第二章・嵐の予兆(その5)

 潮音が控室の中の椅子に腰を下ろすと、美咲はお茶を出してやった。


「夜中に寒い外にいて、体冷えなかった?」


 美咲が心配そうに尋ねても、潮音は口を閉ざしたままだった。


「やはり緊張してるのかしら。そりゃそうよね。さっき峰山さんとは何話してたの?」


 美咲の口調はあくまで明るかった。潮音はそのような美咲の様子に、かえって気詰りなものを感じた。そこで潮音は、身体をこわばらせながらようやく重い口を開いた。


「私…今になって何のためにこの学校に入ったか、ここで自分は何をしたいのかわからなくなってきたんです。入試のときはただ行ける学校があればいいというだけで、何も考えずに無我夢中で松風を受けたけど」


 潮音の困惑したような態度を前にしても、美咲はとりすました態度を取っていた。


「そんなことばかりクヨクヨ考えていたって仕方ないわね。そんなこと言ったら先生だって、なぜ自分がこの学校で先生やってるのかわかんなくなることなんてしょっちゅうよ。悩んでる暇があるなら、今からでもみんなのところに行ってパーッと遊べばいいのに」


 それでも潮音は、身構えるような様子を崩そうとしなかった。


「暁子は…いや石川さんはよく自分にこう言うんです。『あんたはあんたなんだから、あんたらしく自由にしてればいい』って。でも自分は…その『自分らしく』ということがどういうことかわかんないから、こんなに悩んでいるのに」


 この潮音の言葉を聞いたとき、美咲は少しどきりとした表情を浮かべた。しかし美咲はそこでしばらく考えた後で口を開いた。


「それはあなただけの問題じゃないわね。私は松風に生徒として通ってた頃から、そして今こうして先生になってからも、そんなに太ってるわけでもないのに無理なダイエットに走って摂食障害になったり、いじめにあったり、一見恵まれた家庭で優等生として育ったように見えながら、むしろそのために親といざこざを抱えてぐれちゃったり、私はそんな女の子を今まで何人も見てきたわ。それに『自分らしく』なんて、学校卒業して社会に出てからの方が、ずっとわからなくなるものよ。私と同い年の友達だって、一流企業に就職した人や、すごくいい旦那さん見つけて玉の輿に乗った人もいるけど、みんな多かれ少なかれ、それでいろいろ悩んでるわね。それに比べりゃあなたはこうして家族の支えでちゃんと学校に入って、石川さんのようなあなたのことを理解してくれる友達もいて、それだけで十分大したものよ」


 そこで潮音は首を振って言った。


「わかんないんです。学校に行って勉強して友達と遊んでなんて、みんなが普通にやってることだし、自分だってあの日まではそうだったのに、なぜそれが自分だけはすごく大きなことのように言われるのか」


「でもあなたは、今こうしてちゃんと学校に入って、みんなと一緒に行事にも参加してるわけでしょ? ちゃんと毎朝起きてご飯を食べて、学校なり職場なりに行ってそこでやることやって人とつき合って、それこそが一番大切だけども、一番難しいことなのかもね」


 そこで潮音は思わず声をあげていた。


「自分は特別扱いはしてほしくないんです。ただ入院する前のように、その『普通』の生活が送れるようになりたいだけなのに」


「そりゃあなたのそういう気持ちだってわかるけど、ほんとの自分なんて立ち止まって考えてばかりいるのではなくて、失敗してもいいからいろんなことやって、いろんな人とつきあって、その中からしか見えてこないものだわ。私だってここで先生やってて、そこでいろんな生徒の相手して、教わることや自分自身成長できたと思うことがいっぱいあるもの。何が普通かなんて人によってみんな違うかもしれないけど、あなたは焦らずにその普通を見つけていけばいいわ」


 そこで潮音は、自分の身体が変ってからしばらくの間、自宅にこもっていたとき、そしてそのような自分自身すら信じることができずにもがいていたときのことを思い出していた。潮音が美咲の言葉に深くうなづくと、美咲もその潮音の様子に納得したように大きく息をついた。


