や優菜、美鈴までもが顔を赤らめていた。
ちょうど同じころ、
琴絵にとっても、「LGBT」と呼ばれる人たちがいるということは知識としては知っていた。しかし潮音のようなケースは、琴絵が本で読んだLGBTの事例の中にも見当たらなかった。これから学校やクラスで潮音とどのように接していけばいいのかと思うと、琴絵の疑念は深まっていくばかりだった。
ちょうどそのとき、琴絵は背後に人の気配を感じた。琴絵が振り向いてみると、そこには
「寺島さん…やはり藤坂さんのことが気になっているのね」
琴絵が黙ってうなづくと、紫は教室の中にいる他の生徒の姿を気にして、琴絵を人気のない校舎の隅に連れ出して話を始めた。
「私…オリエンテーションの後で藤坂さんと話してみたの。藤坂さんは自分のことを特別扱いしないで、自然に接してほしいと言ってたんだけど…やはりちょっと情緒不安定なところもあるわね」
紫の態度はあくまでも落ち着いていた。
「『自然に接してほしい』ね…私たちはその『自然』っていうのがわからないから困ってるんだけど。『自然』なんて人によってみんな違うわけだし」
「…寺島さん、もしかしてあなた自身も学校でみんなと『自然に』つき合えないとか、そんなこと思って悩んでるわけじゃないでしょうね。だから藤坂さんのことが気になっているのかしら」
紫に言われて、琴絵はやや顔を伏せて語調を強めた。
「そんなこと関係ないでしょ」
そこで紫は、琴絵をなだめるように言った。
「私は寺島さんのたくさん本読んでいろんなこと知ってるところだけじゃなくて、自分自身の考えをきちんと持って行動するところが好きなの。私は寺島さんの研究発表にはいつもすごいと思ってるし、百人一首大会だって活躍してるじゃない。変に友達と群れるばかりが学校でうまくやってくことじゃないわ」
「それって褒めてるの?」
紫の無邪気な笑顔にいささか戸惑いながらも、琴絵は心配そうに口を開いた。
「あの藤坂さんだって、自分の好きなものややりたいものを見つけられたらいいんだけどね…」
そこでふと、紫の心に一つの考えが浮かんでいた。それは小学生のとき、女の子たちに混じってバレエの練習に取り組んでいた潮音の姿だった。そのころの紫にとっては、バレエ教室に男の子が通っているだけでも珍しかったが、それでもまじめに練習に取り組む潮音の姿には何となくひきつけられるものがあった。
「どうしたの? 峰山さん」
「いや、何となくだけど、私は藤坂さんのことなら大丈夫そうな気がするの。…ともかくこのことは、本人がいいと言わない限り、学校の中で大っぴらにしない方が良さそうね。あまり波風立てたら、それこそあの子が落ち着いて学校行けなくなるわ。寺島さんこそクラスの副委員長として、しっかりフォロー頼んだわよ」
琴絵が黙ってうなづくと、ちょうどそのとき昼休みの終りを知らせる予鈴が鳴った。二人が教室に戻ろうとすると、そこでばったり潮音と暁子、優菜と美鈴の四人組と出会った。
「みんな、昼休みはどうしてたの?」
「いや、さっきまでカフェテリアでクラブどこにしようかとおしゃべりしてたんだ」
潮音が答えると、紫は笑顔を浮かべて言った。
「だったら今日の放課後時間ある? ちょっとだけ、部活やってるところを見学しに行かない? そりゃ全部は紹介しきれないけど」
「え、ほんとにいいの?」
潮音は思わず顔をほころばせたが、同時に紫が潮音に対して気を使っているということも感じられて、いささかの気後れも感じずにはいられなかった。
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