「これ以上ここでうだうだ話しててもしょうがないから、部屋に戻った方がいいわね。ただし明日もいろいろ予定があるから、消灯時間はきちんと守るのよ」


 美咲にそのように言われて、ようやく潮音もほっとしたような表情になった。美咲は潮音にそっと寄り添いながら、潮音を控室の戸口まで送り出してやった。


 潮音が控室を出ると、ドアの前では暁子と優菜が待っていた。


「潮音…あんたがいないから心配してたんだよ」


「あたしのクラスの部屋までアッコが来るんやもの。あたしまで心配したよ」


 暁子と優菜も、見るからに心配そうな表情をしていた。潮音がその二人に付き添われて宿舎に戻る後姿を見送って、美咲は多少なりともほっとしたような気分になった。美咲がしばらく廊下に立ちすくんでいると、その背後から声がした。


「さっきの子が例の藤坂さんね。なかなか思ったより素直そうな子じゃない」


 声の主は楓組のクラス担任で、松風女子学園で美咲の同級生だった山代紗智だった。


「さっちんもあの子のことは気になってるの」


「その言い方よしてよ。生徒までまねしてるじゃない」


 そこで紗智は一瞬いやそうな顔をしたが、しばらくして少し首をかしげながら言った。


「まあたしかに、私だってインターセックスとかトランスジェンダーとかの話は聞いたことがあるけど、こういうケースははじめてだわ」


「あんた、あまり興味本位であの子に近寄ろうとするのはやめてよね」


「…でも美咲、あなたはそうやってあの子の理解者になろうとしてるけど、ほんとにあの子のことに関して責任取れるの? あんたって昔からいつもそうだったわね。まだ学校行ってたころ、校内に迷い込んだノラ猫をこっそり飼って牧園先生に怒られたりして」


「そんな昔の話しないでよ。それに牧園先生はなんだかんだ言いながら、あの猫家で引き取って飼ってくれたじゃない」


 美咲は困ったような表情を浮かべた。


「悪いなんて言ってないでしょ。そこが美咲のいいところなんだから。美咲っていつも明るくてぽよぽよしてて純真で、だから学生のころからまわりにいつも友達がいてにぎやかだった。私がこうして先生になったって、生徒たちはみんな美咲の方に寄ってくるし。そんなとこ見てると、私ってこの仕事向いてるのかなとか思っちゃうもの」


 紗智がため息をついても、美咲はにこやかな表情を崩そうとしなかった。


「そんなことないよ。さっちんこそクールでかっこいいとか言われて、生徒からお姉さんのように慕われてるじゃん。それに私は、さっちんは頭いいから絶対女医さんか学者になると思ってたんだけどな。それが会社に就職したと思ったら、一年半かそこらでやめちゃうんだもの」


「…私だって大学で教員免許取ってたけど、自分がまさか松風で先生になってるなんて思ってもいなかったよ。私は大学院行きたかったけど家の事情だってあったからね。それにあの会社は仕事だってきつくて毎日残業だったし、上司とも人間的に合わなくてパワハラにあって、結局は体こわして次の就職のあてもないまま会社辞めたんだもの」


「私だって先生になってから二年くらいの間は毎日が戦場みたいで、クタクタになって家に帰ってたわ。親のコネでうちの学校に就職できたんだろうなんて思われたくなかったからね」


「…あんたはずっと理事長先生の娘として周囲からちやほやされているように見えたけども、それがかえってプレッシャーになっていたわけね。…でも私が会社行けなくなって家にこもっていたとき、うちの学校の生物の先生に空きができるから、非常勤講師でもいいから働いてみたらと言ってくれたのはあんただったよね」


「さっちんこそ非常勤講師をしながら夏休みには塾講師のバイトもして、教員採用試験に受かったんだから大したものじゃない」


「うちの学校がたまたま生物の先生募集してなかったら、そしてあんたがそれに誘ってくれなかったら…私なんか今ごろどうなってたかわかんないよ。でもあんたは私がニートみたいな生活送ってたときだって、『働け』なんて言わなかったよね」


「この仕事やってるとよく聞かされるよ。子どもが不登校や引きこもり、ニートになったときの親の決まり文句は、『あんなにまじめで素直で、いい子だったうちの子がなぜ…』だってね。それに私はわかってたよ。さっちんはただ疲れて休んでるだけだって。そしてさっちんのことだから、いつかはきっと自分で立ち上がるだろうって」


「…私が非常勤講師になって半年たった秋ごろに、来年でもいいから教員採用試験を受けて正規の教員になるように勧めたのは牧園先生だったんだ。私が尻込みしても、私ならきっと先生としてやっていけるって」


「私が生徒だった頃は、牧園先生は苦手だったけど」


「あんたは牧園先生からしょっちゅう叱られてたもんね。牧園先生はあんたが理事長の娘だからといって手加減するどころか、むしろだからこそほかの子より厳しくあたってたんじゃないかしら…でもあの藤坂さんも…学校行ってるうちはまだいいかもしれないけど、これから社会に出て女としての壁に直面したらどうなるか…心配だわ」


「さっちんの心配する気持ちもわかるわ。あの子もさっき少し、自分はこの学校に何で入ったのかわかんないとか言ってたし。…でもこればかりは本人でなんとかするしかないわね。それに、なんとなくだけど、あの子なら大丈夫だろうって、そんな気がするの。もしそうじゃなかったら、あの子は今この学校にいないわね」


「でもうちの学校って制服にスラックスもあるのに、どうしてみんなスカートばかりはいてるんだろう。変な同調圧力みたいなものがなければ、あの子も少しは学校に行きやすくなると思うんだけど…だいたい、女の子だからといってスカートを強制されるなんて、それ自体が人権侵害よ」


「その割にはあの子、スカートも抵抗なくはいてたわね。むしろもともと男の子だったからこそ、私たちにはわからない心理があるんじゃないかしら」


 そう言いながら美咲は、部屋の中に灯るライトが、暗いガラス窓に鏡のように映し出されるのをじっと眺めていた。しかしそこに、牧園久恵が入ってきた。


「吉野先生に山代先生、おしゃべりするのはいいけど、明日も予定があるからいいかげんにした方がいいわよ。そろそろ消灯時間だから、見回りに行きなさい」


 そこで美咲と紗智も、少々気まずそうな顔をして控室を後にした。




 潮音は暁子や優菜と一緒に宿舎に戻ると、 生徒たちの寝室のドアの前で優菜と別れた。


「私は潮音やアッコとはクラス別やけど、アッコは潮音のことよろしゅう頼んだで」


 そして暁子が潮音の背をそっと押して部屋の中に入ると、天野美鈴が快活な声で潮音を出迎えた。

「藤坂さん、どこ行っとったん。せっかくみんなでおしゃべりしたりゲームやったりして盛り上がっとったのに」


 その中には紫や恭子の姿もあった。潮音はいかにもお嬢様然とした紫も、こういう時は気さくに友達とつきあえるのだなと思った。そこでようやく、潮音はゲームの中に加われるようになった。


 しかしそこで、潮音は琴絵が、少し離れた窓際の椅子に腰を下ろして文庫本を広げているのに気がついた。そこで潮音は琴絵を見返すと、思い切って声をかけてみた。


「寺島さんもゲームすればいいのに」


 そこで琴絵もためらいがちに席を立つと、ゲームに加わった。


 そうするうちに、夜も更けていつしか消灯時間になっていた。潮音は布団にもぐりこんでからも、先ほどの琴絵の表情が気になっていた。


──あの寺島さんって子…たしかにちょっとつきあいが悪くて、クラスの中で浮いているようなところがあるけど、なんかちょっと不思議な感じのする子だな。


 潮音は布団の中でそのようなことを考えているうちに眠りに落ちていった。

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